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第15話 「いまだけでいいから」

 

 8月最初の日曜日は快晴になった。
 伸びっぱなしの髪をなんとか思いどおりにしようと朝からあれこれ悩み、鏡の前で奮闘すること30分。
 しっかりメイクをしてみたけど気に入らなくて二回目の洗顔をし、いつもとたいして変わらないナチュラルメイクにもどした。でも着ていくものがなかなか決まらない。
 最終的に普段とおなじクロップド・ジーンズとボーダーの膝丈チュニックという格好に落ち着いて最寄りの駅までたどり着いたときには、午前中だというのに気温はもう30度を超えていた。
 今年は猛暑の上に、予測のつかないにわか雨が多い。日傘兼用の折りたたみ傘をバッグにしまい、冷房の効いた車内に乗り込もうと急いで改札をくぐりぬけた。
 礼示さんは携帯電話を持っていなかった。だけど滝さんから持っていたほうがいいと勧められたのか、それとも彼自身があったほうが便利だと考えたのか、最近になって携帯ショップで契約をしたらしい。
 礼示さんの番号とアドレスをもらって入力すると、わたしの携帯電話は何か特別なものになったような気がした。
 ――当日もし見つけられなかったら、電話して。
 そう言われたけど、きっと見つけられるからだいじょうぶだと思っていた。

 

 地元から乗ってきた私鉄を横浜駅で降り、人波のあいだを縫うようにして別の私鉄への乗換え口に向かった。
 礼示さんとはホームで待ち合わせることになっていた。
 この駅はいつだってひとでいっぱいだけど、日曜や祝日は特に人出が多い。おまけに世間は夏休みだし。  
 どこにいたって、あなたを見つけられないわけがない。
 漠然と抱いていたそんな思いは、駅の構内を歩くうちに変わった。
 似たような背格好のひとは何人かいるけど、どれも礼示さんじゃない。携帯を耳に当ててしゃべってるひともたくさんいて、四方からその声が聞こえてくる。
 どんどん上がってくる気温とひとの熱気。ひっきりなしにホームに流れ込んでくる電車。止むことのないアナウンス。
 頭がごちゃごちゃして考えがまとまらなかった。
 見つけられそうにないときは、電話しなくちゃ……ようやくそれだけ考えてショルダーバッグの中をさぐった。
 ミントブルーの携帯が震えている。着信表示に『礼示さん』の文字が見えて、あわててつかみあげた。
「もしもし、礼示さん?」
「駅についたんだけど……いまどこ?」
 一瞬、思わず息が止まりそうになった。
 初めて携帯電話を通して聞いたからなのか、ちょっとぞくぞくするようないい声だった。
 ……って、こんなときなのになんなの、わたし。
 そう思ったとき、電話を通して発車を知らせる音楽が聞こえた。わたしの耳にもおなじものが届いている。
「――ああ、わかった。もう見つけた」
 え? どこ?
 反射的にあたりを見回して、ホームの端から歩いてくる彼が見えた。
 ジーンズと、ボーダーのTシャツに空色の半袖シャツ。閉じた携帯電話を持った手を振っている。
 その姿を認めた瞬間、肩から何か重いものがとれたような感じがして、わたしは大きく息をついた。
 良かった。
 来てくれた。
 ちゃんと会えた。
「すごい人出だけど、乗れるかな」
 ホームに並んだひとを見て、礼示さんが言った。
「はぐれないでくださいね。その年で迷子ってちょっとありえないですよ」
 電車を待つ列にふたりで並びながら、わたしはそう悪態をついた。
「迷子になるならわたしといっしょでお願いします」
「なんだそれ? ふたりとも迷子になってどうすんの」
 礼示さんが目じりを下げるようにして笑顔になる。肩がふれるほど近づいてホームの列に並ぶだけで、可笑しいくらい胸が高鳴ってしまった。
 ほどなくしてホームに滑り込んできた快速特急に乗る。車内はそこそこ混んでいて、わたしたちは反対側の出入り口付近に立ち、手すりにつかまった。
「そうだ、猫毛フェルトってこんな感じです」
 ショルダーバッグからチラシを取りだし、礼示さんに手渡した。
「へえ……猫の毛には見えないな」
 口元にゆるやかな笑みを浮かべる礼示さんを見ながら、彼の着ているTシャツのボーダーとわたしの着ているチュニックのボーダーが同じ濃紺なのに気づいて、また一段と胸のドキドキが速まった。
 でも同時に襟元からボールチェーンの鎖がちらりと覗くと、わたしの鼓動は目に見えるようにスローダウンした。
 ……そうだった。
 あの鎖の先についている指輪の存在を忘れてはだめ。
 礼示さんには心の中にだいじなひとがいる。
 いままでもこれからも変わらない場所に居続けるひとだ。
 それはわかっている。いつだって――。
「さっきの電車の中でニュース見たんだけど、昼から雨になるらしい。傘なんか持ってこなかったのに」
 チラシを返してくれながら、彼が言った。
「わたし持ってきましたよ。だからだいじょうぶ」
 だいじょうぶ――礼示さんの目を見ながら、わたしはそう答えた。

