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第1章

 

 図書館のドアを押して外に出ると、どしゃぶりにあった。
 
ついさきほどまでの青空はあとかたもなく、空には真っ黒な雨雲が立ちこめ、あたりも夕暮れのように薄暗い。空を切り裂く稲光は絶えることがないが、雷はまだ遠いらしく音はわずかしか伝わってこない。
 試験を終えたばかりの生徒が幾人か、まるでクルミほどもある雨粒に打たれながら、教科書を傘代わりにして走り過ぎて行った。
乾いたコンクリートの表面が、みるみるうちに濃い染みで埋められてゆく。じっとしていても汗ばんでくるほど高かった8月の気温が、急激に冷却されてゆくのが肌で感じられる。埃の匂いが真雪まゆきの鼻をつうんと刺激した。今夜はやっと涼しくなるだろう。
 
アイオワの天候は、こんなふうに突然変化する。もう5年もここに住んでいるのだから、いい加減慣れてもいいようなものだが、朝のニュースで天気予報を確かめて出てきても、時にはこうした不意打ちを食らうこともある。
 
言語学のアート・クロフォード教授との約束は3時だった。すでに10分も過ぎている。グラント・ホールは図書館の100メートルほど手前にあり、教授のオフィスも真雪のオフィスもそこに入っていた。
 
昨日の電話を思い出すと、アートを待たせるのは気がひけた。日頃から親しくつきあっている彼とはお互いファーストネームで呼びあう間柄だし、5分や10分は待っていてくれるだろうが、電話口での『一刻も早く会わせたいひとがいる』という言葉を思い出して、真雪は肩に掛けていたバックパックを頭に乗せ、大粒の雨の中へと走りだした。
 
100メートルとは言えバックパックが傘の代わりになるはずもなく、グラント・ホールにたどり着いてスチールフレームのドアを肩で押し開けた時には、髪がかなり濡れていた。
 肩に広がった緩やかなウエーブを手早くヘアバンドで束ねて、真雪は2階のアートのオフィスまで階段を駆け上がった。すれ違った生徒がちらりと振り返っていったが気にしなかった。
 
250とプレートのついた木製のドアは半分ほど開いており、オークのデスクについたアートが正面に座っている誰かと笑いながら何か話していた。真雪は軽くドアをノックして言った。
「ハイ! ごめんなさい、待たせてしまって」
 
そう言ったのとほとんど同時に、ペルシアンブルーの半袖シャツにクリーム色のネクタイという姿のアートが立ち上がって笑顔を向けた。
「マユキ、忙しいところを無理言ってごめんよ。さあ、入ってくれ」
 
こじんまりとしたオフィスに入ると、アートの前にある椅子から大柄な男が腰を上げて真雪を見下ろした。
 白
いシャツの胸はびっくりするぐらい厚く、腕も太い。ブロンドの髪はすでに大部分が銀髪になっている。真雪が真横に並んだら、ゆうに30センチは身長差がありそうだ。
 
戸惑っていると、アートがすかさず紹介してくれた。
「彼はラリー・ブロックス、今いちばん君を必要としている人物だ。ラリー、こちらがミズ・マユキ・フジワラ、わがクォーターフィールド大学の日本語講師だよ」
 
真雪は、よろしくと言って、右手を差し出した。すぐにラリーはひとなつこい笑顔になり、真雪の手より二回りも大きそうながっしりとした手で握手に応えた。
 二人が腰を降ろしてから、デスクに両腕をのせたアートがさっそく話しはじめる。
「もしかしたら聞いているかもしれないが、ラリーはうちの卒業生で、以前はここでアイスホッケーのヘッドコーチをしてたんだ」
 
そんな話は初耳だった。
 
真雪は大学院に在籍していた頃からクォーターフィールドにいるが、忙しい勉強のかたわらスポーツ観戦にでかける暇もなく、アイスホッケーなんてルールすらよく知らなかった。
「それが数年前にIHL(インターナショナル・ホッケー・リーグ)のチームに引き抜かれてね、今はクォーターフィールド・ホークスというチームのコーチを務めている」 
 
真雪は小さくうなずいた。けれど、それが自分とどうつながってくるのか見当もつかない。黙ってアートの話に聞き入る彼女の横顔を、ラリーはぶしつけともよべるような眼差しでまっすぐに見つめていた。
 
