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第15&1/2話 「手のひらに舞い降りた明日」 -SIDE:HIRANO-

 

「寒い?」
 両腕を抱えるようにして立っている佐藤さんにそう訊いたときだった。
 答えが返ってくるまえに、がしゃーん、という鼓膜をつんざく雷鳴がとどろいた。一瞬遅れて体の中が揺さぶられるような衝撃が来る。
 理屈じゃなかった。
 首の後ろの産毛が逆立つような驚きが全身を駆け抜ける。もし俺が猫だったら、しっぽの毛が3倍くらいにふくらんでいたはずだ。
 びっくりしすぎたせいで、ぶつかるようにしてそばに寄ってきた佐藤さんの肩をとっさに引き寄せてしまった。
 ぬれた折りたたみ傘ごと引き寄せてしまったと気づき、佐藤さんの肩がぬれないように空いたほうの右手に傘を持ちかえる。
 俺のシャツをつかんだままの手から震えが伝わってきた。
 近くであんな大きな落雷を耳にしたら、正直だれだって怖い。
 でも華奢な佐藤さんから伝わってくる震えのせいか、自分がしっかりしなければという気持ちになる。
 いまさら俺も心細いとは言えなくなってしまった。こういうのは先に怖がってしまったほうが圧倒的にトクなんだな。そう気づいて笑いたくなる。
「たぶんすぐに上がるから、それまで待てばいい」
 佐藤さんは顔をあげて通りを眺め、不安そうにくちびるを引き結んだ。前髪のあいだから覗くまつげまで震えているように見えた。 
 ……また泣かれたりするのかな。
 10歳も年下の女の子に泣かれるのはかなり居心地が悪い。アイス・カプチーノをこぼされたときによくわかった。
 あのとき、びっくりしたせいで佐藤さんの目には涙が浮かんでいた。
 それを見たとたんにあたふたしだした自分はなんて情けない男なんだろう。しかも気の利いた言葉ひとつ思い浮かばなかった。
「このあとの昼ごはん、何が食べたいか考えといて……好きなものにつきあうから」
 だから、たのむ。
 泣かないでくれ。
 ――そんなことを口走りそうになって、それじゃまるで口説いてるみたいじゃねえか、と失笑したくなった。
 佐藤さんはまっすぐ俺を見て、やったぁ、と笑顔でうなずいた。
 鉱石を思わせる明るい色の瞳に、涙はなかった。

 

  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

 

