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第8&1/2話 「天使接近」 -SIDE:HIRANO-

 

 『マリッジリングはぜったいにペアで、素材はプラチナにしてね。
 お互いずっと身に着けていたいから、飾りのないシンプルなのにしようよ』
 言われたときはぴんとこなかったけど、たしかにきみの言ったとおりだった。
 飾りのないつるんと丸みを帯びたシンプルな指輪は、デスクワークをしていてもアトリエで作業をしていても建築現場に出ても、邪魔になることがなかった。
 なのに輝きは重厚で品があって、あのころは、取引先や知り合いからそういうリングはどこに行けば手に入るのかと訊かれることもよくあった。
 
 ときおり夢で会うきみは、明るくて幸せだったころのままだ。
 まるで、目覚めたあとの俺の苦しさを知っていてわざといつもどおりふるまっているみたいに。
 ……でも、夢でもいいんだ。
 そばにいてくれるなら。
 いつか、夢で会うきみさえも記憶の彼方に風化してしまうより、夢をとおして俺に孤独の意味を教えつづけてくれるといい。
 そう考えながら眠る晩の夢には、決まってきみが出てこない――。

 

    ◇  ◇  ◇  ◇  ◇ 

 

 棟梁に肘で小突かれて見ると、このあいだの天使が立っていた。
「こんにちは」
「なんだい、今日も平野といっしょに弁当食うのかい? お嬢ちゃん」
 にやけ顔を隠しもせずに棟梁が訊く。
「……あ、はい。約束したんで」
 あたりまえのようにそう答えた彼女を、思わず見つめ返した。
 ええ? そんなこと言ったか?
 あわてて記憶の底をさらうけど、どう考えてもそんな約束をした覚えがない。
 だいいちいまはゴールデンウィークで大学は休みなんじゃないのか?
「おーおー、じゃメシにしろ。午後は反対側をおなじようにやっといてくれ」
 棟梁はしょうがねえな、とぼやいてくるりと背を向けた。おそらく、邪魔になると思って気を回してくれたのだろう。
 ……ふだんは遠慮してくれよと思うときほど微塵も気を使ってくれないのに、こんなときだけへんに勘ぐるんだからな。
 そう思いながら、とりあえず道具を片づける。
「お昼、いっしょしてもいいですか?」
 このまえとおなじ、穏やかなトーンの声だった。
 なんで俺に関わってくるんだろうと思いつつ、正直、この声を聴いているのはいやじゃなかった。
「いいけど……約束なんかしたっけ?」  
「してない。でも話したくて」
「……変わってるな」
「え?」
 どう言えばいいのか迷って、しかたなくもういちど顔を見る。
 この子の瞳、色が明るいのは日差しのせいだろうか。鉱石みたいだな、と考えながら言った。
「あんたは変わってる。あの友だちに怒られてもしらねえぞ」
 護衛みたいにくっついてたあの友だちが何を考えていたのかわからないほど間抜けじゃない。でも、知らないだれかから蔑まれるのにはもう慣れた。
 これ以上俺といて、この子にまでおなじ思いをさせるのは心苦しかった。
「あの子は後輩。失礼な態度だったことは、かわりにわたしが謝ります。ごめんなさい」
 天使がぺこりと頭を下げる。自分のせいだと思っているそのようすには一点の曇りもなかった。
 どうしてきみが謝るんだ?
 謝ってほしかったわけじゃないのに。
 責めたんじゃない。責められるべきはむしろ俺のほうなのに。
 そこで、自分の言いかたに責めるような響きがあったんだとやっと気づいた。
「そういう意味じゃない」
 そんなつもりで言ったんじゃないんだ。  
 予想に反して寛大な態度をとられると、なんだか本物の天使みたいに思えてくるだろ。
 そう思って、すこしだけ気持ちがやわらかくなった。

 

 

