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第13話 「転機」

 

 7月に入ると、入道雲と青空の日が多くなった。
 前期末の試験が目前にせまっていたけれど、今年はレポート課題がほとんどだから、これまでより少しらくだった。
 それよりも、大変なのは秋に控えている修士課程入学試験のほうだ。
 担当教授は夏休みを使って準備をすればいいと言ってくれた。それでも将来が曖昧なままなのに変わりがなく、夏空とおなじように気分が晴れる日はまだまだ遠いことみたいに思えた。
「メイ先輩! これからランチですかー?」
 講義が終わり、このままカフェテリアに行こうかなと考えながら廊下を歩いていると、元気な声に呼び止められた。
 秋穂ちゃんだ。人懐こい笑顔で、まっすぐわたしに駆け寄ってくる。
 ほっとした。いつもどおりの秋ちゃんだ。
「よかったら秋ちゃんもいっしょしてくれない?」
「いいんですか? じゃあよろこんで」
 居酒屋の店員さんみたいなぱきっとした笑顔が返ってきた。
 ふたりで並びながらカフェテリアに向かう。ほとんどの学生がもう半そでで、夏らしくなったキャンパスはいっそう明るさを増したように見えた。
 何か軽いものにしようと思ってたけど、セルフの棚のふわふわたまごのオムライスを見たらそっちが食べたくなってしまい、あっさりと趣旨変えした。
 サンドイッチとサラダを選んだ秋ちゃんと連れ立って窓際の席に座る。かなり離れたテーブルで他のグループと談笑している勇馬の姿も見えた。わたしに気づいて挨拶がわりに顎を引きあげてみせる。
「いつも仲いいですよね、メイ先輩と勇馬先輩」
「わたしとは高校からのくされ縁。勇馬は顔が広いから仲のいいひとはいっぱいいるんじゃない」
「でも、なんかお似合い……っていうか、先輩たちが並んでるところ見るの好きなんです、わたし」
 ははは。笑うしかなかった。
「『どうしてメイ先輩とつきあわないんですか』って言ったら、怒られちゃいました」
 あのときのことだ――部室の外で聞いた秋ちゃんの声を思い出した。
「つきあわないよ、勇馬とは」
 あたりまえだ。あいつはいい友だち。それはずっと変わらないし、だれに干渉されるようなことでもない。
「そう思うなら、秋ちゃんが立候補したらいいのに……好きなんでしょ? 勇馬のこと」
 そうとしか思えなかった。
 秋ちゃんが手を止めて、すうっと息を吸いこむ。サラダをつつくはずだったフォークを一旦トレイの上に置いた。
「ちょっとちがうかな、勇馬先輩が好きっていうのとは」
 わたしもスプーンを置いた。来るなら来い、みたいな心境だった。
「わたし、先輩が思ってるよりずっと子どもなのかも……だから、メイ先輩と勇馬先輩を見てるのが好きなんです。何か話しながらいっしょに笑ったり、さっきみたいに『言わなくてもわかってる』みたいなしぐさをするところ」
 ドッヂボールをしていたら、まったく予期していなかったところからボールが飛んできた――たとえるならそんな衝撃だった。
 わたしは、は?と間抜けな声を出したきり、秋ちゃんの顔を見つめた。
 流行りのマスカラできちんと上を向いたまつげや、きれいなラインで縁取られた目。その目が、ふっとやわらかく弧を描く。
「そんな顔しないでくださいよ! だってそういうのって経験したことなくて、憧れてたっていうか……実際に見るまで、そんなことってありえないと思ってたんです。そんな――先輩たちみたいにぱっと目を惹くひとたちが、純粋な友情でつきあってるなんて」
 ……ちょっとそれは、わたしの認識とずれているような。
「それって、どこかでわたしを必要以上に特別視してるってことじゃない?……わたしが、いわゆる『ハーフ』だから」
 自分で口にするには屈辱的な言葉を、わたしは敢えて言った。
 秋ちゃんは目を見開いて首を振る。
「ちがいます、ちがいますよ!」
「父親が外国人だからって、うちなんて特別なことはなにもないと思うよ。ふつうにお箸使ってゴハン食べるし、ちゃぶ台みたいなこたつもあるし、みんなでしゃべるのは日本語だし、お正月もお盆もあるよ」
 日本に住んでるんだから当たり前なんだけど、とつけたした。
「そうなんですか。わたし、知り合いに外国人がいないんで、まったく想像つかないっていうか……」
「おなじ、だとは思えない? 日本人なんだし、っていうか人間なんだから、基本的なことはなにも変わらないでしょ。そういうふうには見てもらえない?」
