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第3話 「ヒツジタオル」

 

 大通りにでた先はすぐ横断歩道だった。
 ぱらぱらと信号待ちをしているひとの群れから頭ひとつ飛びだしているヒツジタオルが見えた。
 信号が青に変わったその瞬間、やっと追いついてその腕をつかむ。
「ちょっと、待ってっていってるのに」
 青信号で渡りだしたひとたちがちらちら見て行ったけど、かまわなかった。
 Tシャツから伸びた左腕をつかむと、ヒツジタオルはやっと足を止め、まっすぐにわたしを見た。
 アイスコーヒーの透明なカップを持っている右手もぴたりと宙で止まる。
 そのまま、けっこう長いこと無言で見つめあっていたように思う。
 何も言ってくれないので、むず痒いような恥ずかしさがこみあげてきた。
 つかんでいた手を離して訊いてみる。
「えっと、その……そのタオルなんだけど」
 見あげた先の瞳は、まっすぐわたしを見ていた。無言のままで、ふたのついていないカップに口をつけてコーヒーを含む。
 ミルクの入っていない暗褐色のコーヒーを飲む彼のすがたを黙って見つめた。
 わたしに何か言うでもなく、眉をしかめるでもなく、歩きだすわけでも体を動かすわけでもない。
 ごくり、ごくりと動く喉仏だけが、かろうじてこのひとが生きて活動していることの証みたいに思えた。
「……ね、聞いてます?」
 彼が半分ほどカップを空にして口を離したところで、ふたたび問いかけた。
 不安になりはじめていた。
 どうして何も答えてくれないの?
 もしかして耳が聞こえないんじゃ――。
「タオルって?」
 口の中で氷を砕きながら、そのひとはやっと言葉を返した。感情の伴わない無機質な声だった。
 耳が聞こえないわけじゃなかったんだ。
 そう思いながら、彼の頭を指さした。
「タオル。ピンクの、その、頭にかぶってるやつ」
 すると、またごくりと喉を鳴らして氷を飲み、じっと目を見返してくる。
 きゅっと伸びた、しっかりした眉の下の目は、くぼんでいるせいなのか大きく見えた。
 でも彫りが深いとかそういうんじゃない。
 疲れて、落ちくぼんでしまったような。
 そんな憔悴しきった目に思えた。
「……で、何?」
 何じゃないでしょ、何じゃ。
 反応の鈍さにいらだって、思わずため息をついた。
「だから! そのタオル、どうしたのって訊いてるの」
「さあ」
「さあって……それ買ったんですか、もらったんですか」
 自分でも問い詰めるような口調に思えた。
 なんだか取調べみたい。
「知らない。起きたらポケットに入ってた」
 吐きだすようにして言われたその言葉に、ああやっぱりと思った。
 やっぱり。
「もしかして、いつだったかあのへんで寝てたことあります?」
 公園の方向を手で示して訊いた。
「先週か、もっと前かもしれないけど。雨上がりの夜に。ごついウィンドブレイカー着て」
 矢継ぎ早にそれだけ言った。
 彼はまたごくりとアイスコーヒーを飲んで、面倒くさそうにわたしから視線をはずした。
「さあ」
 ワークシューズの大きな足で歩きだす。
 まだ話の途中なのに……何なの、このひと。
 しかたなくその後を追った。青信号がちかちか瞬いていた。
「もしそうだったら、それ、わたしの……わたしのタオル」
 彼を追って横断歩道を渡りきったところでやっと言えた。
 前を歩いていたヒツジタオルは、そこですうっと歩みを止め、わたしを振り返った。
「何?」
「だから」
 どうやって説明すればいいのかわからなかった。
 いままでこんなふうに、手ごたえのあやふやなやりとりをしたことがなかった。
 たとえば外国語でやりとりしなきゃならない相手だって、ここまで意思の疎通がうまくいかなかったことなんてない。
 まだチェコ語があんまりしゃべれなかったころのことを思い出した。
 うまく話せなくてしどろもどろのわたしのチェコ語をお父さんが通訳してくれようとしたり、おじいちゃんやおばあちゃんはなんとか理解しようと努力してくれた。
 そういう意思が、ヒツジタオルからはいっさい感じられない。
「ポケットにそのタオルを入れたの、わたしです」
 手短かにそれだけを告げると、彼はふう、と吐息をついてタオルの結び目に片手を伸ばした。
 ヒツジタオルをほどいて頭からはずし、わたしの目の前につきだす。
「じゃあ、返す」
 ベビーピンクがところどころ汚れていた。
 ……やだ、気に入ってたのに泥なんかつけて。
 なんとなくむっとした。
「いや、そういうことじゃなくて……っていうかそれ、あげる。いらない」
 両手で押し返すようにしてタオルを遠のけた。
 ぼさぼさ頭で無精ひげの垢抜けない男は、すなおにタオルをひっこめ、カーペンターパンツのポケットにそれをつっこんだ。
 わたしから視線を逸らし、何も言わず表情も変えずにまた歩きだす。
 その素っ気なさに、じゃあもう用はないと言われたような気がした。
 だから何も言えなかった。
 頭の中で形をなしてくれない言葉を探しているうちに、赤だった信号がまた青に変わる。
 横断歩道を渡ってきたひとの群れにまぎれ、あっというまにヒツジタオルの長身を見失ってしまった。
 拒否とはちがう。カンペキ無視ってわけでもない。
 いうならば、わたしの存在も石ころも空気もみんなおんなじ。
 そんな態度をとられたんだ、と気づくのにたいした時間はかからなかった。
 ニュートラル。
 とっさに頭に浮かんだのはそんな言葉だった。
 好印象と悪印象、正と誤、善と悪。そんなふうに、たとえば世界がふたつのもので構成されてるんだとしたら、ヒツジタオルの反応はそのどちらでもなかった。
 あのひとの目には、わたしがニュートラルに映ったってことかな。
 ……いや、わたしだけじゃないな。ほかのひとにも、道の草花にも、空を飛ぶ鳥にも……なんにも意識が向いてなかったんだ。
「知り合いか?」
 横断歩道を渡ってわたしに追いついた勇馬が、両手に持っていたアイスコーヒーのカップの片方を差しだしてくれた。
「ううん、いいの……なんでもない」
 ありがと、とお礼を言って、琥珀色の液体が入った透明なカップを受けとった。

