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第4話 「To The Cape ―岬へ―

 

 

「今度の休みは岬の別荘に行けるってほんと?」
 キショウ の甘えた声がした。
 彼の母親が何か答えている。ダイニングにいる森大里にはよく聞きとれなかった。ふたりは隣のリビングにいるようだ。
 普段どおり敷地内の点検を終えるとイスに腰かけ、あるじが読み散らかした新聞をもらいうけるようにして読んだ。
 雨の多い今年は農作物の出荷が気になるらしい。自分にはあまり関係のなさそうな記事が載っているその新聞を持って、内ポケットのセイラムに指を伸ばしながら、ポーチへ出ようと腰を浮かせた時だった。
「あら! 森大里、いい加減にしてちょうだい」
 いきなり叱り飛ばされる。反射的に背筋が伸びた。
 首をめぐらせると、てっきりリビングにいると思っていた美凪がダイニングに踏みこんだまま、強い瞳で見つめていた。
「タバコは控えなさいって何度も言ってるでしょう。やっと正禅が止めたのに、同じ銘柄なんて……あてつけかと思うじゃないの。吸うなら外で! 1日ひと箱までにしなさい!」
「……すみません」
 内ポケットから手をひっこめ、再びイスに腰をおろした。
 母の後を追ってきたキショウが、はた目にも気の毒そうな顔をして森大里を見ていた。機嫌の悪かった母の逆鱗にふれたセキュリティは、彼からかなりの同情をかったようだ。
 久下邸にやってきて半年経つうちに、森大里には学んだことがたくさんある。そのうちのひとつが、この女主人の気の変わりやすさだった。
 美凪の機嫌はまるで天気のようだと思う。
 雲一つなく澄みわたる日もあれば、土砂降りで凍えそうな日もある。今日は雨雲が垂れこめてるといったところか。遠雷の音も聞こえそうな雰囲気だ。
 長年連れ添っている正禅はそんな妻のあつかいかたを心得ているらしく、あまり反論もせず意見もせず、実にうまくやり過ごす。
 だが9つも年下の森大里には、そんな器用なことはとうていできそうもない。
 怒られれば反射的に自己憐憫の情が強くなり、目の前で悲しげな素振りをされれば心が騒ぐ。
 ――もし、優しい顔をされたらどうなるのだろう? 
 ふとそんな疑問が浮かんだ時、キショウが何か思いついたように母の手を引いた。
「じゃあさ、森大里も行けるんだろ?」
「どこに?」
 母は次男に目を移す。
「岬の別荘。いっしょに行けるよね?」
「ダメよ、森大里にもお休みが必要でしょ?」
「え、でも、そしたらだれがいっしょに来んの?」
「他のひとに頼めばいいでしょ」
 なにげなく言われたその言葉で、森大里はかつんと胸を衝かれた気がした。
 言葉のアヤだと知りつつ気持ちが揺れてしまう。
 キショウが口を尖らせた。母の手を放すと、イスに座っている森大里の首に後ろからしがみつく。
「他のひとじゃやだー。森大里といっしょがいいよー。なあ、いっしょに行こうよー」
 言いながらゆるゆると前後に体を揺らす。その心地よい揺れと、乾いた庭の芝生のような清々しい匂いに大男も体をゆだねた。
 キショウは本当にひとなつこい子供だった。
 初対面の印象通り、こちらの存在をあっさり受け入れ、学校のこと友達のこと兄のこと母のこと、なんでも話してくれる。
 忙しい父とそっけない兄に構ってもらえず、そのどちらの代わりにも当てはめられる森大里にうまく甘える。自分の気持ちに正直な、いい子供だと思った。
「キショウ、森大里だっておまえと同じように休みが欲しいのよ。わがままを言っちゃダメ」
「だってだって、あの浜辺、イルカが来るかもしれないんだぜ。イルカだよイルカ! 森大里だって見たいだろ? あとさあ、ヒトデとか巻貝とかトゲトゲ貝とか採れるし」
「……トゲトゲ貝ってなあに?」
 美凪が訊いた。
「トゲがいっぱい出てるヤツ。こういうふうに」
 キショウは指を縦横無尽に動かして宙に何やら描いてくれた。
 母はわかったようなわからないような声で相槌をうった。
「ね、オレ森大里といっしょに遊びたい! 行こうよー、な? なッ?」
「ダメよ」
「やーだ」
 背中にはりついたキショウの体が今度は左右に揺れはじめた。つられて大男もいっしょに揺れる。
 渦中の人物が口を挟む前に、それだけの不毛なやりとりをした親子をやっとさえぎり、そこで森大里は片手を上げた。
「……あの、よろしいですか、奥さま?」
「美凪と呼びなさい」
 左の眉だけつりあげて、美凪がぴしゃりと返した。
「ハイ、美凪さま……僕のことでしたら、休暇は必要ないですから」
「ほんと?!」
「そういうわけにはいかなくてよ?」
 キショウと美凪の声が被る。
「いえ、本当に」
「お家に帰ったりするでしょ?」
「それでしたら、家には帰らなくても不都合ないと家族から連絡がありました。あの、兄たちもおりますし、好きにしろと言われてるので……こちらに居させてもらうつもりでした」
「……でも、うちとの契約では休暇をとっていいことになってるのよ」
「ええ、ですからこちらで留守番でもおおせつかりますが」
「バーカ、何言ってんだよ。航生もメイドもみんな休み取っちゃうぞ。だれもいなくなんだぞ? お前、ここにひとりでいるのとオレたちと来んのとどっちがいい?」
 キショウの言葉の後に、しばしの沈黙が落ちた。
 答えは当然決まっているが、自分の口からそれを言うのは憚られる気がした。
 森大里は床に落としていた視線を上げて美凪を見る……ゆっくりと。
 女主人は、次男に背中からへばりつかれている大男を見下ろしていた。その眉はもうつりあがっていない。
 とび色の瞳で森大里を見すえたまま、静かに告げた。
「……見せてもらったら? トゲトゲ貝とやらを」
「ほんとッ?! やったー!」
 キショウのやわらかい頬が、森大里の頬に触れた。その感触だけで彼が笑顔だとわかる。
 また乾いた芝生の匂いがした。
「早く休みにならないかなーッ!!」
 少年の澄んだ声に、自分の密かな気持ちを言いあてられたかと思った。

