>>NOVELS >>INDEX >>BACK >>NEXT

 


第3話 「Can You Feel My Heart Beating Fast? ―早鐘のような鼓動が聞こえますか?― 」

 

 

 郵便物をチェックし終わると、森大里は敷地内を一通り回って点検してから遅い昼食を摂った。
 すぐに子供たちの帰宅時間になった。先に帰ってきたのはもちろんキショウだ。
 自室に荷物を置いてくるのももどかしくキッチンへ飛びこむと、よく冷えたアイスティを冷蔵庫からとり出しておいしそうに飲みほす。
「今日の学校サイアク! 宿題3つもでたんだぜ。作文と絵と習字。でも習字は今度の金曜まででいいんだ」
 キショウは言いながら鼻にしわをよせた。
「家庭教師の学生は?」
「今日は来ない。だからサイアクだっつってんだろ」
 腹立たしそうにソファへと身をうずめる。
 久下家では、息子たちにそれぞれ家庭教師をつけている。
 キショウはまだ小さいので週に1度、予復習を見てもらうだけだが、哲笙には中国語、日本語の教師がつき、学校での予復習専門にもうひとりいるという徹底ぶりだ。
 その甲斐あって、彼は中国語、日本語、そして英語を流暢に話す。英語すらあまり自慢できない森大里から見たらうらやましい限りだ。
「作文は、もう半分できてるんだ。この前遠足で行った博物館のこと書いた」
 彼は得意げに言って自分のノートを開いてくれた。長いことその紙面に見入ったけれど、そこにはほんの2、3行文章が書き連ねてあるだけで、どうしても『半分』もできているようには見えなかった。
 そんなキショウのおおらかさに失笑する。
 この少年には、こういうことをしても疎んじられない何かがあるような気がしてならない。
 的航生や家庭教師の大学生が、いつもキショウさまキショウさま、と口にするのは、その危ういまでの純真さを放っておけないからか。
「『ぼくは、ティラノサウルス・レックスが、いちばん気に入りました。なぜかというと、いちばんかっこよかったからです。』」
 鉛筆でノートに書き記しながら読み上げるキショウの横で、森大里の口元が自然にゆるんだ。
「なあ、森大里は、どの恐竜がいちばん好き?」
 身を起こしてソファに両膝をつくと、隣にいる大男の肩に乗りかかるような格好で訊ねてきた。
「恐竜、ですか」
 森大里は戸惑った。彼が子供の頃は、貧しくてテレビはおろか本を買うこともままならず、興味の矛先はもっぱら遠い海岸線に浮かぶ軍艦や船、ときどき空を横切る飛行機などに向いていたからだ。
 当然恐竜の種類などよく知るはずもない。
「Tレックス? ブロントザウルス?」
「キショウさまはよく知ってるんですね」
「……なんだ、お前は知らないのか。早く言えばいいのに。待ってろ、本見せてやる!」
 通学カバンの中から森大里の手のひらに収まるくらいの小さな本をとりだしてくれる。室内の観葉植物に水をやっていたメイドが心なしかクスリと笑ったように見えた。
「ほら、これがTレックス。こっちがトリケラトプスで、ブロントザウルスはこれ!」
 小さな人差し指の先を追って、精密な絵に目をやった。大きな顎をした狂暴そうなオオトカゲが、もっとずっと小さなトカゲのような生き物を襲っている場面だった。
「どれが好き?」
「……そうですね、ブロントザウルス、かな」
「えーッ、こいつデカいけど、Tレックスよりずっと弱いんだぜ。食べられちゃうよ」
 興奮したように言ってキショウがソファの上でとびはねる。
