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第17話 「スタートライン」

 朝、目がさめたときからずっと、今日はきっといい日になると思った。
 外の気温は摂氏32度、上空まで澄み渡った青空が視界には収まりきらないほど広がっている。
 お気に入りのパフスリーブのTシャツをデニムと合わせて、鏡のまえで何度も確かめた。
 切るタイミングを逃した髪はけっきょく伸びっぱなしで、だいぶ長くなってしまった。
 礼示さんの目には、わたしはどんなふうに映っているんだろう。
 訊いてみたい気持ちはあるけど、答えを知るのは怖かった。

 

  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

 

 午前中は大学の図書館に寄って借りていた本を返却し、昼過ぎに滝工務店へ向かった。
 通りに面している作業場のサッシが開いていたので覗きこむ。
 椅子に腰かけて入り口にTシャツの背を向けている、いつもとおなじヒツジタオルが見えた。
 作業台をはさんで何か話していたらしい作業服姿の職人さんがわたしに気づき、ほら、って感じで礼示さんに顎をしゃくった。
 振り返った礼示さんは、ほんのすこし口を引き結んでいた。
 その顔が困ったような笑みを含んでいた。すぐに椅子から立ちあがってこちらにやってくる。
「こんにちは」
 作業場の中のひとたちに一礼をして、入り口の外で待つつもりだった。なのに礼示さんはまっすぐ入り口まで来ると外を指さした。
「出よう。アイスコーヒーおごるよ」
 え。
 ……と思うまもなく工務店の外へ歩き出してしまった。
 なんだかわからないまま、作業場にむかってお辞儀すると、中にいる職人さんたちが何人かぺこりと頭を動かしてくれた。
 大学とは反対側に向かっている礼示さんの背中を、早足で追いかける。
「だいじょうぶですか? いま作業中だったんじゃ……」
「いいんだ。ちょうど休憩時間だし」
 言いながらヒツジタオルを頭からはずして肩にかける。それで気がついた。
 伸びっぱなしって感じだった髪が、すこし短くなっていた。長めだと陰が濃いけど、髪を切るとはっきりした顎の輪郭や目頭の鋭さが目立つ。
「髪、切ったんですね」
 歩きながら言った。
「ああ、暑かったから。佐藤さんは、感じが変わったな」
「わたしは伸びてぼさぼさになっちゃったんで……」
 右手で襟足を整えながら答えた。
 大学とは反対側にある、目立たないカフェに入った。夏休み中だからか学生の姿はあまりなく、駅からも奥まっているので人の入りもそう多くはない。
 厚みのある木の板で作られたテーブルを挟んでシートに座り、礼示さんはアイスコーヒーを、わたしはアイスラテを頼んだ。
「勉強会、大変だったみたいだけど、無事に終わって良かったですね」
「外壁技術はもっと勉強したいと思ってたからね。修復とはぜんぜんちがって、それもおもしろいし」
「修復士のお仕事は、もどる予定ないんですか? 滝さんはもったいないって言ってたけど」
 そこで礼示さんの視線が逸れた。
「もどるか、もどれるのか……そういうのも、わからない。決めてない」
「決めてない?」
 うん、とうなずいて、礼示さんはグラスの水をひとくち含んだ。日に灼けた喉仏が上下する。
「修復作業は……きついんだ。何度もやって身につけたから愛着もあるけど、そのぶん、思い出すものも多くて」
 言いながら、きゅっと、わずかに眉間にしわを刻んだ。  
 思い出す……過去を思い出すのかな。
「それって、思い出すのって、以前のことですか? その――奥さんのこととか」
 思いきって訊いてみた。
 言った瞬間、礼示さんの目が大きくなった。すっと息を吸いこんで、止める。
 その心の揺れまで伝わってくるようだった。
「……結婚してたってことは、聞きました。プライベートなことなのに、勝手に知ってしまってごめんなさい」
 もう一度、礼示さんの目が見開かれる。
「佐藤さんが謝るようなことでも、知られて困るようなことでもない。事実だから」
 低い声だった。淡々とした乾いた声に、胸が痛くなる。
 彼が揺るがないひとだと知っても、どこかで、ああやっぱりな、と考えている自分がいた。