 ピクニックベンチで弁当を食べながら、天使の自己紹介を聞いた。
 ほんとうのことをいうと、自分の話はしたくないし食べることに専念したかったから相手にしゃべってもらったという、ただそれだけのことだ。
「……名前は知ってますよね」
「さあ」
 自慢じゃないが、ひとの名前を覚えるのは苦手だ。
 それに女の子の名前は、親戚やほかの知り合いとまちがえそうなほどありふれたものか、むずかしいものかのどちらかが多い。
「佐藤メイです。メイはカタカナのメイ」
 意外とシンプルでなぜかほっとした。
 メイという響きで、ヒツジを思い浮かべた。そういえば、この子にもらったタオルもヒツジの模様だった。
「ここの大学の異文化コミュニケーション専攻の4年生です」
 ここの大学といえば、東京だけでなく日本でも名の知れた大学だ。異文化コミュニケーションというのがどんな勉強を意味するのかよくわからなかったけれど、佐藤さんとやらは優秀なんだなと思った。
 そういわれてみれば、受け答えもしっかりしているし、物怖じしたところがない。聡明なんだろうと思った。
「得意科目は英語。苦手なのは……えーと、そうだな、お料理」
 料理はさすがにここの大学じゃ教えてないだろう。
 佐藤さんもそれに気づいたのか、へへ、とひそやかに笑った。
「家は神奈川の山のほうで、家族は両親とお姉ちゃんがひとり、お兄ちゃんがふたり。上のふたりはもう結婚してるけど。去年から子猫2匹が新しく家族になりました」
 心地いいトーンの声を聞きながら弁当を食べ続けた。
 いつも買ってる安い弁当も、こうして新緑の多いキャンパスで、穏やかな声を間近に聞きながら食べるなら悪くないなと思った。
 ここ1、2年のあいだ、食事は喉を通ればいいという意識だけですませていた。どうして毎日食べなきゃならないのかわからないほど楽しめなくて、味もろくにわからなくて。
 だから当然、体重も落ちて疲れてばかりいた。
 工務店に勤めだしてからは、滝さんに誘われてまともな食事をしたこともあるけれど。
 食べなければ、という義務感もなく食事をするのはものすごく久しぶりだという気がした。
「ねえ、平野さんのことも教えてよ」
 屈託なくそう訊いてくる彼女に、困ったなという思いがわきあがる。年齢も性別も環境もちがうだれかと親しくなるのには抵抗があった。
「名前と職業。それで充分」
「それだけじゃ足りないでしょ。どこに住んでるのかとか、趣味とか歳とか、休日は何してるのかとか……」
 そんなこと、知ってどうする。知ったところできっとなんの接点もないにちがいない。
 弁当の空き箱をつっこんだレジ袋を手に、ピクニックベンチから立ち上がって言った。
「面倒くさい」
「なっ」
 明るい色の瞳が見開かれた。
 きっとその色とおなじくらい明るい人生を歩んでいるんだろう。
 だれかの幸せの明度を目にするのは、いまの俺がいちばん苦手としているものだった。
 まぶしさに目がくらんで、胸が痛くなるから――。
「いーっだ! けぇーち!!」
 罵声をあげる佐藤さんに背を向けて足場に戻りながら、レジ袋をゴミ箱に放った。
「平野の秘密主義! ズボラで面倒くさがりのスットコドッコイ! オタンコナス!」
 背後から大声が飛んできた。
 ……いきなり呼び捨てかよ。
 腹式呼吸かと思えるほど朗々と響いたその声に、キャンパスを歩いていた学生が数人、顔をあげて彼女を見る。
 子どもじみた大声が可笑しくて、佐藤さんに気づかれないようにして笑った。
 いまどき『スットコドッコイ』ってどうなんだよ……そう思ったら、一人になってからまた笑いがこみあげた。

 

    ◇  ◇  ◇  ◇  ◇ 

 

