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第17&1/2話 「175センチの幸せ -SIDE:HIRANO-

 
 人生の中で、あとから考えるとあれがひとつの岐路だったんだろうな、と思えることがある。
 あの日はまさにそんな一日だった。
 もちろん、当時はそんなことを知るすべもなかったんだけど――。    

 

「平野さん、ちょっといいっすか?」
 声をかけられて、作業台から顔をあげる。
 外壁工事を担当する職人の久賀さんが、新しいサイディングのサンプルを手にして立っていた。
「はい」
「今日入ってきたサイディングの件なんですけど……」
 都会的なグレーのグラデーションがついたものや高級感のあるマーブルの入ったもの、耐火処理をほどこしたもの、さまざまなサンプルがボードに並んでいた。
「この素材って、こっちのコーティング使ってもだいじょうぶですか」
「コーティングも使えるけど……素材のグレードを上げたほうがいいと思う。コストは若干高くなるけど、耐用年数が上がるから」
 いっしょに作業をすることが多い久賀さんとは、こうして詳細を確認しあうことがよくある。
 最初はそうすることでお互いのミスを防げるからだと思ってたけど、すこし経ってからそれだけじゃないことに気がついた。
「そしたら……あの、既存の物件で見学とかって可能ですかね?」
「建築士の間宮さんに頼めばできると思う。俺から訊いておこうか」
「すみません、助かります」
 久賀さんははにかむように笑って、両手で軽く拝むようなポーズをした。
 ……大切なのはコミュニケーションだと思う。
 言葉ひとつとっても、言い方しだいで印象が変わってしまうことさえあるなんて、この年になるまで身をもってわからなかった。
 だめなおとなだなと思うのと同時に、でも気づかせてもらえて良かったとも思う。
「……これってこのまえの『特別処理』ですか」
 作業台の上に置いてあったタイルを目ざとく見つけた久賀さんが訊いてきた。
「特別ってほどじゃないだろ」
 思わず苦笑いがこぼれる。  
 表面にブラストをかけて質感を変えたタイル。洒落たレストランのリフォームで使わせてもらったら思いのほか評判が良かったので、その後も依頼されることがたびたびあった。
 ストックを作っておいてくれと滝さんにいわれたせいもあり、最近では時間のあるときにこうしてひとつひとつ手作業で量産している。
 耐久性が変わる可能性もあるので多用はできないけれど、アクセントがわりになる。
「でも手先が器用だから、このまえも作ってたじゃないですが。何か箱みたいなやつ」
 そう。
 欠けて使い物にならなくなったタイルや硬化ガラスを集めて縁取りしたオルゴールケース。
 中にオルゴール本体をセットして仕上げたら、渡そうと思ってとってある。もうすぐ誕生日だから。
「なんですか、意味深に笑っちゃったりして……やっぱりあの子のことでしょう。やんなっちゃうなーもう」
 いきなり肩をどつかれた。けっこう痛かった。
「いいですねえ、あんなモデルみたいなひとにだいじにされてて」
 このー、となおも俺の肩をつついてくる。
 『だいじにされてる』ってなんだよ? 俺は新妻か。
 そう考えて、思わず笑ってしまった。
「……よく言うよ、新婚さんが」
「あ、やっぱうらやましいんでしょ? だったら平野さんもしてみたらどうです? 結婚」
「ばあか」
 にやけ顔の久賀さんとやりとりしているうちに、ふと、以前にもこんなことがあったな、と思い出す。
 ……そうだ。
 あれはたしか、初めての勉強会が終わってここに帰ってきた日、去年の夏だった。
 もう9か月もまえになるんだ――。  

 

  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇
 

 

「あの子、平野さん以外だれも眼中に入ってないって感じですよね。すらっとしててモデルみたいだし」
「――は?」
「やだなあ、とぼけないでくださいよ」
 笑われたけど、久賀さんのいう『あの子』が佐藤さんのことだと思い当たるまでだいぶ時間がかかった。
「……久賀さんが考えてるような関係じゃないです」
「でも悪い気はしないでしょ、あんなかわいいハーフみたいな子に好かれて」
 ――どういうわけか、むっとした。
 『かわいい』ってなんだよ? なんでそんな、手垢のついた言いかたされなきゃならないんだ。
 かわいいだけの女の子だったら、今時どこにでもいるだろ。
 でも佐藤さんはちがう気がする。  
 あのひとはかわいいっていうより、まぶしいんだよ。見たこともないくらい。
 まぶしくて、目がくらむ。そんなふうに感じるひとは他にいない。
 佐藤さんだけ。すくなくとも俺にはそうなんだ。
 かわいいから好き? モデルみたいな子だから好かれたら悪い気はしない?
 そういう表面上のことを、事実はちがうのにまるで見てきたかのように言われるのは居心地が悪かった。
 なんでそんな、土足でずかずか入り込んでくるようなことを。
 これは俺の気持ちの問題だ。
 俺と、佐藤さんの。
 ……そこまで考えて、はっとした。だから、どうしてそこで佐藤さんが入ってくるんだよ? 俺ひとりの問題だろ。
「ほら、うわさをすれば彼女だ」
 軽い口調でそう言い、久賀さんがあごをしゃくった。
 つられて反射的に店の外を振り返ってしまった。
 すこしだけ開いたサッシの向こうに、長身の佐藤さんの姿が見えた。
 どきん、と高鳴った胸の音が、久賀さんに聞こえてしまうんじゃないかと思った。
 そんなことあるはずがないのに。
 考えて、頭で否定して、顔が熱くなった気がした。
「休憩行ってきます」
 椅子から腰をあげ、素早く久賀さんに背を向ける。
「ごゆっくり」
 俺にしか聞こえないくらいの久賀さんのささやき声が背中に届いた。
 能天気な年下の同僚にむかついて、手に負えないスピードになってきた自分の鼓動にむかつきながら、作業場の出入り口に向かった。
「出よう。アイスコーヒーおごるよ」
 それだけ言って、答えも待たずに外へ出た。
 佐藤さんは戸惑ったように俺と作業場を交互に見たけれど、ついてきてくれた。
 歩き出してすぐに、勉強会の宿泊先で買ったお土産を忘れたことに気がついた。滝さんと佐藤さんにも食べてもらおうと思って冷蔵庫に入れておいたのに。
 ぼんやりしている自分と、街中なのに割れるようなセミの声とに苛立ちがつのる。
 だけどほんとうはわかっていた。
 どうにも静まってくれない鼓動をもてあましている自分に、いちばん困惑しているんだと――。

