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あなたに星が見えるまで

第19話 

 

 ポーンと軽い音がして目が覚めた。
 薄暗かった機内は、いつの間にか明るくなっていた。
「――みなさま、当機は間もなくシカゴ・オヘア国際空港へ着陸体勢に入ります。どなたさまもお座席にお戻りになり、シートベルトをご着用くださいますよう……」
 柔らかい女性の声でアナウンスが流れ、乗客たちが、シートをまっすぐに直したりテーブルを元に戻し始める。
 薄い毛布の下で体を動かした。首が痛い。どのくらい眠ってたのかしら。
 ぼんやりと考えながら頭に手をやり、はっとした。
 ……やだ。
 髪がボサボサ。
 そんなすごい寝相だったってこと? 手ぐしで何度も梳いてみたけどあんまり効果はなかった。
 機内が乾燥しているのか、肌もぴりぴりする。
 泣きたくなった。
 大失敗。ぐっすり眠っちゃうなんて。空港に着く前に、きちんとお化粧も直しておきたかったのに。
 思えばこの2ヵ月あまり、いろんな人から言われたんだわ。
『お肌のメンテナンスが大変よ』
『若い子と比べられたら目もあてられないわよ』
 そのとおりでした。がんばったけどこの程度だったの、なんて、そんなの悲しすぎるわ。
 小さくため息をついて目を閉じた。
 閉じたまぶたの裏で、また同じ光景がひるがえる。もう何度思い返しただろう。
 きっと一生忘れない、5月最後のあの日のこと――。

 

...................................................................................................

 

 成田空港に向かう電車の中で、わたしと迅一郎は並んで座っていた。
 わたしたちはこれまでにないくらい口数が少なくて、黙って外の景色ばかり見ていた。
 風景はどこか物悲しくて胸が張り裂けるように痛くて、息をするので精一杯だった。
「……なあ、やっぱりさ」
 空港が近づいたころになって、迅一郎はおずおずと口を開いた。
「やっぱりもう1日遅らせるよ、帰国」
「なに言ってるの。明日からサマージョブでしょ。間に合わないじゃない」
「だってさあ、どう考えてももったいないだろ」
 わたしは答えずに窓の外を見た。
「サマージョブなんかどうでもいいよ、この際」
「だめ。キャリアを決める第1歩だからあなどれない、って言ってたのはどこの誰?」
「俺そんなこと言ったっけ」
「言ったわよ」
「あー、それじゃこうしよう。同じフライトで多佳子も一緒に来いよ」
 とうとうふきだしてしまった。
「そんなのもっとだめじゃない。仕事もお休みとってないし、だいいちわたし……パスポート持ってないの」
「なに?!」
「パスポート。だって……海外に行ったことないんだもの」
 あの時の迅一郎の顔が忘れられない。
 なんかもうお手上げ、って感じの瞳をしてた。
「俺の一冊あげようか?」
 それを聞いてわたしはまた笑った。
 迅一郎はがっくり下を向いていた。
 笑うのをやめて、その黒髪をそっと梳く。
「そんな顔しないで。ちゃんとパスポート取って、8月には会いに行くから」
「まだ2ヵ月も先だよ」
「忙しくしてるうちに、すぐ8月になっちゃうってば」
「だいたい、一政さんはなんであんなに俺をディフェンスするわけ? なんか理解できないんだよな」
「なにが」
「せっかく鑑定結果が出て、ばっちりハッキリこれ以上はないってくらい――真っ赤な他人になれたんだからさぁ、もっとこう――」
「ねえ、その日本語なんかヘンよ」
「そうか? でも俺はすごく嬉しかったんだけど」
「真っ赤な他人で?」
「そう」
 そこで彼が顎を傾けた。すうっと顔が近づいてきてくちびるが重なる。
 ついばむようなキスに、向かいの席に座っていた人があわてて寝たフリをしたのがわかった。
「このまま帰るのはやだ」
 またそんな子供みたいなことを。
 そう思いながら手をつないだ。
 空港はもうすぐだった。

 

 

 ――わたしと迅一郎のきょうだい鑑定は、100%完全否定という結果がついた。
 結果を聞いても、どこか足元がふわふわするような不思議な感じはずっと続いた。
 国籍のことはまだ保留。こちらはあと1年のあいだにゆっくり決めるのだという。
 何より、父親がはっきりしたことが彼を大きくひとつ前進させた。
 あれから結局、父も鑑定を申し込み、自ら迅一郎とは親子でないという結果を示してくれた。
 わたしとの親子関係に自信がないのかしら、と思ってからかったら怒られた。
 それでも嬉しかった。
 今まで生きてきた中でいちばんに。

 

 

