>>NOVELS >>INDEX >>BACK >>NEXT


第14話 「アイス・カプチーノより幸せなもの」

 

「……だいじょうぶ?」
 夕暮れ時で、辺りはすこしずつ暗くなりはじめるころだった。公園のベンチに腰かけているわたしを気遣うように、となりのベンチの端から礼示さんがささやくように訊ねた。
「平気です」
 四つ葉のクローバーが飛んだ白いハンドタオルを手にしたまま、わたしはゆっくりとうなずいた。
「なんか、逆に気を使わせてしまって……すみません」
「いや」
 悪いのは俺だから、と指先で額を掻きながら答える。
「声かけるタイミングって、意外とむずかしいな」
 礼示さんが困ったようにうつむくと、目元は髪に隠れてしまった。わたしの座っているベンチと彼が座っているベンチの間は、ひと一人通れるくらいしか離れていない。
 その距離に甘えて、好きなひとの姿を久しぶりにじっと見ることができた。そっと気づかれないようにして、だけど。
 髪、伸びたみたいだ。
 今日はヒツジタオルをかぶってないからよくわかる。彼のごつごつした手の節や指、肘についた塗料みたいな汚ればかり見つめていた。
「ほんとうに平気?」
 いきなり首だけ動かして彼がこちらを向いたので、ばっちり目が合ってしまった。
 わたしは大急ぎでうなずくと目をそらし、タオルで顔の半分を隠した。
「静かだとかえって心配だな」
「……いつもそんなにうるさいですか、わたし」  
「うるさくはないけど、なんていうか……華やかなひとだ。ぱっと明るくなる」
 そう言われたのは礼示さんがはじめてのことじゃない。なのに、彼に言われると気持ちがそわそわした。
 確かにいつもはわたしが話しかけて、礼示さんが答えるって感じだけど……じゃあこのまま黙っていたら、もっと彼のほうから話しかけてくれるのかな、とヨコシマな気持ちがわきあがる。
「さっき飲んでたの、何?」
「さっき?」
「あの店のところで、俺がこぼさせちゃったやつ」
「……アイス・カプチーノです」
 礼示さんがベンチから立ち上がった。ポケットの小銭を確かめて言う。
「買ってくるよ」
「えっ、そんな……いいですよ!」
 つられてわたしも立ち上がり、あわてて彼の腕を引いた。こぼれたアイス・カプチーノを買ってもらったら、それきりそこで別れなければならないような気がした。
「でもほとんど飲んでなかったから」
「だいじょうぶ。それよりちょっとだけでいいんで――こうしていてくれませんか? もうすこしだけ」
「え?」
 礼示さんがわたしを見つめ返す。黒い瞳に反射した街灯の明かりまで見えた。
 引きとめようとしてふれていた彼の腕が、いまや石のように硬く感じられた。ちりちりと指先が焦げそうになる。
「あの……あのカフェの外装、平野さんが手がけたってほんとうなんですか?」
 わたしはとっさにそんなことを訊いていた。なんでもいいから彼を引き止めたかった。
 礼示さんはすうっとひとつ息を吸うと、顎を引きあげるようにしてうなずいた。
「ツタっぽい模様とか壁とか、手が込んでますよね。絵の修復士さんのお仕事とはちがうような……」
「ああ、あのカフェのは棟梁に頼まれただけだから……修復士の仕事とはちがうんだ」
 答えながら彼がうつむいた。それが合図のように、わたしはそっと彼の腕から手を離した。
「うちの大学の正面玄関の油絵も、本庄さんの工房が修復したんですよね、すごくきれいになってました。なんだか膜がはがれたみたいっていうか、ぱりっとした感じになってた」
 夕方の薄闇でさえ、うつむいていた彼の横顔がほころぶのがわかった。
「油絵だろ? 『ぱりっと』って、洗濯物じゃないんだから」
 ははっと声を立てて笑われ、わたしの胸の鼓動はぐうんと速くなった。
「だって、そう見えたんだもん。修復されたあとの絵は細かいところもはっきり見えるようになってて、それって洗濯するのと似てるなって思ったから……そんな、笑わなくってもいいじゃない。なんなの、失礼な!」
 声に力をこめてそう言うと、礼示さんは顔を傾けて目の端で確かめるようにわたしを見た。
「そうそう、いつもの感じにもどった」
 目じりの下がった笑顔があまりに優しげで、心臓をつかまれた気分になる。
 ずいぶん年上のひとなのに、どうしてこんなに可愛い表情が作れるんだろう。
 どうしよう。
 本気でこのひとに参ってしまった。
 まっすぐ礼示さんのほうに体を向けて言った。