直感で自分が何かの試験にかかっているのだと思った。このラリーという男は、真雪が彼の求めている人物に相当するかどうかチェックしているのだ。アートは単純に同僚を紹介しただけで、ラリーの心中など知らないのだろう。いつもと変わらない態度で、今度は真雪のプロフィールを彼に紹介している。
「マユキは今、日本語の初級から上級のクラスを教えているんだ。それから、留学生クラブにも所属しているんだったね?」
「ええ、時々お手伝いをしてます」
「留学生クラブというのは何ですか?」
 
ラリーが向き合うようにして体の位置を変えると訊いた。グレイの瞳が真雪を射竦める。
「留学生がアメリカ人学生と、よりスムーズにつきあえるよう活動しているグループのことです。年に二回ほどあるインターナショナル・フェスティバルの幹事を務めたり、新しくやってきた留学生の世話役をしたり、希望者にはアメリカ人のテューターやホストファミリーを紹介したりもします」
「なるほど。では新参者のよきアドバイザーというわけだ」
 
と言って、ラリーはにっこりと微笑んだ。
「そうですね、アドバイザーというよりは、同じ留学生がホームシックにかかったりアメリカ人とうまくつきあえなくて悩んでいるのを見るのがいやなんですよ、きっと」
 
留学は、暗闇の中を手探りで進んでゆくのとよく似ている。同じ道を通過したことのある案内人がいれば、迷うことは少なくなるのだ。
 真雪も、そういう生徒に助けられて留学生活を始めた。アメリカの第一歩から、胸に穴があくような切ない思いまで全てを教えて去って行った案内人だったと、この頃やっとそう考える余裕ができた。
 
「いいね、英語も何不自由ないし、知れば知るほど私の探している人物にぴったりだ」
 
ラリーは笑顔のまま大きな声で笑った。その声に少々ギョッとしながらも、真雪はアートに視線を移して訊いてみた。
「ねえアート、どうして私がここに呼ばれたのか、そろそろ説明してくれない?」
「これは失礼。まだマユキに何も話してなかったね」
 
アイオワに限らず、中西部の人はのんびりしている。そのため話し方がゆっくりになって、比較的外国人には聞き取りやすい英語なのだという。
「ラリーはホークスのコーチだと言ったよね。彼のチームに先月から日本人選手がひとり加わったんだ」
「なかなか筋のいい選手でね、私としてももっともっと伸ばしてやりたいんだが、リョウは――私たちは彼のことをこう呼んでるんだ――どうも言葉のハンディキャップが大きくて困っている。あなたのように留学していたわけではないから他に日本人の知り合いもいないし、誰も日本語が判らないからお手上げなんだ。チームのメンバーはリョウにすごく関心を持ってるし、リョウ自身も私たちともっと通じ合いたいらしいんだが、どうしていいか判らないらしい。そこで私は知り合いの大学関係者に頼んで、誰か私たちとリョウの橋渡しになってくれるひとを探してもらった。はっきり言うと、通訳という名の橋渡しだ。私はクォーターフィールド・ホークスのコーチとして、きみをリョウ専属の通訳として雇いたい」
 
ラリーがそこまで言い終わった時、きらりと銀の一線が窓の隅を横切り、どこかすぐ近くでものすごい落雷が聞こえた。外は横殴りの雨らしく、雨水がガラス窓をたたく激しい音がする。それでも、真雪はラリーのグレイの瞳から目が離せなかった。
「私たちはシーズン中、多数の遠征試合に伴って各地を回らなければならない。通訳はそれについてきてもらうし、雇うからには当然それ相応のサラリーも払う……実を言うと、マユキ、きみで3人目なんだ。他の2人からは、今とりかかっている研究が忙しくて手が回らないといって断られた。長い留学経験のあるきみなら判ってくれるだろうが、リョウは勝手の判らない海外生活で友達を欲しがっている。もし通訳がいやなら、単なる友人としてでもいい、彼に会ってやってくれないか」
 
何と言っていいか判らなかった。
 
通訳という肩書がいやというわけではない。真雪には、今目の前で告げられたことが現実感として伝わってこなかった。
 
このアメリカで、屈強な人々と対等にアイスホッケーをやり合える日本人がいるのだろうかと考えると、簡単には信じられなかった。例えルールにうとくても、それがどんなに乱暴なスポーツかということは知っている。
「クラスのことを心配しているんだったらその必要はないよ。きみがこのオファーをうけるなら、遠征中は代わりの講師をつけて、きみは必要な時だけアシスタントを務めてくれればいい。サラリーは今のままで、その上ホークスから別手当が出るからね、これは悪くない申し出だと思うよ」
 