 チェックインを済ませると胸の痛みに拍車がかかった。
 これ以上出発を遅らせることができない理由も。8月がくればまた会えるからという理由も。
 自分自身にいいきかせていただけなのだとやっと気づいた。
「なあ、お願いがあるんだ」
 出発ロビーにあるイスに並んで腰をおろすと、迅一郎が訊いてきた。
「一緒に来いっていうんならだめよ」
「はいはい。そうじゃなくてさ、何か身につけてるものくれない?」
「身につけてるもの? どんな」
「何でもいいよ。その……ピアスとか」
 そう言ってわたしの耳を指さした。
「次に会うときに返すから、それまで貸しておいて」
 耳たぶには星の形をしたピアスが留まっていた。半貴石のその星たちをはずして、迅一郎の手の上に乗せる。
「きっと返してね。わたし、とりに行くから。シカゴまで」
 声が震えそうになった。迅一郎は笑ってうなずき、大事そうにそれをしまった。
 シカゴ行きの飛行機の搭乗案内が始まっても、わたしたちはなかなかそこを立とうとはしなかった。
 何度目かの案内が流れ、最終案内になった頃、やっと口をひらいた。
「もう行かないと、飛行機遅らせちゃうよ」
 わたしは先に立ち上がり、まだ座っている彼を促した。
 大きなため息のあと、バックパックを手にしぶしぶという風情で立ち上がる。
 出発便ご案内と書かれた大きな掲示板の下まで進み、歩みを止める。
「向こうに着いたら電話する。日本語もっと勉強して、メールも送る……毎日きみを想う」
 聞きながら、あふれてくる涙のせいで顔を見ることなんかできなかった。
 わかってる。
 わたしたちはまたすぐ会える。
 そう思っても、自分でどうにもできない。
「そんなに泣かれると、帰れない」
 困った声が落ちてきた。ひっかけていた赤いチェックのシャツを脱いで、肩に羽織らせてくれる。
「うん、わかってる」
 わたしはその袖口をひっぱってきて、目元を拭った。
「帰り、気をつけて。一政さんに迎えに来てもらえよ」
「……もう行って? こうしてるから」
 両目を覆いながら言った。
 優しいキスがひとつ髪の上に落ちてきて、さあっと緩い風が流れ……それで身をひるがえしたんだとわかった。
 目を閉じたまま、ゆっくり5つ数えた。
 そこで息が苦しくなってまぶたを開けた。
 涙を拭うと、出発手続きと書かれた文字の下、並んでいる人の短い列に向かう迅一郎の姿が見えた。
 あの向こうへ行ってしまったら8月まで会えない。
 もう触れることもできない。
 そう考えたら踵が動いていた。
 羽織っていたシャツを片腕にかける。
「迅一郎、待って!!」
 旅客しか入れないはずの仕切りのむこうへ回り、振りむいた迅一郎に駆け寄った。
 Tシャツの胸を引っぱり寄せる。
 黒いバックパックが肩からはずれた。
 前かがみになった彼に、ぶつかるようにくちづけた。
 信じられないくらい強く。
 ほとんど噛みつくような勢いで。
 どこからこんな力が出てくるんだろうと思えるほどのキスを繰り返した。
 脇に立っていた青い制服の警備員が近づく気配がする。
 わたしのくちびるに応えながら、迅一郎が手のひらでそれを制するのがわかった。
 もう一方の腕で強く肩を抱き寄せられる。
 息つくひまもなくくちびるを重ねた。
 心臓が狂ったように動いていた。
 横を通り過ぎるグループが、口笛を吹いてひやかして行った。
 どこの国の言葉かわからない外国語のヤジも飛んできた。
 それでもわたしたちはキスを繰り返した。
 何度も何度も。

 

 

 ――迅一郎は結局、空港内のアナウンスで呼び出され、飛行機は離陸が遅れた。
 わたしのせいで。
 今までの人生において、あれほど多くの知らない人に迷惑をかけたことなんかない。申し訳なくて頭の下がる思いがした。
 この先、どこかで同じ目に遭っても、きっとその人を責めたりしない。それだけは言える。
 だって、離れることがどんなにつらいか、よくわかったんだもの。
 ぐんぐん下降してゆく飛行機の窓から、だんだんと雲が晴れて、遠くイリノイの大地が見えてきた。
 輝くようなグリーンと、むきだしになった土の茶色やベージュ。
 初めて目にしたはずなのに、ずうっと昔に見たことがあるような、懐かしい気持ちになる光景だった。
 あの地上のどこかで、わたしの愛しい人が待っている。
 週末が来るたびに電話で話した。3回けんかをして3回仲直りした。理由は何だったか忘れちゃったけど。
 買ったばかりのラップトップで、メールのやりとりもした。
 迅一郎が書いてくるメールは、いつも文章の半分が英語だった。辞書を引きながら読んだ。
 6月からは英会話スクールにも通い始めた。これはないしょで。
 にぶい衝撃があって、大きな機体が滑走路に着陸する。
 窓から差し込む太陽の光がまぶしい。管制塔の窓が反射していた。
 なんて輝きに満ちた国なんだろう。鮮やかで強烈な。
 ここが、迅一郎の生まれた国――。
 ふたたびポーンと軽い音がして、わたしはシートベルトをはずした。