 

  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

 

「わー、かわいい! ふわふわ!」
 いくつものテーブルに並べられた肉球ストラップやブローチを見て思わずそんな言葉がこぼれた。
 横浜駅から約30分。駅から湾沿いにてくてく歩いてたどり着いた大きな公園は、親子連れや若いカップルだけでなく老若男女で賑わっていた。
 展示会に参加している作家はひとりだけでなく複数いるようで、それぞれ違った毛色やモチーフを扱っているところがおもしろい。
 あちらの作家はアクセサリーで、こちらの作家はワッペンやブックカバー、といった具合に、白い大きなテントで仕切られた中にテーブルごとに作品が並べられ、背後にも作品が掲げられていた。
 テーブルやテントには小さな横断幕がかかっていて、売上金の1割が神奈川を拠点にする動物保護団体に寄付されると記してあった。
 わたしと礼示さんは並んでテーブルを見て回った。  
「これ、うちの猫の手にそっくり。買っちゃおうかな」
 言いながら、わたしは三毛猫の肉球ストラップが入ったパッケージをつまみあげた。黒と茶と白のぷっくりした猫の手に、ピンク色と黒のまだらの肉球がついている。ストラップの金具と反対側、猫の手の下にはパールの粒が揺れていた。
「これもおもしろいよ、魚がついてる」
 礼示さんが手に取ったのは茶トラ猫の肉球ストラップで、下には魚の骨の小さなチャームがついていた。
「じゃあ、おそろいで買いませんか? 新しいケータイのストラップ、要るでしょ?」
 そうなったらいいな、くらいの気持ちで口にした言葉だった。
 礼示さんはすぐに、あ、そうかという顔になった。
「そうだな」
 ジーンズのポケットからお財布を取りだし、その手でわたしから三毛猫のストラップをつかむ。
「いっしょに買うよ。コーヒーのお詫び」
「え?」
 あっというまにお札とストラップ2個をテーブル脇の会計所に差しだしてしまった。
「でも、今日はそのためにつきあってもらったのに……わたしばっかりもらっちゃうことになりますよ?」
「いいんだよ、俺も来たかったんだから。だから、こっちがほんとうのコーヒーのお詫び」
 ストラップを指差しながら言う。けっこうな早口だった。照れると早口になるひとなんだ、と最近気がついた。
 会計係の若い女性が、お釣りとレシートを手渡しながらちらりと礼示さんを見あげて確かめた。その瞳が潤んでる気がして、わたしは反射的に彼の腕に右手をかけてしまった。
 髪が伸びたせいか、最近の礼示さんは男っぽさが増した気がする。以前は絵に描いたような無精ひげって感じだったけど、今日はすこし手入れをしてるみたいで無精ってふうでもない普通のひげになってるし。
 こんなふうに、ほかの女のひとの視線を心配することがあるなんて考えてもみなかった。
 ……わたしは?
 わたしは、ほかのひとの目にどんなふうに映っているんだろう?
 友だちとか同僚とか親戚のだれかとかじゃなく、彼に好意を持つ女性として見られてるだろうか。
 ボーダーのTシャツ効果もあって、こうやって腕に手をかけてたら正真正銘の恋人同士に見えるといいな。
 そんなヨコシマな気持ちなんか知る由もないだろう礼示さんは、腕に引っかかったわたしの手に気づかないまま、ストラップを差し出してくれた。
「はい、猫毛ストラップ。三毛猫仕様」
「ありがとうございます」
 空いたほうの手で受けとった。礼示さんはそこでわたしの手が腕に引っかかっていることに気づいたらしく、おや?という表情になる。
「あっちで実演があるみたい。行きましょ」
 そっと右手を組んだまま、向かい側のテントに誘導した。
 長テーブルをつなげたコーナーで、作家さんらしい女性が猫毛フェルト雑貨の実演をしていた。手のひらに乗るくらいの猫毛を集めて石鹸水でゆすぎ、きれいに乾かす。