アートはそう言っていたずらっぽく片目を閉じた。
「今すぐ返事をしなくても構いません。先に資料を渡しておくので、目を通して、もしよければ本人に会ってからでもいいんです」
「はあ……」
 
椅子の脇にあった茶色の封筒をラリーから差し出されて、真雪はとりあえずそれを受け取った。けれども二人の目の前で開けてみる勇気などなかった。思っていることが顔に出てしまうかもしれないからだ。
 
真雪は以前から通訳に興味を持っていたので、優秀な訳者になるには場数を踏むことが大事だと充分に判っていた。誰でも最初から魔法のように言葉が出てくるわけではない。何度も何度も通訳として数をこなして、その中で失敗もして、うまい訳し方を覚えてゆくのである。
 それを、いきなりプロのアイスホッケー選手専属の通訳では荷が重すぎる。
「しつこいようで申し訳ないけれど……」
 
と、ラリーは前置きをして、今度はしっかりと真雪に体を向けて言った。
「とりあえず会ってみてください。リョウはとても誠実な青年です。たとえきみが通訳を引き受けなくても、素晴らしい友達になってくれるはずです」
 
グレイの瞳は、真雪が見返しても怯みもしなかった。
 
このひとは本気だ。
 
真雪の頭にはそんな言葉が閃いた。ラリーの言うように『誠実で、素晴らしい青年』なら誰だって友達になりたいだろう。彼女もその言葉を信じたかった。
 
アメリカでは良くも悪くも誇張して表現されることが多い。ビジネスを売りこむ時は特にそうだ。相手に条件をのんでもらいたいばかりに、長所を執拗に誇張するケースは少なくない。そんなアメリカで暮らしている真雪の理性が、あまり期待しないほうがいい、と囁いていた。
 アートが、窓の外を気にしながら訊いた。
「雨は小降りになってきたみたいだけど、これからどうするんだい?」
「期末テストの採点が残ってるから、このままオフィスに戻るわ」
封筒を手に、椅子から立ち上がるとラリーも一緒に腰を上げて、再び右手を差し出しながら告げた。
「良い返事を期待しています、ミズ・フジワラ」
「お話しできて光栄でした、ミスター・ブロックス」 
 
型通りの挨拶を交わしてドアを開ける。アートのオフィスを出ながら、ラリーの『フジワラ』の発音は完璧だったと気がついた。
 大柄なラリーに向かって、何度も繰り返し教えているアートの姿を想像して、真雪は少し可笑しくなった。

 

 

 午後5時にテストの採点を終えてアパートに戻ると、メイルボックスに手紙が入っていた。バックパックを背負いながら片手でそれを抜き出し、3階まであがってゆく。
 
真雪のアパートはキャンパスの外れにあり、入居者は大学院生や結婚している生徒、大学に勤める者で構成されている。建物は全部で16あり、1LDKから3LDKと別れている。真雪の部屋は1LDKでルームメイトはいない。
 
鍵を回してドアを開けると、ダイニング・テーブルの上でさっそく手紙の封を切った。
 クォーターフイールド大学で一緒だった香田小夜子こうださよこからである。彼女が舞台芸術を専攻する学部生だった頃、真雪は大学院のプログラムを幾つか取るかたわら、日本語クラスのアシスタントをしていた。
 
小夜子は卒業すると、このあたりから5時間ほど離れたシカゴで職を見つけ、引っ越して行った。今では演出家のタマゴとして活躍している。卒業以来顔を合わせていないのに、どういうわけか2カ月と音信不通になったことがない。電話か手紙で必ず連絡を取り合っている。
 
4つに畳まれた淡いラベンダー色の便せんを開くと、見慣れた達筆な字で『藤原真雪様』と書かれてあった。小夜子の実家は日本舞踊と茶道・華道を教えている旧家である。彼女は三女なので跡取りとは直接関係ないが、それでも幼いころから一通り教えこまれたらしく、これが日本人の演出家として幸運な道を歩むきっかけとなった。
 
二枚目の便せんにうつったところで彼の名前が出てきた。
 『この次の休みには会えるかなと、いつも考えています。レイも写真でしか見たことがない真雪に会うのを楽しみにしてます』
 
