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第11話 「落涙」

 

 平野さんが見せた二度目の笑顔は、どこか可愛らしかった。
 しょうがないなって感じに下がりぎみの眉と、すこし潤んでるのがわかるくらいはっきりとこちらを見つめている瞳。
 やっぱりわたし。
 このひとが――このひとのことが。
 好きだなあ。
「……平野さん、あの」
 思わず言葉が出ていた。
 平野さんがちょっと体をずらして作業場の中へ入るよう身振りでうながしてくれる。
 その動作にひっぱられるように、彼のすぐ脇、サッシの枠に手を伸ばしながら、わたしはもう一度言った。
「あの、わたし」
「え?」
「あなたのこと――」
 そこで、彼の瞳がわたしの背後のほうに流れ、続いて口元に緊張が走る。
 息を呑んだのは、わたしより平野さんのほうがわずかに早かった。
「――どうして」
 喉に異物が詰まったような苦しげな声で、平野さんはそれだけつぶやいた。
 ……え?
「礼示」
 背後からそんな声が聞こえるまで、わたしはだれかが近づいてくることすら気づかなかった。
 びっくりして振りかえる。
 狭い歩道に立っていたのは、めがねをかけたスーツ姿の男性だった。
 ステンカラーのレインコートを着て濃紺の傘を手にしている。仕事の途中で立ち寄ったようなかっこうだった。
「どうしてここに」
 さっきとおなじ調子で、平野さんがまた訊いた。
「おまえ、ケータイも解約したみたいだし電話もつながらないし」
 かつかつかつ。
 スーツ姿の男性は、たたんだ傘の先で歩道を叩きながら話しだした。
「アパートに行こうかとも思ったんだけど、きっと避けられると思ったから」
 まっすぐ、突き刺すような目で平野さんを見ながら続けた。
 はじめは怒っているのかと思ったけれど、ときおり躊躇するように間があいたので、気遣う気持ちもあるのだとわかってなんとなくほっとした。
「ああ、すまんすまん。すまないねえ」
 ががが、と大きな音とともに工務店のサッシがあき、滝さんが顔をのぞかせる。
「さきほどお電話でお話した本庄と申します。突然すみません」
 男性はそう言って、滝さんに向かってていねいなお辞儀をした。 
「そうなんだよ。さっき電話をもらってな、どうしてもおまえに会って話がしたいってえことだったから、来てもらったんだ、平野」
 あっさりした滝さんの声とは反対に、平野さんの表情が曇ってゆく。
「……なんでそんな」
「俺が勝手に決めたことだ。本庄さんは悪くねえぞ」
 機先を制するように滝さんが言った。
 それで平野さんも押し黙る。すうっと視線が歩道に落ちた。 
「このあいだうちの事務所に仕事紹介しただろう? それでここの連絡先がわかって、俺が滝さんに無理いって頼んだんだ」
 反論させるチャンスを与えたくなかったんだろうけど、聞いているうちに平野さんの顔がつらそうにゆがんだ。
 目には見えないけど鋭いナイフで、するりするりと体のどこかを切られているような、そんな痛そうな表情だった。
「びっくりしたよ、急に引っ越すから。仕事だって、何も辞めることなかったのに……おまえ、ちゃんと生活できてるのか? その、住む場所とか暮らしに困ってないのか」
 どんな間柄なのかわからないけど、本庄さんと名乗った男性の口ぶりはずっとまえからの知り合いみたいだった。
 あまり外見にかまっているようすもない平野さんの姿を見て驚いているようだ。
 疲れた目も伸びきった髪も不精ひげも古着みたいなかっこうも。本庄さんの中にある以前の彼のイメージとはちがっていたのかもしれない。
 本庄さんの声は彼に対する真摯な気持ちからだとわかったけれど、矢継ぎ早にくりだされる言葉の洪水は平野さんの心をどこかべつの、狭くて息苦しい場所へと追いやっているような気がした。
「あの」
 たまらなくなって、つい声に出していた。もうこれ以上、平野さんにつらそうな顔をさせたくなかった。
「あの……お話の途中ですみません。わたし、良かったら冷たいものでも買ってきましょうか」
 全員の中央にある空間に話しかけていた。
 本庄さんが一瞬口をつぐむ。
 平野さんが本庄さんにはわからないようにそっと息をつき、滝さんが思い出したように手をたたいた。
「おお、そうだ。冷蔵庫に冷たい麦茶が入ってるんだった。メイちゃん、悪いけど出すのを手伝ってくれるか?」
「はい」
「本庄さんもここじゃなんだから、どうぞ中に入ってください」
 滝さんはまっすぐ本庄さんを見て、ガラガラとサッシを広くあけた。入るまで待つ、といったその強い表情に、本庄さんはひとつため息をついてお辞儀をした。
「どうぞ。狭くて散らかってるけど」
 滝さんの言葉に押されるようにして、本庄さんは工務店に足を踏み入れた。戸口をくぐるとき、作業場の入り口に立っていた平野さんがこちらに背を向けて大きく両肩を揺らすのが見えた。
 まるで、大きく息をついたような、そんな揺れかただった。