 

    ◇  ◇  ◇  ◇  ◇ 

 

 その晩、不思議な夢を見た。
 わたしは今より何年か先のもっとおとなの女のひとになって、壊れたオルゴールを大切そうに抱えている。
 オルゴールはだれかからの贈りもので気に入っていたのに、ねじを巻いてもふたをあけても音を奏でてはくれない。
 大切なその箱をせめてきれいにしようと、やわらかい布で拭いていた。
 ふたの表面にはめ込まれた、美しいオパールのような模様まではっきりと見えた。
 指紋がつかないように必死で拭いていると、その布がベビーピンクだったことに気づく。
 もこもこした小さなヒツジの模様が飛んでいた。
 あれ?
 これってわたしのタオルだ。
 そう思ったところで、大きなワークシューズの足もとが見えて、目を上げるとヒツジタオルの男が立っていた。
 ぼさぼさの髪に不精ひげで、落ちくぼんだ目でわたしを見ている。
「返して」
 抑揚のない声でそれだけ言って、わたしに片手をつきだしてくる。
 そこで思いだした。
 そうだ。このオルゴールはこの男がくれたものだった。
 しかたなく、磨いてきれいにした壊れたオルゴールを男に返そうとするけれど、彼は首を左右に振る。
 なあに?
 オルゴールを返して欲しいんじゃないの?
 わたしはそんなようなことを訊いたと思う。
 夢の中では、不思議と言葉にしなくても思っただけでテレパシーのように通じることもあるから定かじゃないけど。
 すると彼はもういちどはっきりと首を振って、今度は人さし指で示した。
「返してくれ」
 手の中にあるのは、壊れたオルゴールと――ベビーピンクのヒツジタオル。
 オルゴールじゃないなら、彼が返してほしいものって。
 ――これなの?
 わたしは自分の手の中にある、ヒツジタオルを見つめた。
 

 

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4/30/2009