 

◇  ◇  ◇  ◇  ◇

   
「まあ結婚はともかく、いっしょに帰るんでしょ、今日は金曜ですからね」
 じゃ、お先っす、と久賀さんもうきうきした口調で早々と帰り支度をはじめ、作業場を出ていった。
 だれもいなくなってがらんとした作業場を見回した。今日は町内会の集まりがあるとかですでに帰宅した滝さんに、作業場と工務店の戸締りを頼まれている。
 ひとり取り残されて、背もたれのついたスツールに背中をあずけ、頭の後ろで両手を組んだ。
 ……そう。ここ何か月か、金曜の帰り際に待ち合わせることが多くなった。
 特に予定を決めているわけじゃない。食事をしたりお茶を飲んだり、余裕のあるときは買い物につきあったり……そんなふうにしてあてどもなく時間をともにする。
 
 ――礼示さんは、ふらふら生きてたわけじゃないと思う。

 あの日そう言われて、不覚にも胸が痛くなった。
 おまえはがんばったと、よくやったと、だれかに認めてもらいたくて、でもどうやって一歩を踏みだせばいいのかわからなくてもがいてた俺に、それは慈雨のような言葉だった。
 知り合ったころから彼女をまぶしいと感じていたのは、そんな自分の気持ちに気づいていた兆候だったのかもしれない。
 だけどなにかの渦中にあるとき、ひとはなかなかそうとは気づかない。
 気づくのはいつもあとになってからだ。
 だから、何事もじっくり考えてからでないと結論のでない俺の場合、とくに時間がかかった。
 暑かったあの夏はとっくに終わってしまった。
 いつのまにか秋になり、冬が来て、春が過ぎ――いまはそろそろ初夏になろうかという5月。
 そこまで考えたとき、作業場の入り口のほうからこつこつこつ、とサッシのガラスを叩く軽い音が聞こえた。スツールに座ったまま振り向く。
 真ん中だけすりガラスになったサッシの上のほう、透明なガラスの部分から完璧な卵型の輪郭をした顔がこちらを覗きこんでいた。
 がががっと音をさせて、彼女がサッシをあける。工務店なのに建てつけの悪いこの店にも、だいぶ慣れたみたいだ。
 コットンの白いシャツに、ざっくりしたリネンのロングベスト。
 大学院に進んでから手に入れたノートパソコンが入っている、大きなトートバッグを肩から下げている。
 ジーンズの脚を交差させてコンクリート敷きの作業場に入ってくるそのひとを見ながら、ふと考えた。
 もし幸せに形があるのなら、きっとこんな姿をしているにちがいない。
 175センチの、俺の幸せ――。
「なに笑ってるの? ひとの顔見たとたんに」
 クリップで無造作にまとめた髪からこぼれた前髪が、形のいい額にかかっていた。
 その下の、鉱石みたいな瞳。
 会うたびに忘れられなくなる。
「……前に、言ったことあったっけ?」
「なにを?」
「初めて会ったとき、天使かと思った」
「だれのこと?」
「メイちゃんのこと」
 はい?、とつぶやいたまま、天使が硬直した。
 目を見開いている。
 化粧っけのない大きな目を見ているうちに、こらえきれなくなってふきだしてしまった。
「……なんなの、今日の礼示さん失礼すぎる」
 ばし、と肩先をたたかれた。
 天使だって言ったのにこの仕打ちはあんまりだ。
「置いて帰っちゃうよ、もう」
 トートバッグを肩にかけ直して作業場の出口に向かうけど、その目はどことなく優しい。
 言葉に出して意思表示しようと俺が努力していることは、認めてくれているらしい。
 作業台に並べてあったタイルを自分のロッカーにしまいながら声をかけた。
「戸締りするから、外で待ってて」
「はあい」
 作業場の明かりを落とし、中からサッシの鍵をかけてカーテンを閉める。
 内扉からとなりの工務店に入り、電子機器が消えているのを確かめてから同じように明かりを消して、サッシを外から施錠した。
 サッシの鍵は俺が持っていていいので、今夜の戸締りはこれで完了だ。
 ふたりで並んで駅まで歩いた。
 どちらからともなく思い出したように肩がふれあったけど、ふれるにまかせた。
 ……あの日、メイちゃんは『急いでいますぐどうにかしようなんて思っていない』と言ってくれた。
 なのにいまは。
 心で密かに『どうにかなってもいいんだ』と思いはじめている自分が可笑しかった。  
 

 

 

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07/25/2011