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第12話 「救い」

 

 泣き腫らした目のままで電車に乗ったのは、22年の人生ではじめてのことだった。
 車窓から鉛色の空を眺めた。雨はもう止んでいる。でも、目には見えなくても心の中はどしゃぶりの雨が降っているようだった。
 滝さんはすこし休んで目を冷やして行けと言ってくれたけれど、いまの状態で平野さんに会うことだけは避けたかったので、できるかぎりのお礼と謝罪をして滝工務店をあとにした。
 ――平野はワケありだ。
 まえに滝さんはそう言っていた。わたし自身も、平野さんのようすを見ていておなじことを感じた。
 だけど、これほどまでにその『ワケ』が深いことを、わたしは人生の経験としてわかっていなかった。
 どうしてわたしはこんなに子どもで、平野さんはおとななんだろう。年齢イコール経験値だなんて思ってないけど、彼とわたしとではあまりにも差がありすぎる気がした。
 ふれたものとふれてないもの、実感をともなってわかるものとそうでないものの差が。
『平野の女房が本庄さんの妹でな、そのひとは何年かまえに――亡くなっているらしい』
 独りごとのようだった滝さんの言葉がまたリフレインした。
 そのあとで、滝さんはぽつりと言った。
『メイちゃん、あいつを救ってくれねえかな……いや、そんな大げさなことでなくても、顔を見せに来てくれるだけでいいんだ。俺から見ると、平野は近頃やっと人間らしい顔をするようになったばっかりだったんだ。きっとメイちゃんのおかげだよ。メイちゃんといっしょにいることで、あいつの態度がやわらかくなったんだと思ってる。だから、そばにいてやってくれ』
 ほんの2時間ほどまえに聞いていたなら、それは最高にうれしい言葉だっただろう。
 鉛色の空をぼんやりと見つめながら、報われない、という言葉の意味に改めて思いをめぐらせた。

 

◇  ◇  ◇  ◇  ◇ 

 