 

 

 別荘には2泊することになった。
 ぎりぎりまで予定の詰まっている正禅は仕事が終わりしだい現地へ直接向かうことになり、美凪と子供たちは一足さきに運転手と共に家を出た。森大里も同行する。
 久下家の者が『岬の別荘』と呼んでいるのは正禅が父親から譲りうけたコテージだ。
 車で南へ4時間あまり行ったところにある。位置的には隣のイズユル州だが、小さな岬の近くに建っているのでこの呼び名がついた。別荘の近辺は海が美しく、国内ではかなり名の知れたリゾート地になっている。
 ――美凪はリムジンの窓から外を眺めていた。
 キショウは母の膝に頭をあずけて眠っている。
 向かいのシートでは哲笙が足を伸ばしながら本を読んでいる。タイトルは英文学の古典だ。学校から休み中の課題が出たらしく、この数日でレポートにするのだと言っていた。
 哲笙の学校では長い休み中にこうした課題を出す教師はいないはずだった。休暇は家族とゆっくり過ごすためのもの。勉強も大切だけれど、他のことにも挑戦するくせを早いうちにつけさせよう、というのがあの学校の校風だからだ。
 校長に何か変化があったのだろうか?
 そう考えて、美凪はもうずいぶんと長いこと保護者会に顔をだしていないことに気がついた。いつも航生に頼りっぱなしだ。なまじ哲笙が学校でうまくやっているため、まったく心配していなかったといっていい。
 思わずしかめっ面になった。
「何?」
 母と目が合うと、哲笙がたずねた。
「おまえのクラスでは、もうそんな難しい本を使ってるの?」
「これ? 違うよ。この本は次の学期で使うんだって。その前にあらすじと感想のペーパー出せってさ」
「やなクラスね」
 率直な母の意見に長男は笑ってみせた。
 彼はこの次の学期から9年生になる。それを考慮に入れても少し早いような気がした。自分がこの本を副読本で読んだのは、高校に入ってだいぶ経ってからだ。
「ねえ、学校で楽しくやってるの?」
 思わずそんな言葉が出た。哲笙がびっくりしたように目を見開く。
「……なんだよ突然」
「だって、なんか勉強たいへんそうなんだもの」
「3人も家庭教師つけといてよく言うよ」
 屈託なく笑われて、そういえばそうだったと思い出した。
 やはり自分は母親に向いてないのかもしれない。
「ん……母ちゃん?」
 膝枕をしていたキショウがもぞりと動いた。つやつやした黒髪に手を置いて、美凪が訊く。
「起きたの? なあに?」
「オレ、トイレ行きたくなった」

 

 高速道路に点在する休憩所の駐車場で、運転手はゆっくりと車を停めた。
「ちょうどいいわ、少し休憩にしましょう」
 車内の哲笙と運転手、森大里にそう言い残すと、美凪は次男に手をとられながら休憩所の横にあるトイレへと向かった。
 森大里は助手席で折りたたんでいた体を伸ばすようにして外に降り立った。
 夕暮れが近づいていた。目的地への道のりの半分も終わっていないのに、駐車場の空気でいつもより南にいることがわかる。
 上着を脱ぎながら、森大里はこんな暗い色のスーツを着てきたことを後悔した。
 ポケットのタバコがまだずいぶん残っていることに気づき、周りを見まわす。自販機の隣にベンチと大きな吸殻入れが見えた。
 薄い上着を助手席に放ると運転手が訊いた。
「森大里さん、タバコ吸いに行くならついでに冷たいもの買ってきてくれませんか?」
「いいですよ、何にします?」
 50をいくつも越えていない運転手は笑顔になって炭酸飲料の名を口にした。
 森大里は快諾して自販機へと歩き出した。

 

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