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第7話 「錯覚」

 

 たいくつを持てあましたゴールデンウィークが終わると、早送り再生モードみたいな日常が戻ってきた。
 はじまったばかりの講義はやっとペース配分がわかってきたところで、そこそこ勉強にちからを入れたりサークルに顔を出したり、生活を楽しむ余裕も出てきた。
 新入生のころはただ目まぐるしく日々がすぎてゆくだけだったけれど、4年になるとこんなに周りが見えてくるんだな。
 校舎の修復作業もやっと終わりを迎えたらしい。メッシュシートはいつのまにかはずされていた。
 ただ、平野さんたち職人さんはまだキャンパス内の細かい箇所を見て回っているようで、時々すがたを見かけることもあった。
 正面玄関を入ったところでねじり鉢巻きの棟梁と出くわしたのは、5月も下旬にさしかかった水曜の朝のことだった。
 反射的に視線を走らせたけど、平野さんのすがたはない。
「おはようございます、棟梁のおじさん」
 わたしが声をかけると、おじさんはくるっと振り向いて笑顔になった。
「おう、おはよう。今日も学校かい? インテリさんは勉強家だねえ」
 世の中の大学生がみんな『インテリさん』で『勉強家』だと思っているらしいおじさんは、いつもわたしのことをそう呼んでからかう。
 でも自分と他者のあいだに線引きしているような物言いじゃなくて、あくまでも記号。あだ名とか呼び名のたぐい。
 自然な笑顔からは、そんな大らかな印象を受けた。
「どうしたんですか、こんなところで?」
 いままでは校舎の外でしかおじさんのすがたを見たことがなかったのに、今日は地下足袋を脱いで大学のスリッパを履いている。
 胸のポケットの上に『滝工務店』とオレンジで縫い取りがされた作業服すがたなのに、足元だけお客さんみたいなそのかっこうがアンバランスだった。
 正面玄関の壁にかかっている大きな油絵を見上げていたおじさんは、上を向いたままで答えた。
「この絵なんだけどな、もうけっこうぼろになっちゃってるだろう? こうやって見ると」
 言われて、わたしもその絵を見上げた。
 幾何学模様のような抽象画で、縦も横も大きな絵だった。
 重厚な額で縁どりがされてはいるけれど、表面はむきだしのキャンバス。サイズのせいでガラスケースに収めるのはむずかしいのかもしれない。
 かなり古びている。でも『ぼろになっちゃってる』と言われたわりには、穴があいているわけでも額縁が壊れているわけでもなかった。
 大学に入ってからこの場所を通ったことは数えきれないほどあるけど、こんなに古い絵が飾られていることにはまったく気がつかなかった。
「古い絵ですね……どこか壊れてるんですか」
「いや、きったねえんだとさ。ほこりだとか日焼けだとかカビだとかで、色がぜんぜん変わっちゃってるんだと」
 言いながら、おじさんもよくわからないんだろう。頭を右に傾けたり左に傾けたりしながらじっと絵を見つめた。
 わたしもそれにならって右に左に小首を傾げたら、脇についていた金のプレートが目についた。
 そこにこの大学の同窓生である作者の名前と寄贈された年が彫られていた。
 寄贈された年を見て驚いた。ざっと60年も前になっている。
「それでな、ここのお偉がたが困ってだれか修復できるところしらねえかって相談があったんだそうだ」
「修復?……この絵をですか。そんなことができるんですか?」
 言葉の意味はわかっても、具体的にそれがどういうことなのかまるで見当もつかなかった。
 それはおじさんにしてもおなじだったようで、世にも困った顔で、だよなあ、とうなずかれてしまった。
「芸術だとか何だとか、そういうのはちっともわかんねえんだけどもよぅ、絵ってのは修復ができるんだと――平野がいうには」
 どっきん、とひとつ胸が高鳴った。
 まさか平野さんの名前が出てくるとは思わなかった。
「どどど、どういうことですか」
 思いっきりどもってしまった。そのあわてぶりに、自分のことながら苦い笑いが出そうになる。
 おじさんは自分のこめかみを指でつつきながら教えてくれた。
「あいつはここのデキが違うインテリで、もともとそっちの専門だからさ」
 『そっち』ってどっち?
 考えながら、じっとおじさんの顔を見つめた。
「絵だか美術品だかの修復をやってたらしい。縁あってこういう仕事の話を耳にしちゃあな、引き受けるのが筋ってもんだろ。なのに平野のやつはよぅ……」
 おじさんは言いよどんだまま腕組みをして、また絵を見上げた。
 つられてわたしも見上げる。
 なんど見ても、この絵が『修復される』というイメージがわかない。
 平野さんがそれをできるということも。
「お嬢ちゃん、平野にほれてんだろ」
「ほっ、ななな」
 なにを言いだすんですか棟梁。
 一気に体温があがって汗が吹きだしそうになる。
 ちがうもん。そういうつもりで見てるんじゃ……ない、と思う。
 でもおじさんの言葉はどこか優しくて耳に心地よくて、うっかりすると錯覚してしまいそうだった――わたしが、平野さんに恋しているんだと。
 そして、もしほかのだれかがそう錯覚しているんだとしても、けっしていやなことじゃなかった。
「よかったらあいつの背中を押してやってくれねえかな」
 小柄な体をわたしのほうに向けながら、おじさんが言った。  
「平野はなんだかしらんがワケありだ。いまは休むのもいいかもしれん。でもいずれは古巣に戻るときがくる。だからわかってほしいんだよ。その準備がしたいなら、いつでもチャンスはあるってことを」

