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第4&1/2話 「天使遭遇」 -SIDE:HIRANO-

 

 ベルベットの小箱をあけてみせたときの、きみの笑顔が忘れられない。
 あのころは、孤独なんて自分とはまるで関係もない、どこか遠くの惑星で起こっているできごとだと考えていた。
 でもほんとうのところ、俺たちはそれぞれが大きな砂時計の中で生かされていて、小さな砂のつぶが音もなく落ちてゆくのに気づかなかっただけだったんだ。
 知るつもりもなかったそんな真実と向き合うことになったのは、はたして人生の収穫と呼べるのだろうか。
 もし収穫だと甘受して生きてゆけるのなら、きっとそれが孤独の意味なんだろう。
 砂時計の下の空間に落ちた俺は、これまでの人生で最高に孤独だった。


 ――きみの前で小箱をあけてからきっかり5年後のその日、俺は公園の植え込みのそばで眠っていた。
 孤独の意味なんか、知りたくもなかった。

 

   ◇  ◇  ◇  ◇  ◇ 

 

 湿度の高い日だった。壁の補修を請け負ったカフェでアイスコーヒーを買い、公園に向かっていた。
 透明なカップに入った冷たい液体を見たら、我慢できないくらい喉が乾いていることに気づいた。
 ひとくち含んだところで信号が青に変わる。横断歩道を渡りだすとすぐ、うしろから腕をつかまれた。
「ちょっと、待ってっていってるのに」
 聞きおぼえのない声だった。
 振りかえると、見知らぬひとが俺の腕をつかんでいた。
 一瞬、天使かと思った――美術館や壁画でしか見たことのない、栗色の髪のふわっとした天使。
 すぐに、目の大きいするんとした顔と明るい色の髪のせいだと思い直した。
 天使なんているはずないじゃないか。
 だって、もしいたなら――。
「えっと、その……そのタオルなんだけど」
 つらつら考えていると、その天使とやらがまた口をひらいた。
 猛烈な喉の乾きにおそわれて、手にしていたアイスコーヒーを飲む。苦味とわずかな酸味のある液体が喉を下ると、やっとすっきりした。
「……ね、聞いてます?」
 不安そうな声。
「タオルって?」
 訊ねると、ちょっと眉があがった。
「タオル。ピンクの、その、頭にかぶってるやつ」
 頭?
 言われてやっと気がついた。そういえばタオルをかぶってたんだ、と。
 でもそのタオルがどうだっていうんだ。
 口の中でとけきらなかった氷をかみ砕きながら答えを待ったけど、反応がかえってくるようすはない。
「……で、何?」
 天使がため息をついた。
「だから! そのタオル、どうしたのって訊いてるの」
「さあ」
「さあって……それ買ったんですか、もらったんですか」
「知らない。起きたらポケットに入ってた」
 うそじゃなかった。
 気がついたらポケットに入っていた。だから使った。
 それだけだった。
「もしかして、いつだったかあのへんで寝てたことあります?」
 公園の方向を手で指す。
「先週か、もっと前かもしれないけど。雨上がりの夜に。ごついウィンドブレイカー着て」
 そんなこと覚えてるもんか。
 一日が終わったらその日のことはリセット。
 そうしないと、むだな毎日のどうでもいいことのせいでだいじな過去が薄れたらどうする。
「さあ」
 天使に背を向け、横断歩道を歩きだした。
「もしそうだったら、それ、わたしの……わたしのタオル」
 たたきつけるような言いかただった。
 思わず振りかえる。
「何?」
「だから……ポケットにそのタオルを入れたの、わたしです」
 なんでそれを早く言わねえんだよ。赤の他人のポケットにタオルを入れるなんて、いったい何を考えてるんだか。
 胸の中が重くなった。
 頭のうしろ、タオルの結び目のところに手を伸ばす。ピンク色のタオルををほどいて、天使に差し出した。
「じゃあ、返す」
「いや、そういうことじゃなくて……っていうかそれ、あげる。いらない」
 不満そうにくちびるを引き結び、両手で押し返された。
 ああそう。
 じゃあ、もうほっといてくれ。
 タオルをポケットにつっこんで、今度こそ天使に背を向けた。

 

 ◇  ◇  ◇  ◇  ◇ 

 

