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あなたに星が見えるまで

第17話 

 

「多佳子さぁん、今日もあの彼と一緒に帰るんですかぁ」
 化粧室で口紅を直していると、隣りにいたヤエちゃんが訊いてきた。
 まつげが自然にカールするというマスカラを塗っている彼女の、きれいな指ばかり見ていた。
「毎日迎えに来てくれるなんて、優しい彼氏サンですよね」
 ははは。
 笑うしかないわね。
「彼じゃないのよ」
「またぁ」
「だって、年も違うし」
「そんなに下なんですか。今時、ちょっとくらい年下のコとつきあってる女の人なんて珍しくないのに」
 ……かなり下なんだけど。
 しかも、言ってることとやってることがアメリカ人と同じなのよ。いちいちわたしの心臓が持ちゃしないわ。
 心の中でそう答えてため息をついた。
「多佳子さんしか目に入ってないみたい。すごーく想われてるみたいで、そういうのっていいですよねぇ」
 ……きっとヤエちゃんの中では、わたしたちはごく普通の恋人同士なんだなあと思った。
 そして、そう思うことはわたしを幸せな気分にした。
 たとえばそれが、絶対にのぞけない別の誰かの心の中だったとしても。
 それでも、恋人同士として存在できるなら。
 ほんとうに幸せだった。

 

 

 金曜の夜は、気のせいか街の灯りも少し華やかに輝いている感じがする。楽しそうに笑い合ったりはしゃいだりする人とすれ違いながら、わたしと迅一郎は帰り道を歩いた。
 本当は、ロビーに降りた時から気づいていた。
 様子がいつもと違うこと。
 帰り道で食事を済ませ、お父さんの好物をテイクアウトした後も、時々考え込むような素振りで静かになる。
 そういう時、迅一郎はたいてい下を向いていたので、目に入りそうなまつげばかり見つめていた。
「……何か、あった?」
 電車を降りて、駅から家までの道のりを歩きながら訊いてみた。見上げると、口元だけで笑みを返してくる。
「え? いや、なんにも」
 嘘ばっかり。揺れる瞳が証明している。
 わからないとでも思ってるのかしら。
 こんなに無防備なのに。
「怖いこと?」
「どうして」
「怯えてるみたいだから」
 わたしの声を聞いて眉が下がった。そうかも、とぽつんと自答してまた無言になる。
 しばらく黙って歩き、やがてT字路に出たところで訊く。
「大丈夫? 少し寄り道してみる?」
 脇道にある小さな庭園を指さした。つられて、迅一郎も指の示す方へと目を向けた。
「ほら、誰かに話すだけでも気持ちがラクになることってあるでしょ。それとも、話したくない? わたしには」
 わたしにできることなんて限られてるんだもの。あまり役にも立たないけど、話を聞くくらいならできるから。
 そう思って立ち止まった。
 迅一郎も、歩みを止めた。
「あなたを巻き込むわけにはいかない。俺の問題だから」
 戸惑った視線はすぐ足元に落ち、しばらくしてまた戻ってきた。
 わたしたちは、わたしの父を挟んで時々光と影になる。
 相手の存在を尊重すると、どうしても触れてはいけないことが出てくるんだ。
 でもわたしの立場からいうなら、巻き込まれて困ることなんか何もなかった。
「……迅一郎、わたしのこと、みくびらないで」
「みくびる?」
「そう。わたしは、あなたが思ってるより図太いのよ。話を聞いたからって、自分を責めたり、あなたを責めたりしない。だって悪いことなんか何もしてないもの。それに、もし怯えるようなことがあるなら……わたしたちが誰であろうと、いたわりあってどこがいけないの」
 見つめた瞳が驚いたように見開かれる。
