>>NOVELS >>INDEX >>BACK >>NEXT


第9話 「恋心」

 

「……ねえ、指輪のサイズいくつ?」
 日曜日の朝だった。
 キッチンでコーヒーを淹れていたカレルのTシャツの背中に訊いた。
「何? 急に」
 怪訝そうな顔をしてちょっとこちらを見てから、NHLのロゴが入った黒いマグカップにコーヒーを注ぐ。
 上背もあって手もでかいカレルなんて、あんまり参考にはならないかもしれない。
「いいから。何号?」
「指輪なんてしないからわかんねえよ」
 だよねえ……アクセサリーなんてつけたこともなさそうなカレルの言いそうなことだと思った。
「ねえ、このまえの"よしのさん"。うちにつれてきてよ」
 なんの前ぶれもなくそう言うと、カレルはぎくりとしたように背筋を伸ばした。
「……なんでだよ」
「だって、きれいなんだもん」
 するとカレルは、そうだろうとでもいいたげに目じりを下げた。
 ……佐藤家の次男にこんなに感情表現のすべがあったんだと、わたしとお母さんは最近になってようやく気づいた。
 これまでは、妹のわたしから見てもまごうことなき不器用で気も利かないダメ男のこの兄貴に、女のひとが寄ってくるわけないと思っていた。
 なのに、いつだったかアイスリンクのそばでばったり会ったとき、いっしょだった彼女のよしのさんが美人だったんで本気で驚いた。
 地味なカレルより、やることなすことなんでも派手で仕切りたがり目立ちたがりのドミのほうが意外とモテる。
 子どものころからそれはお決まりの構図で、だからドミが昔から家を行き来している幼なじみのちず姉と結婚すると聞いたときは、意外な感じがしてうれしかった。大好きなちず姉が、ほんとうのお義姉さんになるんだと。
 美大出身で手先の器用なちず姉が提案した、きれいなチェコビーズの結婚指輪。お金が貯まるまでってことらしいけど、ドミはその指輪をすごくだいじにしててチェーンに通して身につけているのを知っている。
 そこまで考えて、目の奥がつうんとした熱を帯びた。
 チェーンの上で重なり合うように並んだ、プラチナの結婚指輪ふたつ。
 思いだすと、胸が痛くなる。
 キッチンテーブルに右腕を伸ばし、その上に右耳をつけるようにして頭を乗せた。
「世の中に星の数ほどいる男の中からわざわざカレルを選ぶなんてさ――よっぽど、ほんとによっぽど好きなんだねえ」
 いいなあ。そんなふうに思ってくれる相手がいるなんてうらやましい。
 正直な感想を言ったつもりだったけど、選ぶ言葉をまちがえたらしい。
「『よっぽど』ってなんだ。22にもなって日曜にでかける相手もいないくせに」
 罵りの声が頭上から聞こえた。
「いっしょに出かける相手くらいいますよーだ」
「女の友だちより、早く指輪とやらをくれるような相手ができるといいな」
 カレルはひょいと首を下げて鴨居をくぐるとキッチンから出ていった。
 くっそー……よけいなお世話だっつーの。
 そうは思いつつ、自分の左手――薬指のあたりに視線を落としてしまった。

 

◇  ◇  ◇  ◇  ◇ 

 