 ゴールデンウィークが終わって通常の生活になると、はっきりしない天気の日が多くなった。
 そろそろ梅雨が近づいているんだろう。
 雨に降られながらすぐそばの大学から戻ると、工務店の前に人影が見えた。傘を持っていないのか、たまご色のハンカチを頭に乗せている。
 その背格好を見たらわかった。このあいだの――佐藤さんだ。
 工務店に用があるのか、ガラスのサッシ戸に両手をかけてあけようとしているところだった。だけど建てつけが悪くてあけられないのだろう。苦労しているのが通りから見ていてもわかった。
 ……あのサッシは敷居のレールが砂ぼこりで詰まってるのか、あけるのにはちょっとコツがいる。
 ゆっくりと佐藤さんに近づくと、うしろから手を伸ばしてサッシの縁をつかんだ。
 ががが、と砂利道を走る車みたいな音がして、滝工務店と書かれたサッシがひらく。
「なんだよ、おめえも戻ってきたのか、平野」
 棟梁が遠慮なくがっかりした声で迎えてくれた。
 ……はい、スミマセン。帰ってきてしまいました。
 そう考えながら店内に入る。あとに続いてくるだろうと思った佐藤さんは、戸口のところで固まったように動かない。
「……雨、入ってくるから」
 もういちど、反対側のサッシをつかんで広くあけてやった。
「失礼します」
 長身をすこし折るように頭を下げて、佐藤さんは店に入ってきた。
 ここまで背の高い女性は周りにもなかなかいない。この工務店で働くほとんどの職人より長身だった。
「で、どうだって? お偉いさんのほうは」
 ついたての向こうから棟梁に訊かれた。
「表面が明るくなれば、とりあえずはいいんだそうです」
 答えて椅子に腰をおろす。
 大学の正面玄関に飾ってある油絵の補修を打診されたのは数日前のことだ。
「カンバスの破れもないし、だったら洗浄と補強で見積もりを、って話でした」
「じゃあおまえがやるんだろ?」
「いえ……知り合いの事務所を紹介します」
「ええ、なんで?」
 ついたての奥の流し台から戻ってきた棟梁は、つっ立ったままの佐藤さんに目をやった。
「お嬢ちゃん、そんなとこに立ってないでこっちに座りな。今日は雨だからよ、みんな作業場のほうでのんびりやってんだから遠慮するこたねぇ」
 佐藤さんは頭を下げて、となりに置いてあったスツールに座った。
「でもよ、せっかくの仕事だ。遠慮してねえで受けりゃいいじゃねえか。なあ?」
 問うように佐藤さんを見る。
 この状況で訊かれても、半分も話が見えないだろう。戸惑っているようすが伝わってくるようだった。
 タオルをはずして湿り気の残る髪を拭いながら棟梁に答えた。
「遠慮……してるわけじゃないです」
「だったらどうして。絵の修復なんてよ、俺らから見たら専門職だ。高嶺の花だ」
 棟梁は俺と佐藤さんにそれぞれお茶の入った湯呑みを置いてくれた。
「このお嬢ちゃんのことなら心配しなくていい。おまえが修復士だったってのは俺がバラした」
 ……そうなんだ。
 知られてもたいして気になっていない自分に驚いた。
 むしろ。
 どうしてこの子だけこんなに自分に関わってくるのか不思議だった。
 もちろん、棟梁が彼女のことを気に入ったからだっていうのもあるだろう。
 でも、こんなふうに一から知り合いになる存在がここしばらくの人生でいなかったからだろうか、自分の知らないところで見えない歯車に組み込まれているような気がして、すこし怖かった。
 もうあんなふうに――だれかを取りあげられるのはいやだ。
 佐藤さんがそういう存在だというわけじゃない。
 でも、いきなり襲ってくる悲しみをやっとやりすごすことができるようになった。すこしだけでもマシになったこの状況を保つには、目の前の仕事にだけ集中してよけいな関わりを絶つことだ。
「……いまはここの仕事をしたいんで」
 答えながら、声が震えてしまったのが自分でもわかった。
 仕事をして、疲れたら眠る。その繰り返しに慣れると、非日常的なことには極力関わりたくない。
 それだけだった。
「そっか。じゃあ、まあいいや。なんだかんだいっても、おまえの仕事はちゃんとしてるしな……いてもらって困ることはねえ」
 棟梁が笑った。その屈託のなさに救われた気がした。
「嬢ちゃんは、まだ名前もらってなかったな?」
「あ……そうですね。すいません。佐藤です。佐藤メイ」
「メイちゃんか。めんこい子は名前もめんこいな」
 佐藤さんは照れくさいのか、えへ、と頭をかいた。
 棟梁には娘さんがいるけれど、孫は男の子だけだ。きっと孫娘がいたらこんな感じかな、と思って佐藤さんを見ているのだろう。
 ふたりはそれから玄米茶をすすりながらなごやかにおしゃべりをしていたが、他の職人たちが戻ってくると佐藤さんが空になった湯飲みを置き、荷物を肩にかけて帰り支度をはじめた。
 雨はまだ降り続いている。
 たまご色のハンカチを出した彼女を見て、そういえば今日は傘を持ってないらしいと思いだした。
「これ、持っていけば」
 戸口の隅の傘立てにさしておいたビニール傘をとって差しだすと、佐藤さんはものすごくびっくりした顔をした。
「でも、平野さんは?」
 室内で見ても明るい色の瞳で、心の奥でも探るかのように見つめ返してくる。
 わけもなくどきりとした。
「俺は工務店のを借りるから。それに……これのお返し」
 首にかけたタオルをひっぱってみせた。
「……じゃあ、お借りします」
 佐藤さんは律儀にぺこりと頭をさげて傘を受けとった。
 穏やかなその声に、胸の奥がゆるやかに温かくなる。


 作業場へ戻り、仕事が休みのいまのうちに道具の手入れをしておこうと考えた。
 首にかけていたタオルを頭にかぶったとき、Tシャツの襟から飛びだした鎖が指にふれた。
 ――ああ、なんだ。
 プラチナは頑丈だし、それほどマメに手入れしなくてもだいじょうぶ、なんて言ってたくせに。
 やっぱりマメに磨いてないと輝かないよ。
 アパートに帰ったらクリーナーできちんと手入れしようと考えながら、ペアの結婚指輪を通した鎖をTシャツの中に戻した。

 

 

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9/30/2009