 トレイの手前に置いた秋ちゃんの手に、ゆっくりとちからがこもるのがわかった。わたしを見ていた目が、ミネラルウォーターのボトルを見つめる。
「でも、先輩とちがってわたしチビだし」
 皮肉にもほどがあると思った。
「わたし175センチあるんだよ? 男子の平均身長超えてるんだよ?」
 自分より背の低いひととつきあったこともあるし、身長がコンプレックスになってへこんだことはあんまりない。へこむのは、むしろ相手から気にされたときだ。
 そしてそれは、わたしの場合、外見から生い立ちにいたるまですべてにつきまとう。
 気にしないで。わたしもあなたとおなじだから。ほかのひととおなじように接して。
 何度そう言ったかしれない。でもその声は、決してだれにも聞き入れてもらえなかった。
 ――ついこのあいだまでは。
「……あこがれてたんです。メイ先輩、かっこいいから」
 秋ちゃんは、まだミネラルウォーターのあたりに視線をさまよわせながら言った。
「手も足も長くてきれいなのに、エリコみたいに気どったところがないし、勇馬先輩みたいなひとともさらっと友だちだって言っちゃうし……わたしにはないものを持っていて、わたしにできないことをしてる先輩がうらやましかった」
「わたしだっておなじだよ。自分にないものを持っているひとを見ればいいなって思うし、自分ができないことをしてるひとはうらやましい。努力とかちょっとした苦労みたいなものには片目を閉じて、見ないふりをしちゃってね。人間ってそういうふうに考える生き物なんだと思う。でもほんとうは、みんな見えないところで努力したり、ひとにはわからない苦労もしてるものなんだね」
 うつむいている秋ちゃんのまつげは濃くてきれいだった。
「……わたし、子どもっぽいですよね。ほんと、自分で自分が情けなくなっちゃう……このまえ、勇馬先輩にも言われたんです。『子どもっぽいイメージ押しつけるのやめにしたら?』って」
「ごめん、あいつ頭はたいとく」
 間髪入れずに返すと、秋ちゃんが苦笑いした。
「そんな! でも、考えてみたら……ほんとうに勇馬先輩のいうとおりだったなって。わたし、メイ先輩のこと勝手にイメージ作りあげて勝手に固執して、先輩にもいろいろ苦労とかあるんだってわからなかった。考えが浅くて、子どもだった」
「はっきり意思表示するのが怖くて、ちゃんと向き合ってこなかったわたしも悪かったんだよ」
 秋ちゃんは首を振り、見ていたミネラルウォーターのボトルからわたしに視線を移した。
「子どもだから、見た目にばかりこだわって……あの男のひと――平野さんのことも、どうしても似合ってると思えなくて……先輩ならほかにもっとお似合いのひとがいるんじゃないかって、そんなことばっかり考えてました」
 今度はわたしが苦笑する番だった。
「似合ってるかどうかなんて、そんなに大事なことかな。だって周りを見ても、みんながみんなお似合いってわけじゃないよね。それより、いっしょにいて楽しそうだったり幸せそうなほうがいいと思わない?」
 秋ちゃんは否定しなかった。きっと彼女だってわかりはじめてるんだろう。わたしたちはみんな、もう身をもってそういうことを理解できる年齢になっているんだと。 
「平野さんは、わたしのこと『ハーフ』かどうかって一度も訊いてこないんだ。もしかしたら気づいてないかもしれない。もともと他人にはあんまり興味がないみたいだし……でも、そういうニュートラルさがわたしにはすごく新鮮だったの。いい意味での無関心ていうか、そういうのが欲しいときもあるんだなって初めて気づけたんだ」
「……無関心だから好きになるなんて、メイ先輩ぐらいですよ、きっと」
「そ、そうかな」
「そうですよ! ふつうは関心を持ってもらいたがるものでしょ」
「そりゃ、いまは関心を持ってもらいたいと思ってるけど……だれかからニュートラルでいてもらえたのって初めてだし、戸惑うこともあるけど、なかなか居心地いいよ」
 ミネラルウォーターのキャップをひねって開け、ひとくち含むと秋ちゃんはほほ笑んだ。
「そういうこと言えちゃうあたりが先輩らしいっていえば先輩らしいっていうか」
「……えーと、それは貶してるの、褒めてるの?」
「呆れてるんですよ」
 そこで、秋ちゃんとわたしはいっしょに笑ってしまった。
 銀色のスプーンで、冷めたオムライスをさっくりとすくう。
 すっかり冷めてしまったランチも、わたしにはぜんぜん気にならなかった。 
   