 森大里は片手で彼の背中を押さえて落ち着かせた。すると、それを親愛のしるしと受け取ったのか、キショウは右腕を森大里の首にまきつけてくる。
「Tレックスがいちばん強くてかっこいいよ。あとはねえ、こいつも強いんだ」
 キショウの指が、本のページを繰ってゆく。
「ブロントザウルスだって、たくさん集まればTレックスを倒せるかもしれないでしょう?」
「……お前、ほんとに何も知らないんだな。ブロントザウルスは、草を食べるヤツなんだよ」
「はあ」
「草を食べる恐竜は、他の恐竜を襲ったりしないんだ」
 さっきよりずっと得意そうになった瞳が森大里を見た。
 オトナのくせに、こんなことも知らないなんてまったくしょうがないな、とでも言いたそうなその眼差しに、思わず吹き出したくなる。
「さっき、絵の宿題があると言ってましたね。恐竜の絵はどうです?」
「ううん、恐竜はもう前に描いちゃったから、今日はデュークにする」
 森大里の首から腕を外すと、カバンからクレヨンの入った箱を取り出して答えた。
「デュークに?」
 聞き返した時にはもう、キショウはソファを立ってポーチから外へ出るところだった。
 すぐに両腕に子猫を抱えて戻ってくる。そっと向かいのソファにおろしてやると、デュークは萌えるような黄緑の瞳を動かして、興味深々という様子であちこちをかぎ回りだした。
「こら、じっとしてろ!」
 キショウはかなり苦労してスケッチブックの上でクレヨンを走らせたが、なかなか思うように描けないのか何度も舌を打つ。
 それでも一度輪郭をとってしまえばあとは見なくても描けるとばかりに、10分もたたないうちに黄色のクレヨンはネコを形作りはじめ、その上に黒のまだらをのせた。
 初めは恐竜の絵本に見入っていた森大里も、キショウがネコの口にオオトカゲをくわえさせたのに気づいて彼の手元に視線をうつした。
「じゃーん、オレ様のデュークはTレックスだってやっつけるんだ!」
 その絵は確かに稚拙で、輪郭もスケールもめちゃくちゃだった。
 けれど、ネコの斑点模様や若葉色をしたその瞳、恐竜のするどいカギヅメなど、大人の森大里でも惹きつけられるほどよく描きこんであった。何より画用紙の白い部分がほとんどない。
 普通の8才児がどの程度の画力なのか森大里には知るすべもなかったが、それでも、ここまでぬり込められるものだろうかという気がした。実際、いま描いてみろといわれても、自分にこれだけの観察眼があるかどうか疑わしい。
「……なんだまた絵の宿題か」
 背後からそんな声がして振り返ると、哲笙が立っていた。ソファに並んで座っている森大里とキショウを交互に見て、それから弟のスケッチブックをのぞきこむ。
「たまには漢字の書き取りもしろ、またこないだみたいな点とると渓蘭クビだぞ」
「ならねーよ! うるせー、バカ! オレが一番いい生徒だって言ったんだからなッ」
「はいはい。物忘れの『いい』生徒ね」
 渓蘭ケイランというのは家庭教師のことだ。
「……大学生が、お前みたいなガキ相手にするわけねえだろ」
 哲笙はバックパックで弟の頭を軽く小突くと、キッチンへ歩みながら世にも残酷な言葉を吐いた。
「だまれッ、哲笙なんかキライだッ!!」
「じゃあとっとと出てけよ」
 思春期まっただなかという感じの兄はまるで容赦がない。森大里の口が苦笑に歪んだ。
 自分も兄たちにはよくいじめられたものだが、彼らとの確執は深くなかったように思う。少なくとも、初恋の相手をとりあった記憶はない。
「だあれ、大声出してるのは?」