 6月も半ばを過ぎると、世界はグレイ一色に塗りこめられてしまった。
 梅雨に入るまえに髪を切らなくちゃ、なんて考えていたのになんとなくタイミングをはずしてしまって、湿気を吸うと襟足にすこしだけクセが出る髪をもてあますようになった。
 でも滝工務店にはあれきり行けない……というか、気後れして行けなくなってしまったので、クセ毛の髪型もあまり気にならない。
 春からこっち、身の入っていなかったゼミの授業にもまじめに取り組み、大学院への進学を真剣に考えはじめたころだった。
 キャンパスを歩いていると、正面玄関の手前に白いトラックが停まっているのが見えた。
 後ろが荷台になったピックアップトラックだ。車体の横には、『修復工房・カイ』とプリントされている。
 ……修復工房?
 心の中でつぶやきながら、白いトラックに近づいた。ひっぱられるように足が向いていた。
 正面玄関の中で何かの作業をしているのか、男のひとの声がした。
「もうすこし後ろ……あ、そこ気をつけろ。ぶつけないように」
 声のしたほうを見ると、スーツのスラックスにワイシャツ姿のめがねをかけた男のひとが腕まくりをして大きな額縁を支えていた。
 反対側を持っているのはジーンズにTシャツ姿の若い男性。ふたりで額縁を持ち上げ、壁際に立てかけている。
 額縁をゆっくり下ろすと、ほっとしたように背筋を伸ばした。つるのところがしっかりとした作りの、濃紺のチタンフレームをかけたその横顔に覚えがあった。
 あのひとは――本庄さんだ。
 ワイシャツ姿の本庄さんがトラックのほうを振り返る。二、三歩前に踏みだしてから、おや、というようにトラックの後ろにいたわたしを見た。
 その仕草が、平野さんとよく似ていた。それだけで、胸がぐっと詰まる。
「ああ、どうも。このあいだ工務店にいた人だよね?」
 本庄さんはトラックの荷台に近づきながら、わたしに向かって言った。
「もしかして、ここの学生?」
 反射的にがくんとうなずいて答えた。
「佐藤といいます」
「あの工務店ではバイトか何かしてるの?」
「……いえ。そういうわけじゃ、ないです」
「そっか。礼示はここには来ないよ」
 本庄さんは、にいっと口元だけで笑って、荷台から脚立を引きだした。
「は?」
 ぎょっとして思わず彼を見返してしまった。
「俺もあいつに復職してほしいんだけどね、そんな気はないらしい」
 ああ、なんだ。そういう意味か。いちいち敏感になってるわたしってばかみたい。
「前は同じ工房で働いてたんですか、平野さん」
「いや、職場はちがう。けど、せっかく苦労して身につけた職なんだからさ、やめるのはもったいないだろ」
 ほんとうの兄以上に、身内らしい言葉だった。ドミやカレルだって、わたしに向かってこんなまっとうなことは言ってくれないような気がした。   
 本庄さんはそれから脚立を立てて、脇にいた若い男性といっしょに額縁を持ち上げ、きちんと元通りの位置に掲げなおした。
 そこではじめて気がついた。
 幾何学模様の油絵が、ぱりっとしている。
 油絵のキャンバスに『ぱりっとしている』というのもどうかと思うけど、薄皮がはがれたあとみたいに新鮮に見えた。
 わたしはトラックの脇から正面玄関に入り、絵の全体像を眺めた。
 ただの幾何学模様だと思っていたその絵は、よく見ると地の部分に薄く波線やドットが飛んでいて、そうした模様が浮き出てきたせいで新鮮に感じるのかもしれない。
 へえ、絵の修復ってこういうことだったんだ。こんなにすごいことができるなら、確かにもっと続けてほしい。
「きれいですね」
 額縁の横につけるプレートも新調したようで、ぴかぴかになった金のプレートの位置をたしかめていた本庄さんがこちらを振り返る。
「そうだろ? 修復士にとっちゃ基本中の基本だけど、一定のレベルの仕事ができるようになるには相応の時間がかかるから。礼示は滝さんのとこで働くようになってから、カフェの外装みたいなものもやるようになったらしいけど……まあそれはそれ、これはこれ」
「カフェの外装? そんなこともやってるんですか?」
「ああ、滝さんが話してくれた。『近所の外壁の修復も平野がやった』って。カフェだって言ってたよ」
 近所のカフェ。
 それって――もしかして『アステリスク』のことかな?
 アンティークの土壁にツタがからまったような、凝った外壁を思い浮かべた。でこぼこした表面や描きこまれたツタの模様。
 だれか職人さんの手作業なのかなと思ったことはあるけど、それがまさか平野さんの手によるものだったなんて。
「佐藤さんとは仲がいいみたいだね、礼示のやつ」
 脚立を荷台に積みあげながら、本庄さんが言った。
 苦い笑いが口からこぼれてしまった。それはないです、と。
「仲がいいひとなんて……平野さんにはいない気がします。わたしだけじゃなくて、だれのこともどうでもいいみたい」  
 わたしを見ているようで後ろへ突き抜けている瞳も、完全ニュートラルを決めこめるのも、どうでもいいからなんだ。
 そんなことを思いだしてため息が出そうになる。
「そうかな。でもこのあいだ見かけたとき、笑ってた」
 見つめていたトラックのタイヤから、視線を上げた。
「……え?」
「工務店の入り口でさ、佐藤さんと顔見合わせて笑ってたじゃん。ここ何年も見たことなかったよ、あいつのあんな顔。最後に笑ってたのがいつだったか思い出せないくらい久しぶりだったから、俺は腹が立ったんだ。なんだよ、大盛りの心配かけやがったくせに――だいじょうぶじゃねえかよ、って」
 言いながら、本庄さんも笑っていた。しょうがねえな、って感じの笑みで、それが一瞬だけ平野さんの表情を思い起こさせる。
「だけど」
 そこで笑みが静かに消えた。
「元気でやってるならそれでいい。でももし佐藤さんには荷が重すぎると思ったら、そのときは礼示のこと放っといてやってくれ」
 本庄さんはそこではじめてうつむいた。まるで、どう言えばわたしを傷つけずにすむのか考えているように。
 『荷が重すぎる』?
 その言葉にちくりとした怒りを感じるわたしって、やっぱり子どもだ。
「放っておくなんて……できればどんなにいいかと思いますよ。でもできない」
 最初に彼を目にしたときのさみしそうな背中を思い出したら、言わずにいられなかった。
 あのとき、どうしても放っておけなくてヒツジタオルをポケットにねじこんだ。そうでもして確かめないと、生きてるのか死んでるのかさえあやふやに見えたんだもの。
「放っておいたら、礼示さんはずっとあのままになっちゃうんじゃないですか? あんなにさみしそうにされたら、わたしが友だちだったら放っておけない。放っておくほうがずっとつらい」
 勢いそこまで言ってしまってから、あわてて口をつぐんだ。
 ……はじめて彼のことを名前で呼んでしまった。それだけで、くちびるに火がついたように熱くなる。
「放っておくほうがずっとつらい、か」
「ごめんなさい――本庄さんのことを責めてるんじゃないんです」
 見えないものをひと払いするように首を振ると、本庄さんはまた笑顔になった。
「いいよ、そんなふうに考えたわけじゃないから。それにまあ、礼示はむかしから弾けるのがへたで、分別くさくてどっか若年寄みたいなとこがあったからな」
 がたん、と大きな音をさせてピックアップトラックの背面を閉める。
「若年寄?」
「そう。かっこうもさ、抹茶色とか群青色とか海老茶色とか似合いそうだろ? もっと明るい色の服を着ろって、よく言ってたんだ」
 今度は怒りじゃなく、胸がずきんとした。
 言っていたのは、だれ? 本庄さん? それとも、礼示さんの――。
 そこで、さっきまで手伝っていた若い男性が運転席でしびれをきらしたようにかけたエンジンの音が響いて、はっとした。
「なんであんなジジむさいやつにくっつきたがるのか、俺にはわかんないけど」
 大げさに首をひねりながらそう言って、本庄さんがトラックの助手席側のシートに乗り込んだ。
「佐藤さんも、あんまりがんばるなよ。あいつにもそう言っといてくれ」
 にやりとくちびるの端をつりあげる。その表情に、ちょっとだけ救われた思いがした。
 救われたなんていうのはおそらくただの気のせいだろうけど。
「……がんばってなんかいませんよーだ」
 『修復工房・カイ』と書かれた白いトラックの後ろを見送りながら反論した。
 子どもじみたその声に、自分でもちょっと笑ってしまった。

 

 

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06/01/2010