彼女の言うレイとは本名をレイモンド・ラウといって、舞台と映画を中心に活躍している俳優である。香港出身の元スーパーモデル、マリアン・ラウの甥にあたる彼は幼い頃に一家で移住してきた香港系アメリカ人だ。二人は一昨年、仕事を通じて知り合い、しばらくして交際を始めた。
 
『ところで、私たち、先月7日に婚約しました。まだ身内にしか教えてないのですが、式は来年6月を予定しています。招待状を出すので、ぜひ出席してね』
 
明朗な小夜子が、幸せそうに微笑んでいる姿が目に浮かんだ。婚約者がいるという事実よりも、本当に好きなひとと結婚できる小夜子が羨ましかった。
 
28にもなると、つきあっている相手がいるとかいないとか、そういう目先のことよりも、この先本気で恋愛できるひとに巡りあえなかったら、という不安のほうが濃くなってくる。
 真雪にとっては結婚できないことよりも、このまま恋愛できなくなることのほうがずっと恐ろしいことに思えた。記憶の柔らかい部分に、埋もれるようにして見え隠れする過去がそうさせるのかもしれない。
 
ドキドキするような恋でなくていい。見とれるほどカッコいいひとでなくてもいい。見るたびに、彼が好きだと思えるような誰かと知り合いたい。
 
それが、正直な気持ちだった――。
 
久しぶりに明るい小夜子の声が聞きたくなり、今週末は電話をかけてみようと考えながら優しい色をした便せんを閉じた。すっかり暗くなってしまった外の景色を白いブラインドで遮ってから、コーヒーメーカーをセットして、デッキに入れっぱなしだったCDをかける。
 
レーヨンのパンツスーツを脱いで楽な部屋着に着替えると、ダイニングテーブルの上に置いたままのバックパックから、B4サイズの茶色の封筒がはみ出しているのが目に止まった。コーヒーメーカーのスイッチを切ってカップに注ぎ、フレンチバニラをたらしてから、片手で封筒だけ取り出してカウチに座る。湯気から甘い香りが漂った。
 
留めてあった金具を外して封筒の中身を出すと、最初に真雪の目に飛びこんできたのは、アイスホッケーのユニホームを着てスティックを握った選手たちがズラリと並んだ、チームの集合写真だった。
 
どのひとが彼なのかな。
 
真雪はコーヒーをすすりながら、だいぶ長いことその写真に見入った。最前列から2列目の右端に写っている青年だけが東洋人だった。他の選手は笑顔を作っているのに、彼だけはくちびるを一文字に結んで、どこか凄むような目つきで写っている。アメリカ人は撮影なれしているので、カメラを向けられると笑顔を見せるのが普通だ。
 
クリップで挟まれた写真を外すと、英文できちんとプリントされたA4サイズの紙があらわれた。
 
それによると彼の本名はキシダ・リョウヘイといって、長野県出身、3月8日生まれの23歳。国立S大を卒業後、神奈川のアイスホッケーチームに所属。ポジションはフォワード、ライトウィング。先月からクォーターフィールド・ホークスに移籍。身長6フィート、体重177ポンド。だいたい183センチ、80キロというところか。
 
そこで真雪は再び写真に目を戻した。
 
……そんなに大柄なひとには見えないけどなぁ。
 
周りにいる選手たちがみな大きいから目立たないだけかもしれない、と思い直す。東洋人は黒い髪と瞳という印象が強く記憶に残る。白人選手に紛れると特に、そこばかり目立ってしまって体格云々というところまでは注意がいかない。写真では彼がどんなひとなのか、どんな性格でどんな声をしているのかということまでは判らないのだ。
 
『とりあえず会ってみてくれませんか。返事はそれからでもいいんです』
 
静かに、けれど強靭さを感じさせる声でラリーはそう言っていた。
 
日本語講師をしている都合上、英語力は他の日本人を上回っていることは確かだが、通訳というのはそれだけでは成り立たないものだ。日頃から好感を持っているアートが、自分を推してくれたということが真雪にはとても嬉しかった。そのアートのためにも、わざわざ足を運んでくれたラリーのためにも、真雪はリョウヘイと会ってみようという気持ちに変わり始めていた。
 
会ってみて、それでもまだ荷が重すぎると思ったら、素直にそう言えばいい。本人と話してみないことには、一緒に頑張れるひとなのかどうかも判らないじゃないの。
 
胸の中でそうつぶやいて、コーヒーを飲み終えた。スピーカーからは、女性シンガーのハスキーな声が流れている。好きなそのラブソングを聴きながら、真雪は夕食の支度に取りかかった。

 

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