 フェルティング・スポンジという厚手の硬いスポンジの上で、やんわりと丸められた黒っぽい猫の毛にニードルを何度も刺すと、やがて丸っこい形になる。
 それをさらにちくちくとニードルで刺してゆき、丸みを帯びた猫の手の形に整える。市販のフェルトを切り抜いて作ったピンクや黒の肉球をボンドで留めると一気に猫の手らしくなった。
 あとはピンをくっつけてブローチにしたり、ストラップをつけたりすればできあがり。
 形を整えるにはコツが要りそうだったけど、あまりお金をかけず、自分の好きな模様の猫のマスコットやアクセサリーが作れるのはなかなか楽しそうだった。
 猫毛だけでなく一般の羊毛にも使えるというフェルティング・ニードルセットを自分用にひとつ買ったところで、ゴロゴロと大きな音が聞こえた。見あげると、空にはいつの間にか鉛色の雨雲が垂れ込めている。
「すげぇ、雨の予報当たったな」
 空を見上げてのんきにそうつぶやいた礼示さんのシャツに雨粒が落ちて、そこだけ濃い青色になった。
「はいはい、傘持ってまぁす」
 わたしは意気揚々とショルダーバッグから折りたたみの傘を出して広げた。わたしより背の高い礼示さんの頭上に差し出す。
 ……あれ? いつもひとりで使ってたからわからなかったけど、この傘ってふたりで入るには……。
「ちょっと、小さすぎ……みたいですね。うわ、失敗したー」
 わたしの苦笑いに合わせたように、稲光が光った。ざあっという音とともに落ちてきた大粒の雨が、アスファルトを濃いグレイに塗り変えてゆく。
「……本降りになるまえにあのへんに避難したほうがいい」
 すでに右肩のぐっしょり濡れてしまった礼示さんが、わたしのほうへ傘を覆いかぶせるようにして通りの向こう、シャッターが閉まった商店のあるあたりを指さした。
 走り出すと、まばたきひとつする間にあたりはどしゃぶりの大雨になった。稲光を追うようにして雷鳴がとどろく。
 水たまりに入らないようにしながら進むのと、強くなった風の中で傘を支えるのに必死で、わたしは商店のとなりのバイク置き場に駆け込むまで礼示さんのシャツの袖にしっかりつかまっていたことに気づかなかった。
 バイク置き場のコンクリートの上はかろうじて乾いているけど、道路は見る見るうちに小さな水の流れができた。風も冷たくなり、肌寒くなってくる。
「寒い?」 
 心配そうな礼示さんの声に、平気、と返そうとしたときだった。
 あたり一面が白くなったかと思うと、どーんとか、がーんとかいう聞いたこともないほど大きな雷の音がした。
 豪雨の向こう、同じように雨宿りをしているひとたちから短い悲鳴があがる。  
 ――息を呑む、なんていうレベルの音じゃなかった。
 まるで空の上でシンバルを打ち鳴らしたかのような轟音。
 わたしは反射的に目をつぶり、しっかりと礼示さんの肩先に顔を伏せた。両手でシャツをつかむ。
 たたんだ傘ごと包むようにして、礼示さんがわたしに腕を回してきた。故意にそうしたんじゃなく、たぶん人間の本能みたいなところで驚いたからだろう。
 その驚きを受けとめるように、わたしはもっと深く彼のそばに寄った。わたしたちはお互いを支えあうようにして立っていた。
 そこで、ほとんど目の前に迫った彼の喉元からボールチェーンのネックレスがTシャツの上に出ているのが見えた。
 鎖の先に見えるのは、連なったつがいの指輪。
 ……ごめんなさい。
 とっさにそう考えて、わたしはまた彼の肩に顔を伏せた。理由は後からついてきた。
 ごめんなさい。
 天国にいる、礼示さんの奥さん。
 もうちょっとだけ、このままでいさせてください。
 いまだけでいいから――。

 

 

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09/07/2010