「雨、止んで良かったですね」
 駅ビルのカフェで向かいあってテーブルにつくと、佐藤さんはほっとしたように言った。午前中までの熱気もあの豪雨が洗い流してくれたのか、いまはだいぶ涼しく感じる。
 ランチセットを温かいミルクティでおねがいします、とウェイトレスに告げた佐藤さんにならって、自分用に同じセットをアイスコーヒーで注文した。
「コーヒー、好きなんですね。よく飲んでるし」
「たばこよりはカフェインのほうがいいから」
「あ、たばこ吸わないんですか?」
 佐藤さんは意外そうな顔をした。工務店にはたばこが手放せないひともいるから、もしかしたら俺にも匂いがしみついていたのかもしれない。
「吸わないよ。工務店でも最近は吸わないやつのほうが増えてきたから、全面禁煙にするらしい。滝さんはいやがってるけど」
 ヘビースモーカーの滝さんの渋面を思いだして笑ってしまった。
「でもきっと、そのほうがいいんだ。あのひとにはずっと元気でいてほしいから」
 工務店で働きだしたばかりのころ、滝さんに『俺より先に死ぬんじゃねえぞ』と怒られた。
 たいした食事もせず漫然と日々を過ごしていたせいで、体調を崩して寝込んだときのことだった。
 滝さんの奥さんが用意してくれたという粥を持ってアパートまで来てくれた。職場の上司とはいえ、知り合って間もない他人からそんなに親切にしてもらったことはなかった。
 滝さんはそれからもたびたび食事に誘ってくれたり家に呼んでくれた。でもいつも俺の都合を尊重してくれて、無理やり連れだすようなことはしない。
 工務店で働く若い職人には雇ってもすぐにやめてしまう者がすくなくない。入れ替わりの激しい職場でなるべく長く、気持ちよく働いてもらうにはプライベートに必要以上に首をつっこまないことだと知っているひとの距離のとりかただった。
「滝さんて、礼示さんのお父さんみたいですね……『パパ』っていうんじゃなくて、『お父っつぁん』みたいな」
 完璧な卵型の輪郭にきれいな色合いをした大きな瞳、色素の薄い髪。天使の外見をした佐藤さんが、江戸っ子みたいな口調でそう言った。
 そこで飲み物が運ばれてきた。
 佐藤さんを見ていると、ときどき目がくらむ。
 知り合ったばかりのころに感じた、自分には縁もないであろう明るい人生の『幸せの明度』のせいばかりじゃない。
 自分が彼女の年齢だったときのことを思い出し、その懐かしさにまぶしくなる。
 目の前のひとの未来の幅が広いと知ることは、こんなにもうらやましいものだったろうか?
 以前から感じていた胸の痛みはまだわずかにある。でも、そのせいで辛い思いをすることはなくなった。
 佐藤さんの人柄のせいだろうか、それとも落ち着いた声のせいだろうか、俺とはなんの接点もなさそうなタイプなのに、いっしょにいてもいやな感情を持ったことはない。
 むしろ――。
「……だったんですよね?」
 こちらを覗きこむような視線に気づいてぎくりとした。
「え?」
「就活。たぶん礼示さんも氷河期だった頃かなと思って」
「ああ、うん」
 あわててテーブルの上のアイスコーヒーに手を伸ばした。ひとくち含むとほろ苦さに頭の芯がすっきりする。
「俺はどっちにしろ研究科へ行こうと思ってたから、それほどまずい事態にはならなかったけど」
「修復関係っていうと、やっぱ美大ですよね? うち、上の兄貴の奥さんが芸術家なんですよ」
「芸術家?」
「もともとは油絵が専門だって言ってました」
「へえ……どこの出身?」
 そこで佐藤さんは都内の大学名を口にした。こんな状況で耳にするには懐かしい名前だった。
「じゃあ、お兄さんの奥さんは俺の同窓だ」  
「え?!」
「専攻は保存修復だったけど、油画もやらされたよ」
「そうなんだ……年齢的にも礼示さんと同じくらいだから、もしかしたらどこかですれ違ってるかもしれませんね」
 キャンパスは広かったし他の芸術大学からの学生もたくさん通ってきていた。そもそもキャンパスに出ずに工房で好き勝手な作業をしていた者も多い。
 なのに瞳を輝かせてそう言われると、たとえわずかだったとしてもそんな可能性もあったかもな、と思えてくる。
「……そうだな」
 佐藤さんは温かいミルクティを飲みながら、卒業したら大学院へ進もうと思ってるのだと話してくれた。
 彼女の大学ではティーチング・アシスタントと呼ばれる役職があり、院に通いながら教授の助手を務めることができるのだという。もともと大学の職員にも興味があったので、できたら大学に残りたいのだそうだ。
 年齢のわりにふわふわしておらず、地に足が着いたひとだなと感じた理由が、すこしわかった気がした。
 そこでランチセットが二人分、テーブルに運ばれてくる。
「わあ、美味しそう」
 パスタを食べながら、佐藤さんの、きゃんきゃんしたところのない低めのトーンの声に聞き入った。
 ときおり混じる控えめな笑い声は、和風の楽器の音にも似ている。
 こんな声を毎日そばで聞いてたら、きっといつも穏やかな気持ちでいられるんだろうな。
 そう思って胸の奥がちくりとした。
 同時に、そうした痛みを自覚することで安心したがっている自分がいることも、わかっていた。  

 

 

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10/28/2010