 

 

 歌うような声がして、美凪がリビングに入ってきた。森大里は軽く目礼をする。
「母ちゃん、渓蘭クビになんかしないだろ?!」
 リビングを横切って森大里の向かいのソファに足をすすめた彼女は、次男に飛びつかれて眉を上げた。
「え? だれをクビ?」
「渓蘭! なあ、しないよな、な?」
 すると、母は一瞬わけがわからない、という表情になって森大里を見る。仕方なく説明した。
「その、キショウさまがちゃんと書き取りの勉強をしないとそういうことになる、と哲笙さまが……」
「とっとと出てけって言った、あいつ。キライだ、哲笙なんて」
 美凪は腰にまとわりつく彼にため息をついて、向かい側のソファに腰を下ろす。キショウはくっついたまま俯いた。
「キショウ、ね、聞いて。渓蘭はクビになんかしませんよ」
「ホント?!」
「本当よ。でもそれは、キショウががんばってればのお話。この前みたいなことだとお母さんもちょっと考えちゃうわねえ」
「じゃあ、今度の書き取りテストはがんばるから!」
「本当かなあ……?」
「ホントッ!」
「じゃあ、何点ぐらいとれる?」
「えっと……100点――は無理だから、きゅ、95点ぐらいかな」
 現実的な点数に母は笑顔になる。森大里は笑いをこらえて横を向いた。
「ほら、約束できるでしょ? お兄ちゃんも、キショウに約束してほしかっただけなの。本当は心配してるのよ。キショウの大好きな渓蘭がやめないといいなあ、って……でも、時々イジワルな言葉も出ちゃったりするの。別にキショウのことが嫌いなんじゃないのよ。だから許してあげて。お前がお兄ちゃんの年になったとき、お母さんもそうやって許してあげるわ」
 ――鮮やかな手並みと呼ぶより他になかった。
 キショウの不満げな顔は潮がひいてゆくように消失した。
 しばらく次男を抱きしめ優しく髪をなでていたが、美凪はやがて森大里に目を向けた。
「男の子同士って難しいわね、油断してるとすぐライバルになっちゃって……あなたの家でもそうだった?」
「僕は三人兄弟の末っ子ですから、兄たちにはよくいじめられましたよ」
「まあ、こんなに大きな弟をいじめるなんて……よほどの大男なの?」
「いえ、今は兄たちもだいぶ小さくなりました。もっとも、僕のほうが追い越してしまったんでカッコがつかないみたいですけど」
「うちの次男もそうなればいいんだけど、哲笙を追い越すのは一苦労かもね……あら、足に何か――」
 話を途中で止めて下を向く。
 キショウを体から離すと前かがみになって、裾を右手で払おうとした。
「虫? いやねえ、掃除してもらってるはずなのに」
 右足を前へ伸ばした時、ソファの下からずるりと黄色っぽい何かが裾にくっついて姿をあらわした。
 デュークだった。
 森大里には言葉を発するひまもなかった。
 美凪はすばらしく早い動作でかかとを蹴って立ちあがり、すごい勢いで地団駄を踏んだ。
「いやああ――ッ!!」
 邸内に響きわたる悲鳴に、キッチンのほうで何かをとり落とす派手な音がする。
 森大里は反射的に立ちあがった。
 美凪の悲鳴と派手な物音に怯えた子ネコは爪をひっこめ、くるりと起きあがると背中としっぽの毛を猛然と逆立てた。
「やだーッ、ネコ!!」
 美凪は横っ飛びにソファから離れ、大男の右側を通ってソファに飛び上がった。
 アイスティを飲んでいた哲笙が、何事かという顔をのぞかせた。あっけにとられたキショウが口を開けたまま見守る中で、デュークはのどからシャーッという空気音をもらす。
 ヘビが発する警戒音にも似たその声を聞いて、美凪はほとんど森大里の首に抱きついた。
「きゃあーッ、怒ってる!怒ってる!! も、森大里、お願いだからそのネコを私に近づけないで」
 恐怖のあまりバランスを崩しそうになるソファの上から、森大里のスーツにしがみつく。
 デュークは全身の毛を逆立てた。声が野生の獣じみた音にかわりつつあった。
 森大里はとっさに両腕を美凪の腰に回してからはっとして引っ込め、なるべく触れてしまわないように間をあけて支えた。