 

◇  ◇  ◇  ◇  ◇ 

 

 レポートの準備のために暗くなるまで図書館で過ごした帰り道、駅までの道すがら久しぶりに『アステリスク』でアイス・カプチーノをテイクアウトした。
 プラスティックの透明なカップを片手に、壁の前で足を止める。
 アンティークのようだと思っていた壁面は何かの材料で塗りこめられているらしく、弧を描いたような凹凸がついていた。
 その上に描かれたツタのような模様は、一見すると絵だとはわからない。凝っただまし絵のようだった。
 ……これって平野さんの仕事だったんだ。
 改装用のネットが張られていたころを思い出した。いまとちがって、まだすこし肌寒い春先だった。
 右を向くと、通りをはさんだ先に早々とライトアップされた公園の木々が見える。あの公園の植え込みのところで見かけたのが最初だったんだ――。
「――美味そうなもの飲んでるな」
 いきなり左側からそんな声が降ってきて、わたしは文字通り飛びあがった。
 手にしていたカップがするりと抜けて歩道に落ちる。ばしゃ、と冷たい液体がジーンズの膝から下にはねて琥珀色のしみを作った。
 振り向いた先に立っていたひとを見たら、どきんと大きく心臓が跳ねた。
「……平野さん!」
 Tシャツとポケットのついたカーゴパンツ姿の平野さんが、やってしまった、って感じの顔をしてそこにいた。
「びっくりした……なんなんですかいきなり」
 心臓がマックスで動いているような鼓動が自分の耳にも聞きとれた。びっくりしすぎて目に涙がにじむ。
 動揺を悟られたくなくて、肩にかけたトートバッグから小さめのタオルを取りだし、しみになったジーンズに当てる。白地に四つ葉のクローバーが飛んだタオルが琥珀色に染まった。
「歩きながら、むこうから手挙げたけど……」
 答えながら、平野さんはわたしの足元に落ちた透明なカップとストローを拾って、カフェの脇にあったダストボックスに捨ててくれた。
「見えてませんでした、反対側向いてたんだし。そういうときは声かけてください」
「……だから声かけたよ」
「後ろに来てからいきなりじゃ遅いの!」
 タオルを持ったままこぶしを振りあげ、笑おうとしたのに泣き笑いになってしまった。
 安堵のせいだ。
 急に声をかけられて、驚いて。驚きと怖さがいりまじったのはほんの一瞬で、振り向いたらわたしの好きなひとだとわかって、安心したせい。
 ジェットコースターみたいに揺さぶられた感情のまま、振り上げたこぶしは行き場を失った。抑えようと思っても涙がこみあげて、わたしは手にしたままのタオルで目じりをぬぐった。
「え……あの、そんなに驚いた?」
 礼示さんの困った声が、わたしの耳にいちだんと低く聞こえた。
「怖がらせるつもりじゃなかったんだ。ごめん」
 かすかなたばこの匂いがさあっと漂ってくる。
 下を向いていたから彼の表情は確かめられなかったけど、あわてているらしいようすはその空気の動きでわかった。
「ごめんな――佐藤さん」
 初めて呼んでくれた。
 よくある苗字だけど、このひとの声で聞けるとは思わなかった。
 それがちょっとだけうれしくて、また涙が出た。 

 

 

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07/23/2010