 それから、目じりが少し下がった。降参した、とでも言いたそうに。
「最初に見た時から思ってた。多佳子って、見た目よりずっと……威勢いいんだな、って」
「そうよ。失望したでしょ、黙って言いなりになる女じゃないのよ」
 ふっと、笑う空気が伝わって来た。
 わたしたちはそれから、いつもは通り過ぎるだけの庭園に立ち寄った。緩やかな坂道を上がり、アジサイの植えてある小さな庭に入る。
 梅雨を前に、もうすでに花をつけているものもあった。星の形にも見えて、とても可愛らしい。
 鮮やかな木々の緑はところどころ薄くライトアップされている。石灯籠に灯りがともっていて幻想的だった。
 つるつるした石のベンチに並んで腰かけ、ふたりで夜空を見上げた。
 迅一郎と一緒の時はいつも空を見上げてる気がする。
 星が見えないと言った、不思議な人。
 夜空は、こんなにも星であふれてるなら、ひとつくらいこの人のために差し出すこともできるだろうに。
 わたしが夜空なら迷わずそうするのに。
「今朝、一政さんから手紙もらったんだ。俺が持ってたほうがいいだろう、って」
 迅一郎は、そんなふうに言葉を紡ぎだした。
 鳥羽さんが、父に宛てて書いた4通の手紙。
 ふたりの思い出や、思わず笑いが込み上げてくるような話が目の前に繰り広げられて、微笑ましい気持ちで読めたこと。
 自分が生まれた時の様子を、父親の視点で理解できたこと。
 その行間に見え隠れする、楽しい気持ちとは裏腹の、切ない、哀しい気持ち。
 最後の手紙を読んだ時の、深い絶望感と、自分にも誰にもどうしようもできない現実。
「確かにそこにあるのに、何も伝えられないって、こんなにつらいことなんだな」
 今は亡き人の孤独を知ることほど、無念なことはないだろう。
 本当は孤独なんかじゃなかったのに。
 必要とされていたのに。
 鳥羽さんはそれを知らずに逝ってしまった。
「すごく……哀しそうだった。最後の手紙」
 迅一郎はそう言って、細く長く息をついた。うつむく横顔を黒髪が隠したけど、泣いているのは声でわかった。
「もう、伝えられない。なんにも、変えられない。それがいちばん不幸だ。あの人の人生はこんなにも――」
 はっきりした言葉でそう言って、静かに涙を流した。
 感情が昂ぶって流れた涙というよりは、流すことによって浄化しているような、壊れたものを清めるような、そんな泣き方だった。
 こんなに静かに流れる涙もあるのだと初めて知った。
 静かだけど、同時に掠るような痛みをともなう。その痛みはきっと目に見えるものよりずっとつらい。
 わたしは立ち上がると彼の正面に立ち、その両手を取った。
「つらかったのね、鳥羽さんも」
 そうっと握った大きな手が、指先を握り返してくる。
「だから手紙を読む人にも伝わるのかな」
 迅一郎はわたしを見ようとはしなかった。ずっとうつむいたまま、手を握っている。
 腰かけているせいで、わたしの目線より下に顔があった。
 その頬を、また涙が一筋流れて伝った。
 少し前かがみになり、右手を静かに離して彼の頬に触れ、親指で涙を拭い去る。
「つらいのに。なんにもしてあげられないって思うほうも、こんなにつらいのに……」
 頬にまたひとつ涙がこぼれた。わたしはそれをゆっくりと拭う。
 迅一郎は黙ってされるままになっていた。
 見ていると、たましいを引き裂かれそうになる。
 それでも、願うことしかわたしにはできない。
 ……もし願いが叶うなら。
 どうかこの人に。
 星を与えてください。
 夜空に輝くたくさんの星すべてなんて言わない。
 ひとつだけでいい。
 たった、ひとつでかまわないから。
 わたしの愛しい人に――。

