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第8話 「プラチナ」

 

 直接わたしに向かって投げつけられたわけじゃなかったけど、秋穂ちゃんの言葉は心の奥につきささったまま抜けなかった。
 『メイ先輩には似合わない』――『似合う』かどうかなんて、どうしてほかのだれかに決められなきゃならないの?
 わたしの気持ちの問題なのに。
 そうは思っても、この先も顔を合わせなきゃならない後輩が相手というのはけっこう頭を悩ませる。
 ……いずれどこかで、きちんと向き合う必要があるのかな。
 このあいだ『ハーフ』と言われたときも思ったけど、秋ちゃんはほんとうのわたしを見ていない。
 彼女の目に映っているのはモデルや芸能人に代表されるアイコンで、外国人を父親に持つ等身大のわたしじゃない。
 うちの家族もわたしも、ごくふつうの日本人が見たらスタンダードからずれていることもあるかもしれないけど、逆に拍子抜けするぐらいふつうの生活をしていることだってきっとある。
 そういう部分を、もっと知ってもらいたかった。
 もちろん、秋ちゃんの気持ちを考えて、あえてそうした話題を避けてきたわたしのほうにも問題はあったのだろうけど――。

 


 別館の部室をあとにして非常階段を降りたら、外は雨が降りはじめていた。
 5月にしては湿度が高くて暗い空を見上げ、ため息をついた。 
 こんな日にかぎってバッグに傘が入っていない。しかたなくハンカチを頭にのせて歩きだした。
 別館からキャンパスの外にでるには正門より通用口を使うほうが近いので、レンガ敷きの道を通用口へと歩いた。
 葉桜が多少の雨よけになってくれる。
 車道を小走りに横切り、路地を歩くとちょっと先のほうに『滝工務店』という看板が見えた。
 へえ……棟梁のおじさんはすぐそこだって言ってたけど、こんなにすぐそこだとは。
 ひとがやっとひとり通れるぐらいのわずかな歩道を、工務店にむかってまっすぐ進んだ。
 白地に黒の、飾り気のない看板。なのに目立つのは古さも手伝ってるからだろう。金字で店名と電話番号がプリントされたアルミサッシの店構えも、昭和っぽい感じがした。
 真ん中のあたりがすりガラスになったとなりの棟は作業場になっているらしい。ちらりと見ると、雑多な道具や作業台のあいだで職人さんが仕事をしている。
 平野さんのすがたはなかった。
 サッシ越しに工務店の中をのぞいたら、ビニールのソファに座って新聞を読んでいる棟梁のおじさんがいた。
 新聞をめくって持ち上げたとき、めがね越しのおじさんの目とわたしの目が合った。
「おう、お嬢ちゃんじゃねえか、入りな!」
 サッシはきちんと閉まってるのに、はっきり耳まで届いた声に思わず笑ってしまった。
 ぐるっと店内を見回したけれど、こちらにも平野さんのすがたはなかった。外に出ているらしい。
「降ってきたんだろ。落ち着くまでここで雨宿りしていきな。お茶淹れてやるから」
 おじさんが手にしていた湯呑みと新聞をテーブルの上に置いて、おいでおいでをしてくれる。
 せまい歩道は、雨足が強くなったせいで小さな水たまりができるほど雨水がはねていた。
 おじさんの言葉に甘えてアルミサッシの枠に右手を伸ばした。
 ぐっと引いてみたけれど重くてあかない。両手でためしてみたけど、意外としっかりした造りのサッシはびくともしなかった。
 えっと、どうしよう。
 助けを求めておじさんを見たのと、右側にのっそりと人影が立ったのが同時だった。
 ごつごつした手がわたしの頭のうえを横切り、軽い音をさせてサッシをあける。
 カーキ色のTシャツと色あせたジーンズ、日に灼けた首筋、ぬれた黒髪。
 無造作に髪をおおったヒツジタオルが目に入ってきてまた鼓動がさわがしくなった。
「なんだよ、おめえも戻ってきたのか、平野」
 おじさんがつまらなそうに言って、湯呑みを持ったままソファを立った。
 平野さんはわたしの脇をぬけて店内に入り、一拍おいて振り返る。
「……雨、入ってくるから」
 腕を伸ばしてサッシをつかむ。
 からり、と音がしてサッシとサッシの隙間がわずかに広がった。
 ……どうやら、早く入れとわたしをうながしているらしい。
「失礼します」
 お辞儀をしてから滝工務店の入り口をくぐり、サッシを閉めた。あけるときは苦労したけど、閉めるほうは楽だった。
「で、どうだって? お偉いさんのほうは」
 おじさんがついたての向こうから平野さんに訊いた。
 ついたての奥には小さな流し台があるらしく、蛇口をひねる音ややかんのふたを開け閉めする音がそれに続く。
「表面が明るくなれば、とりあえずはいいんだそうです」
 平野さんはそう答えて、ソファの向かいがわにある椅子に腰をおろした。どっかりとコンクリートの床を踏む、ワークシューズのひもがほどけかかって泥にまみれていた。
「カンバスの破れもないし、だったら洗浄と補強で見積もりを、って話でした」
「じゃあおまえがやるんだろ?」