 

    ◇  ◇  ◇  ◇  ◇ 

 

 なんだか頭の中がゼラチンに包まれたみたいな気分だった。
『工務店はすぐそこだから、いつでも遊びにきな』
 最後にそう言い結んでくれた棟梁のおじさんから聞いた話がいろいろな意味で意外すぎて、そのことばかりぐるぐる考えていた。
 絵の修復。インテリ。ワケあり。古巣――おじさんが口にした言葉の意味を、ずっと考えていた。
 でもぜんぜん意味がわからなくて、あたりまえだけど答えなんかかけらも見えなくて、戸惑うばかりだった。
 平野さんに会って、真相を確かめたい。でもすぐにもうひとつの考えが浮かぶ。
 あれだけ秘密主義の彼のことだもん。きっとあっさりとは教えてくれないだろう。
 そう思うことは、わたしの心をさみしく揺らした。
 ほんのすこしでも、平野さんに近づけたらいいのに。そのためだったらなんでもするのに。
 午前中の多文化理解概論の講義はまったく頭に入ってこなかった。
 ぼんやりしたまま学食でランチを食べ、午後の講義に出た。
 講義が終わったあとの予定はとくになかったけど、なんとなく帰る気にはなれなかった。
 のろのろした足どりで、別館にあるサークルの部室に向かった。
 うちのサークルは演劇サークルと呼ばれてはいても、実績があるわけでも活発な活動をしているわけでもない。
 部員も熱心なのは数人だけで、あとは幽霊部員みたいなものだ。
 本館の2階から伸びたガラス張りの渡り廊下を通るとこじんまりとした別館で、クラブハウスや部室はそこに入っている。
 部員が全員そろうとぎゅうぎゅうになってしまうくらい狭いけど、飲み物やお菓子やマンガも常備されていてそこそこ居心地もいいのでだれでも自由に使うことができる。
 だれか先客がいればおしゃべりにつきあってもらえそうだし、ひとりで時間をつぶすのも悪くなかった。
 陽射しが傾きはじめた廊下を歩いて部室に近づくと、部室の中から話し声が聞こえた。
 女の子の声だった。
 見ると、壁の上部についた通気用の窓がすこし開いていて、そこから声がもれているらしい。
「……わかってるんですか、勇馬先輩は」
 その声は『もれている』というよりは『非難している』ようだった。声の主がだれかはすぐにわかった。
 秋ちゃんだ。
「ぜったいおかしいです。あんなひと、メイ先輩に似合わないし」
 引き返そうと思ったところでわたしの名前が聞こえてびっくりした。
 息をひそめて動きを止める。
「まあまあ……そうは言っても、本人の問題だから」
 いなすような勇馬の声がした。
「だから、本人がちゃんとわかってないから、勇馬先輩が言ってあげないとだめなんじゃないですか」
 秋ちゃんの声が金属のような響きになった。
「なんで?」
「なんでって……だって、わかるでしょう?」
「いやー、わっかんねえな」
 何かをはぐらかそうとしているような、のらりくらりとした声だった。
 顔を見なくてもわかる。
 芝居がかったトーンの声は、いらついたときの勇馬のくせだ。
「メイ先輩のとなりには、勇馬先輩レベルじゃないと、だめなんです」
「はあ?」
 はあ?
 勇馬といっしょにわたしも思わずそう口走りそうになった。
「先輩たちは、どうしてつきあわないんですか。ふたりとも今フリーなんでしょ。なのにどうして?」
「逆にこっちが訊きたいよ。俺らの何を知ってるわけ? 秋穂ちゃんは」
 沈黙が落ちる。