 

...................................................................................................

 

 わたしたちは、しばらくそうやって向かい合っていた。
 坂の下にある車道を車が何台か行き交い、スクーターが通り過ぎた。人影は見えなかった。
 濃くなった緑の葉を揺らした夜風が降りてきて、迅一郎の髪を動かしてゆく。
「ねえ、前に言ってくれたよね」
 まだ指先をつないだまま、わたしは言った。
「『きっとすべてうまくいく』って」
 見ていたまつげが、わずかに上がった。黙って聞いている。
「不思議だよね、あの時……聞いてると、ほんとにそんな気がしたの。大丈夫、きっとうまくいくからって。魔法みたいだと思った」
「……魔法の言葉?」
「そう。あんなにすんなり信じられたのは初めてだったの。理由とか理屈とか関係なく」
 迅一郎の口元が少し笑った。
「トニーが」
「え?」
「昔、トニーが言ったんだ。信じて口に出せ、って」
「どうして?」
「言ってるうちに、本当になるから。もしかしたら、暗示にかかるのかも……だから、困った時はよく言ってたんだ。『大丈夫だ。きっとすべて、うまくいく』って」
「それって、英語よね……何て言うの?」
「――It's okay.Everything's gonna be all right.」
 優しい響き。
 何をしてももう変わりようがないのなら、そう思ったとしてどこが悪いんだろう。
 もしかしたら。
 みんなそうやって、涙が出るようなつらいことを凌いできたのかもしれない。
 遠い、太古の昔から――。
 やがてひとつ息をつき、迅一郎は顔を上げた。
「……本当だ」
「なあに」
「話せばラクになるかも、って。本当だな。さっきまでの、世の中ぜんぶに絶望してるみたいな感じはなくなった」
 曲げていた膝をぴんと伸ばしたせいで、わたしはジーンズの脚に挟まれた格好になった。
「平気?」
「平気」
 そう答えて、すっと目を細めて見せる。
「多佳子の愛情もらったから」
「あ、愛情なんかあげてないでしょ!」
「言われた気がするんだけど」
「何を」
「俺が好きだって」
「なっ――」
 耳が熱くなった。さっと手を離す。
 踵を動かして離れようとしたら、一瞬早く大きな靴の両足が幅を狭める素振りを見せた。
 びっくりしてバランスが崩れ、迅一郎の肩に右手をついてしまった。
「おっ、ラッキーな展開」
 言いながら立ち上がる。
 視界がオレンジ色のTシャツでいっぱいになり、両腕であっさり体ごと引き寄せられた。
「やっ、ちょっと、離して! キライ、迅一郎なんてキライ!!」
「じっとしてろって。動かなきゃ何もしないから」
 何をそんな、野生の動物みたいなこと……そう思っても、反射的に動きを止めてしまった。
 近づいたTシャツから、また日なたの匂いがした。
 そっと、遠慮がちにわたしの背中に手を回してくる。
「ごめん、バレた、一政さんに」
「えっ? 何が? どのこと?!」
「俺がきみに好きだって言ったこと」
 体が硬直したのはその言葉に驚いたからなのか、腕があんまり優しかったからなのか。
「すごい警告受けた。外国人と恋愛させるわけにはいかないって。年下男には手に負えないだろうってさ」
 ……やだ。何それ。
 お父さんたら、そんなこと言ったわけ?
「年が離れてても育ってきた国が違っても、そんなのどうでもいい。黙って言いなりになってもならなくても、失望なんかしない。俺はこんなにきみが好き」
 迅一郎の胸を押し返そうとしていた手から、力が抜けた。
 腕と腕が触れる。
「思うだけなら、罪じゃないだろ。ずっと好きでいられるなら、他には何も欲しくない」
「もう、どうしてわたしなのよ」
 自分でも声が震えているのがわかった。
 顔を見なければ何とでも言い返せる気がして、下ばかり向いていた。髪で顔を覆うようにうつむく。
「何でも持ってるくせに……迅一郎は、学歴も仕事も将来も、ぜんぶ約束されてるじゃない。わたしみたいな女に気をとられて、大事な未来をだめにすることないのに」
「だめにするって何だよ。本気でそんなこと思ってるのか」
 笑ってるような声とは裏腹に、泣きそうになる。
「だって、もっと若くてきれいで似合う女の子が、アメリカに帰ればたくさんいるでしょ」
「だからなに? そういう女の子を好きになるかどうかは別問題だろ」
 言い返せない。弱々しいわたしの理屈はすぐ打ち止めになった。
 鼻の奥がつうんとしてくる。
 しっかり呼吸しないと涙がこぼれそうだった。
「俺の未来なんか全部多佳子に差し出すよ。どんなに遠くにいても、もう他の誰も好きにならない。あなたしか欲しくない。これからの人生なんか――どれほどあなたに費やしたってかまわない」
 強い意志に満ちた声。
 こんなにまっすぐ響いてくる声の人なんか他にいない。
 もうずっと前からわかっていた。
 生き生きとした言動と、自信に裏づけられた行動力を持つ、この鮮やかな人が。
 たとえどんなに、わたしを振り回して感情を昂ぶらせたとしても。
 こうして触れるだけで。
 そばにいて笑顔を見せてくれるだけで。
 わたしの心は何よりも、どんなものよりも。
 満たされるんだということを――。
「なあ、何度もなんて頼まない。一度だけでいい」
 静かな動作でわたしを胸に抱き寄せる。
 鼓動がはっきりと伝わってきた。
「俺が好きだって言えよ。好きなのは俺だけだって……そう言えよ」
 迅一郎の指がわたしの髪を梳いていく。
 そっと、確かめるように。
 まるでそうすれば――髪の間から答えがこぼれ落ちてくるとでもいうように、何度も何度も。
 言えるわけのないその言葉を、わたしは涙と一緒に飲み干した。

 


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