 世の中がゴールデンウイークに突入すると、工務店近くの大学で外壁の補修と雨樋の修理をすることになった。
 工務店とアパートを行き来するだけの毎日は単調だけど、よけいなことで気をわずらわされないのがいい。
 気候がよくなってからはときどき公園で寝入ったこともあった。でも、夜は意外と面倒なことが多いとはじめて知った。
 仕事をこなして、アパートへ帰るだけ。そんなふうに、変化のない日々が何より落ちつく気がした。  
「――あぶない! そんなに近づくとあぶないよ、お嬢ちゃん」 
 足場に立って作業をしていると、棟梁の野太い声が響いた。
 見ると、メッシュシート越しにほっそりした人影が立っている。
 棟梁に何やら注意されているのかすまなさそうに頭を下げてるけど、声は俺のところまで聞こえなかった。
 ふたたび手元の作業にもどると、うしろで声がした。
「あの! ちょっと……あの、ひどいじゃないですか!」
 でかい声……あーあ、何したんだ、棟梁。
「聞いてるんですか。あなたね――」
「……なんだぁ、おい! 平野! 呼ばれてるぞ」
 ――え。
 俺。
 ……じゃ、ないだろ。
「平野! いいから、降りていってやれ!……ったく、気になってしかたねえ」
 きっぱり無視を決めこみたい気持ちだった。
 わざとゆっくりどうでもいい作業をしながらあきらめるのを待ったけど、棟梁はメシ食ってこいとか女の子を待たせるなとか難癖をつけて俺を構いつづけた。
 ろくに世間話もしないほかの作業員とちがって、ふだんから棟梁にはよく面倒をみてもらってるけど……なんなんだよいったい。
 なあんで赤の他人の女の子なんかが俺に関わってくるんだよ?
 そう思いつつ、これ以上無視したらあとで棟梁からもっと構われるだろうと考えて、しかたなく足場を降りた。
 面倒はごめんだ。無難にやりすごそう。
 足場の下で待っていたのは、ボーダーのTシャツにパーカーとジーンズという格好の女の子だった。
 明るい色の髪と大きな目。
 女にしては背が高いなと思ってからだいぶたって、あのときの"天使"だと気づいた。
 ――なんだ。ここの学生だったのか。
 天使の目の前に立つと、汚れた自分のかっこうが急に気になりだした。それで何かがよくなるわけじゃないけど、とりあえず軍手だけははずしてポケットにしまった。
「……平野さんていうんですか」
 すべるような、低いトーンの声だった。
 若い女の子ってのは、みんなきゃんきゃんした声なんだとばかり思っていた。
 だけど、この子の声は耳にすっと入ってくる。耳がきぃんとすることもなく、体のどこも不快にさせない。
「そうだけど」
 つい答えてしまったのも、不快指数ゼロのなめらかな声のせいかもしれなかった。
「あの、このまえ言ったこと、覚えてます?」
 ……さあ。
 さっぱり見当がつかなかった。
「そのヒツジのタオル、あげたのわたしですからね」
 ああ、俺のポケットに勝手にタオルを入れたとかなんとか言ってたな、そういえば。
 はい、いま思い出しました。
 頭にかぶっていたタオルをはずそうと手を伸ばしたら、きっぱり止められた。
「いいです。タオルは平野さんのものだから」
 そりゃ……工務店や建設会社の名前が入ったうすっぺらいタオルとくらべて厚手でしっかりしたタオルだし、くれるっていうんならもらいますけど。
 考えながら、手を下ろした。
「お昼、もう食べました?」
「……いや、まだ」
「じゃあいっしょに食べてもいいですか?」
 ぎくりとした。
 不思議な色合いをした明るい瞳を、まともに見返せなかった。
「なんで?」
 断るためのうまい理由を探していた。
 なんの接点もない人間と、こんなふうに1対1で向き合うのが面倒だった。
「わたしもこれから食べようと思ってたところだったから。だれかいっしょしてくれるといいなと思って」
 不快指数ゼロの声で、天使はそう言った。
 向き合うのは面倒。だけど、断るのはもっと面倒だ。
 何かの気まぐれだろ。
 どうせ昼めしは食わなきゃならないんだし……だったら適当に合わせとけばいいじゃないか、面倒なことはごめんなんだから。
 そう自己完結して答えた。
「……じゃ、いっしょで」
 答えながら、心ではまったくべつのことを考えていた。
 天使なんているはずないじゃないか。
 もしいたなら、ぜったいそいつに訊いてやりたい。
 いままで――何をしてたんだ、と。
 

 

 

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8/3/2009