「落ち着いて――大きな声を出すとネコが怯えます。大丈夫、子ネコですよ。襲ってきやしません」
 しがみつかれたままのかっこうで宥めるが、美凪の震えは体まで伝わってきた。
 まるでその鼓動まで数えられそうなほど、ぴったりと森大里にくっついている。
「ネコは嫌いなの! キショウ、すぐに外へ出しなさい!」
 次男はとび色の瞳を大男にうつした。いまはそうするしかないだろう、という意味をこめて森大里がうなずく。
「……デューク、おいで」
 両手でそっと背中をなでて落ち着かせると、キショウは子ネコを抱き上げてポーチから外へと出て行った。
 美凪のくちびるから震えるようなため息がもれる。
「もう……心臓が止まるかと思った」
「おけがはありませんか?」
 念のためにそう訊くと、恐怖と驚愕でうるんだ鳶色の美しい瞳が森大里を注視した。
 その一瞬で、全てを忘れるくらいにどきりとした。心臓が止まるような思いをしたのは彼のほうだったのだ。
「――ずいぶんと、楽しそうだね」
 脊髄をなでられるような声がして、美凪と森大里がリビングの入り口を振り返ったのはその時だった。
「正禅さま」
 森大里の声が裏返る。
 正禅は片手に上着をかけ、もう一方の手でネクタイをゆるめると、肩が凝ったというように首を回す。なのに、鋭い眼差しはふたりのつま先から頭まで一時も離れない。
 かろうじてふれてはいないものの、両腕は今にも美凪の腰と背中を抱きかかえるようなかっこうだった。
 彼女の腕はまだ首に回されたまま。端から見たら抱き合っているようだ。
「早かったのね、夜になるんじゃなかったの」
 美凪は平然と森大里の首から腕を外して訊ねた。抑揚のない声だった。
「きみのほうこそ、たまに早く帰宅してるかと思えばなんだ? 子供みたいに大声だして、庭まで聞こえてたぞ」
「だって、いいじゃない、大声くらいだしたって。ここは私の家よ」
 黙ったままでダイニングとリビングの間に立っていた哲笙が、父と母を見て眉をしかめた。
「私は、きみをノラネコから守るためにボディガードを雇ったんじゃない」
「失礼いたしました。あの――」
「お前は黙っていなさい、森大里」
 正禅の声は穏やかだったが、それ以上言葉を続けられない圧力が森大里の肩にのしかかる。
 大男は素直に沈黙して美凪を見た。彼女は相変わらず強い瞳で夫を見ている。
「疲れたようだ。少し休むよ」
 それだけ短く言うと、正禅はふたりに背を向けて階段を上がろうとした。慌てて後を追ったのは森大里だった。
「正禅さま、お待ちくだ――」
 ぐい、と片腕をひっぱられて足をとめる。
「いいの! 放っておきなさい」
「し、しかしですね」
「あなたのせいじゃないわよ」
 ふてくされたようにそう言って手を外すと、美凪は荒々しくソファに腰を下ろす。とがったくちびるが、不満極まりないと告げているようだ。
「気にすんなよ、ただの夫婦ゲンカ。しょっちゅうなんだからさ、このふたりは」
「哲笙! 知ったような口きかないでくれる? 仲わるい夫婦みたいじゃない」
 長男は軽く肩をすくめると、背中を向けてその場から出ていった。
 森大里は、ソファの上で拗ねる女主人を残してリビングを去るわけにもゆかず、沈黙をもてあましてテーブルの上に置きっぱなしだったグラスに手を伸ばした。口をつけると、だいぶぬるくなったアイスティに眉をしかめる。
 その時、キショウがポーチからリビングに踏みこんできた。
 両手をお椀のように合わせてつきだす、母譲りのとび色の瞳がきらきらとかがやいている。
「母ちゃん、コオロギみつけたッ、コオロギ! ほらッ――」
 小さなてのひらが花のように開いたその瞬間、黒い小さな虫が美凪の目の前にはね上がる。
 森大里はグラスを取り落としそうになった。
「きゃ……きゃああああああッ!!」 
 今度は、玄関と裏庭のほうで、驚いた使用人が何かを落とす大きな音がした。

 

>>NOVELS >>INDEX >>BACK >>NEXT