 

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 芝を刈る振動が座席から体に伝わってくる。
 背骨に沿って汗がしたたり落ちたのがはっきりわかった。
 8月の太陽は激しい。激しくて強くて、すべてを灼きつくす。陽射しはゆるむことなく今日も9時近くまで明るいはずだ。
 広い庭の手入れを終え、芝刈り機のエンジンを切る。
 後ろ向きにかぶったブラックホークスの帽子を脱ぎ、腕で額を拭った。髪が汗で湿っていた。
≪ボイス、 来い!≫
 口笛を吹いて呼ぶと、木陰でじっと待っていたボーダーコリーが矢のように駆けてくる。
 ジーンズだけの格好のままボイスと家に入り、バスルームに直行した。
 頭のてっぺんからつま先まで洗い流してからリビングに行くと、ソファに母さんがいた。
 トニーはクライアントと面会中だし、双子たちはキャンプに参加してて明日まで帰ってこない。
 家の中が無駄に広い気がしてきた。
「そろそろ行かないと時間でしょ……ちょっとなあに、その格好」
 新聞から目を上げて母さんが言う。最近、日本語が多くなったのは俺が頼んだからか。
「なんで。どっかヘン?」
「もっときれいなシャツがあったじゃない。新しい服にしなさい、新しいのに」
「これも新しいんだけど。こういう格好じゃまずいわけ?」
 Tシャツの胸をひっぱってみた。
「まずいのよ。それに、ちゃんとオーダーしたの? お花」
「それはした。これからピックアップしないと……なあ、トニーの車、貸してもらえないよね」
 きっとだめだろうと思いながら訊いてみた。
 ちらっと俺に目を向けて、母さんはテーブルの上のバッグをごそごそかき回す。
「実は、もう預かってるんだ。これ」
 見慣れた車のキーが目の前に差し出された。
「トニーのマスタング。譲るって」
「――マジで?!」
 掴みながら言う声がほとんど悲鳴みたいになった。
 母さんが眉をひそめる。
「……どこで覚えてくるの。そういう日本語」
「え? あー……テレビ」
「嘘おっしゃい!」
 太ももの裏を叩かれそうになって、あわててその場を離れた。

 

 

 夢にまで見たマスタングの乗り心地は最高だった。
 メンテナンスをしっかりしてる証拠だ。大事にしてたからな、トニーのやつ。
 いつかぜったい俺がもらってやると思ってたけど、こんなに早く手に入るとは。いったい母さんは、裏でどんなとりひきをしたんだろう。
 思わずそう勘ぐって苦笑いした。
 州間道路に乗ってまっすぐオヘア国際空港まで向かい、駐車場に乗り入れる。助手席に置いてあった花束を担ぎ、ロビーに向かった。
 到着は定刻どおり。
 晴れ渡った8月の空から舞い降りてくる飛行機をいくつも眺めた。
 入国審査で手間どったりしないだろうか。
 何かあったら携帯電話に連絡するよう言っておいた。英語での簡単な受け答えも教えた。多少英語がわからなくても、大した問題にはならないはずだ。
 頭でわかっていても、海外に来るのは初めてだという事実が不安にさせる。
 8つも年上の人のことを心配してるなんて、俺の心配性もレベルが上がったもんだよな。
 そう考えてから訂正する。
 ……いや、7つに減るんだった。あと3日で。
 そこで姿を見つけた。スーツケースを引いて、こっちにやってくる。
 髪が、少し長くなっていた。
 少し花束を掲げたら気がついて、まっすぐ俺に向かって笑顔をよこした。
 ……7つだって?
 賭けたっていい。誰の目にも、そうは映らないに決まってる。
 このひとは。
 なんでこんなにきれいなんだ。
 口元が緩む。足が震え出した。
 ヤバイぞ、これ。
「多佳子」
 いろいろ言いたいことがあったのに、結局口をついて出たのは名前だけだった。
 花束を持ったまま背中に腕を回し、胸に抱きしめる。
 セロファンががさがさ音をたてた。
「すごい、お花しょってるみたい」
 笑うように言った。
 ――やっと手に入れた。何があっても、もうぜったい離さない。
 心で言った言葉だったか口に出したのか、よくわからなかった。
 押し返しもせず、あっさり腕の中に収まった多佳子は、ふふ、と小さく笑った。
 幸せで目がくらみそうになる。
 抱きしめる腕に力を入れたら、多佳子の頬が俺の鎖骨と喉のあたりにぴったりと収まった。
 本当に、ぴったりと。
 それで実感した。
 まるで――最初から多佳子のために作ってあったみたいだと。

 

〈END〉



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