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第10話 「総天然色」

 

 6月になると気温も湿度も高い日が多くなった。
 朝の通学途中、『アステリスク』で何か冷たいものをテイクアウトしようと路地にはいる。
 忙しそうに行き交うスーツ姿の人や学生のあいだを縫って、大通りとは反対側からのんびり歩いてくるヒツジタオルが突然目に飛びこんできた。
 ――平野さんだ。
 そう気づいて、息が止まりそうになる。
 相変わらずのTシャツとカーペンターパンツ。その目に映るのがどんな世界なのか、眉をしかめてむずかしそうな顔をしていた。
 どうしてこんなときに……姿を見てもさみしさしか募らないときに、会っちゃうんだろう。
 うつむき加減だった顔をあげたとき、平野さんはわたしのほうを見て、おや?という感じに首を動かした。
 ぎゅうっと胸が痛くなる。
 いつもなら気軽にあいさつできるのに、舌が固まってしまったように声が出なかった。歩道で立ち止まったまま、歩いてくる平野さんを見ているだけでせいいっぱい。
 平野さんはわたしに声をかけようとはせず、すうっととなりにならんだ。
 うっすらとたばこの匂いがした。彼が吸うのか、工務店のだれかが吸うのかな。その両方かもしれない。
 ゆるゆると、そんなことを考えた。
「アイスコーヒー6つ。ぜんぶトールで」
 テイクアウト用の小窓の中の店員さんにそれだけ伝える。
 赤いエプロンの小柄な女性店員は、はいとうなずくと透明なカップを用意してすぐに作りはじめた。
 アイスコーヒーを待っているあいだ、となりに突っ立っているわたしに顔を向けて、また首をかしげる。  
「……なんですか。ひとのことジロジロと、まぼろしの珍獣みたいに」
 こんなことが言いたかったんじゃないのに、さっきまで凍りついていた言葉が勝手にとびだしたみたいだった。
 ふっと空気が動いて、平野さんの肩が大きく揺れた。
 ――いま、笑った?
 まさかね。
 びっくりしてまっすぐに彼を見上げてしまった。
「まぼろしの珍獣って……ツチノコ?」
 肩だけじゃなく、平野さんは声も揺らしてそう言った。
 えええ。
 自分の目で見ているものが信じられなかった。
 いつもは疲れしか映していなかった目が細くなり、日に灼けた頬にきゅっとしわが寄っている。
 ぼさぼさの黒髪と不精ひげのせいで垢抜けない風貌が、一気にひとなつこい印象に変わっていた。
「……あ、ちがった。ビッグフットだ」
 わたしの足元を見ながらこぼれたつぶやきに、かっと体温が上昇した。
「なっ――ど、どうせわたしは大足ですよーだ! いーっだ、平野さんのイジワル!」
 気にしてることをからかわれたせいで声が大きくなった。
 そう。身長175センチのわたしは足も大きくて、サイズの合う可愛い靴がすくない。
 平野さんは今度こそ声をあげて笑った。かすれてるけど、楽しそうな声だった。
 目じりも眉も下がりっぱなしの笑顔が、今までの無粋でぼんやりした印象を一変させる。
 自分の心臓が肋骨の中で踊っているかと思えた。
 同時に視界から古い膜がはがれたみたいに、急にはっきりと色が見えてくる。
 総天然色の世界に立っている平野さんは、ピンクのヒツジタオルだし不精ひげだし眠そうな目だったけど――いままででいちばん目が離せなかった。
 こんなのってありなわけ?
 こんな……平野さんの笑顔が見られただけでこんなに。
 うれしいなんて。
「あの、あとで工務店に寄ってもいいですか? 傘返しに」
 代金を払って、ペーパーバッグに入ったアイスコーヒーのカップを受けとっている平野さんにあわてて訊いた。
 このあいだ借りたあのビニール傘は、会いにゆく口実もつかめないまま、大学の私物ロッカーにしまってある。
「傘?……ああ、あげるのに」
 平野さんは眉も動かさずに答えた。いまやっと思い出したような言いかただった。
「いいんです。借りたままって気になるし、どうせ通り道だし」
 いっしょうけんめいトーンを抑えて、どうでもよさげに言ったつもりだった。
 だけど、わたしなんかよりずっとおとなの男のひとはどう思っただろう。
 やっぱり簡単にバレちゃうかな……平野さんに会うための口実だって。
 そんなわたしの気持ちなんか気づきもしないで、彼はTシャツの背中を見せると来た道を戻りはじめた。
 そのうしろ姿に言葉を投げた。
「授業が終わったら持っていきますから!」
 はいはい、というように片手をあげて、平野さんは振り返らずに歩いていった。
 くやしいけど、その姿はわたしの何倍もどうでもよさそうに見えた。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇  ◇ 

 

 午後になると雨が降りだした。
 薄暗い、鉛色の雲でおおわれた空。降りつづく雨はなかなか止みそうになかったけど、わたしの心は弾んでいた。
 それもこれも、みんなこの傘のおかげ。
 私物入れに使っているカギ付きのロッカーをあけて、透明なビニール傘を取りだしながら考える。
 貸してもらったあと、返しにいくのはなんとなくためらってたんだけど、今朝は偶然会えたし、傘を返すっていう口実もとりつけたし。
 あとは、堂々と胸をはって平野さんに会いにいけばいいんだ。
 授業が終わってキャンパスを出ながら早足になってしまった。
 『滝工務店』の近くまでくると、いったん呼吸を整える。
 ビニール傘を片手に、ガラスのサッシ越しに中をうかがった。
 作業服姿の滝さんが電話でだれかと話しているところだった。
 となりの棟をのぞくと、作業場に人影が見えた。
 淡いベージュのTシャツに黒っぽいカーペンターパンツとヒツジタオル――平野さんだ。
 入り口に背を向けて、台の上で何か作業をしている。
 ぎゅーん、という工具らしきものの音が聞こえた。 その音が止んだ数秒を見計らって、サッシをノックする。
 ヒツジタオルの平野さんが振り返り、一瞬わたしを見て口を引き結ぶと、すっと視線を落とした。
 そういえば、平野さんはよくこういう目をする。
 なんだろう?
 筆を払うしぐさにも似て、どこか距離を感じる。
 ま、いつもいつも今朝みたいな笑顔を見せろとはいわないけどさ……もうちょっとうれしそうにしてくれるといいな、なんて、期待しすぎかな。
 左手に傘を持ちかえて右手でサッシを引いたけれど、となりと同じくこっちのサッシもびくともしなかった。
 傘を持ったまま、両手をかけてぐっと力をこめてもやっと5センチくらいの隙間ができただけ。
 工具を置くと台から離れ、平野さんが戸口に近づいてくる。
 がっ、と枠ごとつかみ、すこし浮かせるようにして引くとサッシは難なくあいた。
「コツがいるんだ。上にあげて引くといい」
 隔てるものがなくなって間近に立たれると、わたしの心臓はどきんと大きく脈を打った。
「……こ、工務店なのに、たてつけ悪くてどうするんですか」
 ああ、またこんなへらず口を。
 こんなことが言いたいんじゃないのに、どうして口は勝手に動いちゃうんだろう。
 自己嫌悪におそわれて下を向いた。
「そうだな、じゃ棟梁に言っておく」
「えっ、やだ冗談」
 さっと顔をあげて右手を振った瞬間、サッシを押さえていた平野さんの左手にぶつかってしまった。
 びっくりして思わず後ずさりしたのと、背後がすぐ車道なのに気づいたのがほぼ同時。
 前に立っていた平野さんの目が見開かれ、大きな手がわたしの右腕をつかんだ。
 ぐいっと引っぱられ、引っぱられすぎて平野さんの肩に顔からぶつかってしまった。
 うしろを通るステーションワゴンがはねあげた雨水がふくらはぎにかかる、いやな感触があった。
 でもそれよ り、つかまれた手のひらの強さや頬にあたったTシャツのにおいや前髪にふれる不精ひげばかりが気になった。
 腕をつかまれたかっこうのまま作業場の中に引きこまれていた。
 持っていたビニール傘が左手から離れて倒れ、サッシのレールと床にあたるぱったんという音が、ものすごく大きな音に聞こえた。
 その音が合図になったように、平野さんがわたしから手と体を離す。
「すみません……ていうか、その、ありがとうございます。えと、傘とか、いろいろと」
 わたしはその、傘を返しにきたっていうのに、戸口でよろけて車にひかれそうになったのを助けてもらうなんて。
 なにがなんだかよくわからない。しゃべっていないと頭に血がのぼりそうだった。
「かさねがさね、ごご、ご迷惑をおかけして……ええと」 
「はねが飛んでるぞ、うしろ」
「え?!」
 ぎょっとしてうしろを見る。
 白いクロップドジーンズのすそに、ばっちりと泥水のはねが飛んでいた。
「えー、うそ! なんなのこれ? っていうか洗ったばっかりなのにもおぉ……」
 ついてない。
 ――そう言おうとして見ると、平野さんがすこし横を向いたまま笑っていた。
 日に灼けた喉のあたりから、くっくっ、と楽しそうな音がする。
 唖然としているわたしの前で、もういちどこちらに顔を向ける。
 そこではじめてわたしの目を覗きこんで、平野さんは、しょうがないなって感じの笑顔になった。

 

 

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11/23/2009