「まえに本庄さんから言われました。『荷が重すぎると思ったら、礼示のことは放っといてやってくれ』って」
「尊が?」
「『放っておけない』って答えておきました」
 礼示さんがぎょっとした顔になった。
「礼示さんのことが、放っておけない。それだけです」 
 すうっと、礼示さんの視線が斜め下に落ちた。またあの、筆を払うようなしぐさで。
 だから、たまらなくなって言ってしまった。
「そんなふうに、邪険にしないで」
「してないよ」
 礼示さんの声が笑っているようにふるえた。
 楽しい笑いじゃなくて、駄々っ子をまえにした呆れたおとなみたいに。
「わたしのこと、子どもあつかいしてるし」
「してない」
 正面きって腕組みをしながら、首をふってみせる。
「学生のわりに、おとなだなっていつも思ってた。地に足が着いてて、しっかりしてるなって」
 ……うそばっかり。
 とっさにそう思っても、耳の下あたりが熱くなった。グラスの水を飲みながら、礼示さんを睨む。
 困ったな、って顔をされた。もう何度目だろう。
「だから、佐藤さんを見てると目がくらむんだ」
「え?」
「華やかで疑いがなくて前向きで、俺には目がくらむ。佐藤さんに会うと、正直……どうしていいかわからなくなる」
 『目がくらむ』?
 そんなこと言われたの初めてで、わたしだってどうしていいかわからない。
 ばたばた騒ぎだした心臓を落ち着かせようとまたグラスの水を含んだ。
「あんまりにもまっとうで明るいものに出会うと、動揺するっていうか……ふらふら生きてきた俺なんかには心構えができてないっていうか。そんな気持ちになるんだ」
 テーブルに落としていた視線をあげて、そこで礼示さんはまっすぐにわたしを見た。
「邪険になんてしていない。でも、子どもあつかいもできないから、よけいに困る」
 『困る』――ずきりと響く言葉だった。
 はっきりと耳に届いたのに、心ではそれを認めるのがいやで、悪い夢を見てるんじゃないかとすら思った。
「……だけど、困るって言ったのは俺のほうの問題で、佐藤さんが悪いわけじゃないから。どうしていいかわからないのは……俺自身混乱してるからだと思う」
 そこでまた礼示さんは笑った。きついな、って感じの笑みじゃなく、しかたないな、って言いたそうな、ちょっと呆れた感じの笑いかただった。
 失礼します、と控えめな声がして、ウェイターの男性がグラスを運んできた。テーブルの上に褐色の飲み物が入ったグラスが置かれるのを、口をつぐんだままで見つめた。
「礼示さんは、ふらふら生きてたわけじゃないと思う」
 ウェイターさんが一礼して下がったあと、グラスにストローを挿しながら言った。
「……だってほんとうにふらふらしているひとなら、もっと流されてるでしょ。でもそうじゃないから……きっと揺るがないひとなんだと思う」
 すごいな。
 素直にそう思った。
 亡くなった奥さんに対する気持ちが強いのは知ってる。
 だれも彼女の代わりにならないのだということも知ってる。
 そもそも自分が代わりになろうとも、なれるとも思っていない。
「むずかしいことはたくさんあると思うけど……わたし、急いでいますぐ礼示さんをどうにかしようなんて思ってないんで」
「ど、どうにかする?」
「そのままでいてください。楽しいときも、そうじゃないときも」
 礼示さんの慌てぶりとは反対に、からん、とグラスの中の氷が軽い音を立てた。
「もし混乱してるなら、その混乱が落ち着くまで、どうか――いままでどおりでいてください」
 待ちますから、とは言えなかった。
 おこがましくて。
 ただ、彼の混乱の先にほんのすこしでも光の射す隙間があるのなら、わたしもいっしょに見届けたい。
 それが本当の気持ちだった。
 ――さあ、長くて厳しい道になるぞ。
 心の奥ではそう思っているのに、目の前にいる礼示さんの目じりが下がったのを見たら、しぜんと背筋がしゃんとした。  
 そこでわかった。
 きっと、わたしはたったいま、本気でスタートラインに立ったんだと。

 

 

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03/24/2011