「わたし、こう見えて気が強いほうなんです」
「『こう見えて』?……っていうか見たとおりだな、それは」
 まだ笑みを浮かべたままで彼が答えた。
「そのうえ押しも強いから、この際『良かったら』とか殊勝なことは言いませんよ」
「なんだよ急に」
 こちらに体を向け、おどけたように肩を引く。それで、まっすぐわたしと向き合うかっこうになった。
「さっきの、こぼれちゃったアイス・カプチーノのかわりにこういうのはどうですか?」
「何?」
「来週の日曜から大学が夏休みになるんですけど、その日一日わたしにつきあってもらえませんか」
 耳の中で聞こえる自分の声が、だれか別のひとみたいだと思った。
 礼示さんを前にすると、どうしてこうも押しが強くなってしまうんだろう。自分でも不思議に思う。
 それでも。
 どうしてもチャンスを逃したくなかった。
 もっといっしょにいたかった。休みの日を、一日でいいからわたしに貸してほしかった。
 礼示さんはちょっと眉をあげて言った。
「なんで?……もっと有意義なことに使えばいいのに」
「礼示さんにつきあってもらえたら、わたしにとってはじゅうぶん有意義なことなんですけど?」
 あっと思った。
 言ってしまった。
 黙ってるつもりだったのに、自分史上最高の意思表示をしてしまった。
 なんなのわたし?
 ずっと年上のおとなの男のひと相手にここまで必死になるなんて、必死すぎてめちゃめちゃかっこ悪い――。
 そう思いながら礼示さんの横顔をチラ見して、もうすこしで笑いそうになった。
 夕闇の中でもわかるほど、耳たぶが赤くなっていた。
 はっきりとした線を描く顎も、頬も、朱に染まっている。
 彼がここまで何かの感情をあらわにした顔を見たのは初めてだったので、大急ぎで安心させようと両手を振った。
「いや、あのっ、平野さん、ね、猫とか好きかなあ、って」
「猫?」
「そう。えと、来週の日曜、猫毛フェルトの展示会っていうのがあって……実演とかパーツ販売もあるみたいで、もし行けたらゆっくり見たいなあって思ってたんです」
 でまかせじゃなかった……半分くらいは。
 10日くらい前にうちの猫たちをかかりつけの動物病院につれていったとき、受付カウンターの上に置いてあったチラシを目にした。動物をモチーフにしたアーティストの展示会やチャリティーバザーのイベント案内だった。
 その中で猫毛でフェルト小物を作っているアーティストのことを知り、行ってみたいなと思っていたのは確かだった。開催日がちょうど夏休みの初日で、とくに予定が入ってるわけでもなかったし。
 ただ、入場無料と書かれた会場がうちからはすこし離れた港町だったので、行くかどうか迷っていた。
 でも、もし礼示さんと出かけられるなら、逆にちょっとくらい遠いほうがいいな。そんな思いつきを口にしてみただけだった。
「猫毛フェルトって何?」
 礼示さんには初めて耳にする言葉だったんだろう。よくわかってなさそうな、頼りない表情でそう訊いてきた。
「猫の抜け毛をきれいにしてフェルトみたいに固めたもの。肉球ストラップとか、よくできてて可愛いんですよ」
 動物病院からもらったチラシに載っていた写真を思いだして言った。
 白いのや黒いのや三毛。小さな鈴をつけた肉球ストラップはぷっくりしていて、本物そっくりに見えた。
「展示会ってどこでやるの」
 わたしは三浦半島にある大きな港町の地名を口にした。都内からはちょっと遠いけど、私鉄の快速特急を使えばそれほど時間はかからないはずだった。
 礼示さんは考えているのかすこし黙り込んだ。
 断る口実を探してるようにも見えて、がっくりした……そうだよね、やっぱりだめだよね、わたしが誘っても。
 そう思って口をひらきかけたとき、顔をあげた彼と目が合った。
「――じゃあ、アイス・カプチーノのお詫びってことで」
 自分の耳で聞いたことが信じられなくて、口をあけたまま彼を見つめ返してしまった。
「つきあうよ、その猫毛展示会」
 ……猫毛"フェルト"展示会なんですけど。
 わたしは心の中でそうツッコミを入れながらも、はい!と返事をしていた。
 これって、アイス・カプチーノを奢ってもらうよりだんぜん幸せだ。
 勇気を出して、誘ってみてよかった。
 やるじゃん、わたし。
 胸の中に、さあっと夏の青空が広がったような気がした。

 

>>NOVELS >>INDEX >>BACK  >>NEXT
08/20/2010