 作業場と工務店は中のドア一枚隔ててつながっているので、平野さんは一旦作業場のサッシを閉め、中から工務店側に入って来るつもりらしい。
 わたしも工務店に入り、とりあえず滝さんの後を追ってついたての向こうに行く。そこは思ったとおり、小さなキッチンになっていて、流しのとなりにグレーの冷蔵庫と小ぶりの食器棚が置いてあった。
「メイちゃん、冷蔵庫あけてもらえるかな」
 食器棚からグラスを出しながら滝さんが言った。
「はい」
 2ドアの冷蔵庫をあけると、扉の裏のポケットに透明なピッチャーに入った麦茶があった。
 ふたについたハンドルをつかんで取り出したところで、左にひとが立つ気配がした。
 わずかに漂ってくるたばこの匂いで平野さんだとわかる。
「すみません、ちょっと出てきます」
 え?
 麦茶の入ったピッチャーを抱え、冷蔵庫の扉をしめた。
 平野さんの目は滝さんを見ていた。
「ああ? なんだよ、お茶ぐらいいますぐ出せるぞ」
「いえ。すぐもどります」
 こくりと頭を下げて、平野さんは身を翻した。スツールの前に立っている本庄さんに歩み寄り、低い声でなにか告げる。
 本庄さんは平野さんの顔を見てから、ついたて越しに見守っている滝さんのほうを気遣うように見た。申し訳なさそうに頭を下げる。
 滝さんもお辞儀を返した。
 平野さんが本庄さんの腕を押すようにして、ふたりは工務店の建てつけの悪いサッシをあけて外に出て行った。
 かたかた、ぱたん。
 食器棚のほうで滝さんが動き回る音が急に大きく聞こえだした。
 そこで、自分のしたことがものすごく失礼だったんじゃないかと気づいた。
「……ごめんなさい、滝さん。わたし、お邪魔でしたよね」
「ええ? そんなこたあねえよ」
 さっぱりとあっさりと、滝さんは言ってくれた。
 でもさっきの平野さんのようすを思い出したら、ぎゅうっと喉が詰まる思いがした。
「なんたって今日のことはよ、俺が――あああ、メイちゃん。そんなに泣かんでもいいだろうに」
 困ったように上擦る滝さんの声を聞いた瞬間、涙がいくつも頬を伝って落ちるのがわかった。
「すみません。な……泣くつもりじゃなかったのに……」
「ありゃりゃりゃ」
 困った困った、とつぶやきながら、滝さんが差しだしてくれたのがものすごく汚れた手ぬぐいだったので、一瞬だけ涙がひっこんだ。
「いえ、だいじょうぶです。ハンカチ、持ってます……」
 ポケットからハンカチをとりだし、目に当てる。
 わたしって、ばかみたい。
 なにも考えずに自分の気持ちばかり押しつけようとして……ほんとうにばかみたいだ。
 止めようとしたけど、流れる涙はなかなか止まってはくれない。
 どうしてこういうときの涙って、手に負えないんだろう。その不甲斐なさにまた涙がこぼれて頬が熱くなった。
「無理しなくていいから、ここに座んな」
 かたんと音をさせて滝さんが広げてくれたのは、折りたたみ椅子だった。そっと腕をつかんでそこへ座らせてくれる。
「気にすんな。メイちゃんはなんにも悪くない。今日のことは、俺の失敗だ。あんなふうに、不意打ちで本庄さんに来てもらうんじゃなかった」
 冷蔵庫に寄りかかりながら、滝さんは独りごとみたいにつぶやいた。
「平野に断りを入れるべきだったのかもしれない。どんなに良かれと思ってしたことでも、しょせん俺は他人だ。平野と本庄さんの間にあったことは、ふたりにまかせるべきだったのかもしれねえな」
 ハンカチで目元を押さえながら、わたしは滝さんの言葉の意味をゆっくり考えた。
 でも、よく呑みこめない。
「あの、平野さんと本庄さんて……何が……?」
 よくわからない質問になってしまった。
 それでも滝さんはわたしを見て、うん、とひとつうなずいてくれた。
「平野はあんなんだから何も言わないし、本庄さんから聞かされたのはほんのすこしだ。だけど、あのふたりは古くからの友人で、本庄さんは平野の義理の兄貴だったんだそうだ」
 義理の兄。
 言葉は頭に入ってきても、すぐにはその意味がつかめない。
 ええと、それに。
「……『だった』?」
「ああ。平野の女房が本庄さんの妹でな」
 がつん、と何か硬いもので頭を殴られたかと思った。
 結婚していることは知ってたけれど、第三者の口を通して聞かされる事実はまるでインパクトが違っていた。
 激しい痛みをともなうその衝撃に心を揺さぶられていると、滝さんはわたしを見て眉を下げた。
 しんみりと、まるでわたしが泣いたのは滝さんのせいだ、といわんばかりの顔になって。
 そして、言葉を紡いだ。
「そのひとは何年かまえに――亡くなってるらしい」
 わたしはこらえきれずに胸にたまった息をこぼした。
 どこもかしこも痛くてたまらない。
 頬をぬらす涙よりもっと熱いもので、体のどこかをえぐられたみたいだった。
 平野さんの胸元、ボールチェーンのネックレスに揺れていたふたつの指輪の意味が、やっとわかった。 
 

 

 

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02/02/2010