「俺はメイの友人だ。むこうもきっとそう考えてると思う。それでなんでまずいんだよ?」
 そうだよねえ。
 勇馬の言ってることは正しくて、すごくもっともだと思った。
「フリーだとか何だとか、そういうのって正直言ってすげえ下世話。俺のこと、女ならだれでも恋愛対象としてしか考えないような単細胞な男だと思ってんの?」
 声音がいちだん低くなる。
 両親が早くに離婚したこともあって、勇馬は子どものころから妹の面倒を見なければならなかった。そのせいなのか同級生の中では自立したタイプだ。
 たいていのことは周りから手助けされなくても自分でできるという自負もあって、たとえ仲がよくても押しつけるような物言いをされることを嫌う。
 かわいげがないといって女子からフラれたことも1度や2度じゃないはずだった。
「だって、あのメイ先輩なんですよ? モデルっていってもいいくらいきれいなのに」
「ううーん、そこまで美人かねえ?」
 ……秋ちゃんはわたしを美化しすぎの感があるにしても、こうしてあっさり疑問符をつけるところが彼らしかった。
「あいつのこと好きなのはわかるけど、いい加減そうやって子どもっぽいイメージ押しつけるのやめにしたら? メイはそんなこと望んでないぞ」
「そんな、押しつけてなんていません」
 秋ちゃんの声は震えていた。
「勇馬先輩ならわかってくれると思ってたのに……ずっとメイ先輩のそばにいるから」  
「そばにいたいなら、ある程度は相手の立場も考えてやれよ。秋穂ちゃんなら、おなじことされたらどう思う?」
 その場の温度が、すうっと下がった気がした。
 疑問形であっても、勇馬はその答えを知っている。知っててわざと訊いてるんだ。
「……メイにはっきり言った記憶はないけど、俺はこの年で純粋な友情オンリーでつきあえる女がいるってことにすっげえ満足してるわけ。そういう関係を壊そうとするならさ、たとえ相手が秋穂ちゃんでも容赦しないよ?」
 勇馬ってこんなことも言うんだ。ふだんはだれとでもつかず離れず、やっかいなことには近づきたがらない無難なキャラだけに、ちょっと意外だった。
 どうして勇馬はこんなにもあっさりと、わたしとおんなじ感じかたができるんだろう。
 居心地がいい反面、男女の関係にならないだろうと確信していることで安心を得ているなんて、どんなに言葉にしてみたところで秋ちゃんにはわからないだろうと思った。
「それでも、いやなんです。あんな……あんな日雇い労働者みたいなぼさーっとしたおじさんなんか、メイ先輩には似合わない!」
 声がいちだんと高く、大きくなった。
 だれのことかすぐわかった――平野さんだ。
 がたがたっとひとの動く気配がしたので、とっさに部室の角を曲がって非常階段のほうへと身を隠した。
 引き戸があいて、廊下を遠ざかってゆく足音が聞こえる。バッグにつけたチャームか何かのふれあう可愛らしい音がしたから、たぶん秋ちゃんだろう。
 勇馬とかちあいたくなかったので非常階段からそとにでることにした。  
 『メイ先輩には似合わない』という声が、見えない光線のようになんども胸につきささった。
 音を立てないように階段を降りる。
 左手でてすりにつかまりながら、喉をしめつける痛みをこらえた。 
 

 

 

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5/12/2009