「いえ……知り合いの事務所を紹介します」
「ええ、なんで?」
 急須と湯呑みをふたつ手にして、おじさんがついたての向こうから戻ってきた。
「お嬢ちゃん、そんなとこに立ってないでこっちに座りな。今日は雨だからよ、みんな作業場のほうでのんびりやってんだから遠慮するこたねぇ」
 ほれ、と手招きしてくれる。
 ぺこりと頭を下げてから、平野さんのとなりの木のスツールに腰かけた。
 どきどきする心臓が気になってしかたなかったけど、トートバッグをひざの上で抱えてごまかした。
「でもよ、せっかくの仕事だ。遠慮してねえで受けりゃいいじゃねえか。なあ?」
 最後の問いかけでわたしを見る。おじさんは慣れた手つきで急須から湯呑みにお茶を注いだ。
 平野さんが右手で頭のてっぺんを押さえてから後頭部へすべらせ、ヒツジタオルをはずした。端のほうで雨にぬれた髪をごしごしこすり、首にかける。
 土やほこりがまじったせいで黒ずんだ指先はごつごつしていて無粋で、でもどきどきするぐらいおとなで。
 見ていると胸が締めつけられるような気持ちになった。
「遠慮……してるわけじゃないです」
 声をしぼりだすようにして平野さんが言った。
「だったらどうして。絵の修復なんてよ、俺らから見たら専門職だ。高嶺の花だ」
 おじさんはそれきり黙ってしまった平野さんの前に湯呑みを置き、わたしに掲げるようにしてもうひとつの湯呑みを置いてくれた。
「このお嬢ちゃんのことなら心配しなくていい。おまえが修復士だったってのは俺がバラした」
 えっと。
 おじさん、そんな身もふたもない言いかたって。
 いきなり話題をふられてあたふたしてしまった。
 でも平野さんはゆるやかに首を振って、テーブルの湯呑みに視線を落とした。
 うつむくと、ざくざく切っただけみたいなざんばら髪が鼻先まで落ちて表情を隠す。
「……いまはここの仕事をしたいんで」
 どれほどの言葉を飲みこんだのかわからないけれど、平野さんはそれだけを口にした。
 『平野はワケありだ』――そう言ったおじさんの意味するところを、はじめて目にしたと思った。
 平野さんはわたしが想像もできないものを抱えているんだろう。
 そしてそれは、いまここで口にするようなことじゃない。
 理屈ではわかっていても、やっぱりわたしの心はうっすらと痛んだ。
 紙で切ったときのようにわずかに、でもはっきりと。
「そっか。じゃあ、まあいいや。なんだかんだいっても、おまえの仕事はちゃんとしてるしな……いてもらって困ることはねえ」
 ずずず、とお茶をすすりながらおじさんが笑った。
「嬢ちゃんは、まだ名前もらってなかったな?」
「あ……そうですね。すいません。佐藤です。佐藤メイ」
「メイちゃんか。めんこい子は名前もめんこいな」
 そう言って、がははと笑った。
 おじさんは滝さんといって、ここの店長の親戚なのだと教えてくれた。
 お礼をいって飲みはじめた香ばしい玄米茶をすすりながら世間話をしていると、となりの棟で作業していた職人さんや現場に出ていた職人さんが戻ってきたのでわたしも腰をあげた。
 滝さんは気にしなくていいと言ってくれたけど、あまり甘えるわけにもいかないのでお辞儀をして戸口に向かった。
 『滝工務店』と金字でプリントされたサッシ越しに鉛色の空を見上げると、雨の勢いは弱まったものの、まだ止みそうにない。
 わたしはポケットを探ってさっきしまったハンカチを取りだそうとした。
「これ、持っていけば」
 平野さんの声がして、後ろから差しだされたのは透明なビニール傘だった。コンビニとかで売ってるものとおなじ、よくあるやつ。
「でも、平野さんは?」
「俺は工務店のを借りるから。それに」
 と言って首にかけたヒツジタオルの端を片手でひっぱる。
「これのお返し」
 タオルをはずしたせいで、髪がばらばらと顔にかかっている。
 まだ湿っている髪の一本一本がわかるくらい平野さんのそばにいた。
 いま初めて気づいたけど、意外ときれいな鼻の形をしていた。
 目頭が鋭いせいかな。不精ひげを剃ったら、鋭角的な顔になりそうだ。
「……じゃあ、お借りします」
 頭を下げて傘を受けとったとき、平野さんの胸のあたりで何かがきらりと光った。
 いつもはちらっと見えるだけのボールチェーン。
 首にかけたタオルに金具か何かがひっかかったのだろうか。
 いまはカーキ色のTシャツの上に鎖が出ていた。
 平野さんがわたしから身をひるがえす寸前、タオルの下に隠れていた鎖についたものが見えてしまった。
 ほんの一瞬だったけど、わたしの目にはコマ送りのようにしっかりと焼きついた。
 それは、プラチナ色をした2本のリングだった。
 重なるように並んだ大きい指輪とふた回りぐらい小さい指輪。
 ガラスのショーケースの中で見かける結婚指輪に、こわいくらい似ていた。

 

 

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5/30/2009