 日曜日の横浜はすさまじい混みぐあいだった。
 地元で待ちあわせた奈緒子と私鉄で横浜まで出かけ、人でごったがえす地下街を縫うように移動する。
 旅行の予定があるからその買い物がしたいという奈緒子についてきたけど、ほんとうのところはわたしもちょっとした気分転換がほしかった。
 夏を先取りするのに忙しいショウウィンドーはどこもすがすがしいから、そんな光景を眺めているだけでも、心にたまった澱のようなものを忘れられそうな気がしたんだ。
「……ねえ、ラベンダーと青、どっちがいいと思う?」
 3軒目のお店で試着室から出てきた奈緒子は赤味がかったラベンダー色のチュニックをまとい、片手にはハンガーにかかった色ちがいを掲げてわたしを見た。
 シフォンのような生地のそのチュニックは、肩ひもと裾のところが幅広のレースになっていてとてもかわいい。
 インにはパフスリーブのTシャツを着て、ロールアップしたデニムともよく似合っている。
 チュニックはキャミソールみたいなスタイルだったけど、奈緒子はきっとカーディガンを羽織ったりして重ね着しなきゃならない。だったら手持ちの服とのコーディネイトはだいじだろうと思った。
「どっちもかわいいよ。迷ってるなら、手持ちとあわせやすいほうにしてみたら?」
 すると、あ、そっかとつぶやいてなにやら考えこんだ。
 ――奈緒子のからだは紫外線を長時間大量にあびることができない。
 それは彼女の免疫反応が強すぎるためで、適切な治療をしないとさらにひどい症状を引き起こすのだそうだ。そのせいで過去になんども入院したことがある。
 一方で強い薬で免疫反応を抑えなければならず、抵抗力が弱まっている場合はからだに無理ができないという矛盾もはらんでいる。
 本人の言葉を借りれば『小さいころからの体質だからもう慣れた』そうだけど、日常生活が制限されていたり、いくつもの薬を飲まなきゃならなかったり、それはそれで苦労した経験があるからの言葉なんだろうと思う。
 甘いお菓子のような外見からは想像もできないほど芯の強い親友は、小学校のころからわたしのひそかな支えであり憧れでもあった。
「よっしゃ、決めた。ラベンダーにする」
 奈緒子はそう言って青いチュニックを棚に戻し、軽やかな足どりでもう一度試着室へと消えていった。
 会計をすませてから、ひとやすみしようと地下街の中にあるカフェに入ることにした。
 ここもけっこうな混みようだったけど、待っているうちにテーブルが空いてなんとか腰をおろすことができた。
「よーし、これで着ていくものは決まったし、あとはバッグを新調するだけ。まずは水分補給」
 運ばれてきたハーブティーを美味しそうに飲む奈緒子に笑ってしまった。
「1泊旅行でしょ、どんだけ荷物あんのよ?」
「だって、いま使ってるやつもう7年も使ってて底に穴空いちゃってんのよ。穴よ、穴? そこまで物持ちのいい自分をほめてあげたいわ」
 長い髪を耳にかけながらハーブティーをすする。
「あのセンセイもいっしょなんでしょ?」
「……佐原先生? そうだね、車は出してもらうけど……べつに先生とふたりっきりってわけじゃないよ」
 奈緒子はちょっと口をとがらせて視線を落とした。
 おなじ病を抱えている患者の友の会に入っている彼女が、そこで知り合った若い医師とつきあいはじめたのは去年のことだ。
「世の中は夏に向かってるわけだし。ひさしぶりの旅行だし、気心もしれたひとたちばかりだから楽しみなだけ」
 念のために有志で医師がつきそってくれるということだけど、会員にとってもその家族にとっても心強いんだろうということはわたしでもわかる。
 奈緒子のそばかすもない頬が明るい色に染まってるのもうなずける気がした。
「メイはどうなのよ。なんかあった? ちょっと元気ないみたいだけど」
 二杯目のハーブティーをカップに注ぎながら、シフォンケーキでもたもたしているわたしに話題を振ってきた。
「元気ない? わたしが?」
「うん。いつもよりしゃべらないし……なんか考えごとがあるみたい」
 心のうちを話すなら奈緒子だと決めてるのに、いまの自分の心情をなんて言えばいいのかわからなかった。
「元気が出ないっていうか、なんで自分が落ちこんでるのか……よくわかんないんだよね、実は」
「落ちこんでるって、どうして?」
 奈緒子の問いに、ほろ苦いアイスコーヒーを飲んで言葉を選んだ。
「最近……知りあいになったひとがいるんだけど、ちょっとワケありみたいで」
 わたしの脳裏に、平野さんの瞳が思い浮かんだ。
 黒くて、元気がなくて、わたしを突き抜けて別のどこかを見ているような、不思議な瞳。
「すっごい秘密主義であんまりしゃべらないし、無気力だし野暮ったいし……」
「あーらーまー」
 奈緒子の目が半月のような形にしなる。  
「好きなの? そのひとのこと」
「……わかんない」
「うそばっかり」
「ほんとだってば」
「好きなんでしょ」
「だから、わかんないの」
「でも落ちこんでるのはそのひとのせいなんでしょ? めずらしいじゃない、メイはいつもポジティブなのがとりえなのに」
 ……そういえば、このあいだ勇馬にも似たようなことを言われた気がする。
 辛気臭いとか、思春期かとか……だけど、勇馬にせよ奈緒子にせよ、昔からの友だちの言葉は思ったよりずしんときた。
 わたしって、これまでずいぶんとお気楽に生きてたんだな。
 でも平野さんに会ってからは、自分の感情が思いどおりにならない。
 わけもなく会いたくなる。うそつきになる。悪い子になる。
 それでも、平野さんの笑顔も満足に見られない。
 笑顔ひとつ、作らせてもらえない。
 だれかが笑ってくれないというだけで、こんなに気持ちがふさぐこともあるんだって知らなかった。
 平野さんはずっとおとなだから、お気楽で子どものわたしのことなんて何とも思っちゃいない。
 でも。
 あのひとの姿が視界に入ってくると、気持ちがさわぐ。名前を耳にするだけで、どきどきする。
 だから会いたいし、もっと知りたい。
「そうだね……やっぱり、好きなのかも」
 認めたら、ほぅ、とため息がこぼれてしまった。残念な思いのため息じゃなくて、安堵のため息だった。
「好きだけど、でも、好きになってもどうしようもないっていうか」
 言葉に出してみたら、なんだかすごーくあきらめが悪いオンナみたいな響きになってしまった。
 やだな。
 わたしって意外とあきらめが悪かったのかな。
 だから……怖いのかも。
 彼の心が、わたしじゃない、だれか大事なひとで占められていると知ることが。
 あの小さな指輪をはめるのがどんなひとかを知ることが、怖いんだ――。
「どうしようもないって何よ」
 奈緒子の目が探るように細くなる。
 いままで他愛もないおしゃべりを楽しんでいたのに、急に店内のざわめきが大きくなった気がした。
「ことの発端は指輪だったの」
「指輪?」
「そう。彼がいつもしてるボールチェーンのネックレスに、指輪が通してあるの、見ちゃったんだ」
 もう何度、おなじ光景を思い出しただろう。
 コマ送りみたいに、ゆっくりとはっきりと見えた。
 まちがえようもないほどに。
「大きいのと小さいのと、ふたつお揃いだった。それって、結婚指輪だよね?――結婚してるってことだよね?」
 あまりにも不安すぎて、疑問形になってしまった。
 アイスコーヒーのストローを離して訊ねたわたしの声は、自分でもかわいそうになるぐらい震えていた。
 奈緒子は、うーん、とむずかしそうな表情になった。
「どうかな」
「……え?」
「だって、結婚してたらふつう、ふたりとも指にはめてるでしょ。ネックレスに通す必要ないじゃない」
 ――え?
 あれ?
 そ、そうなのかな。
 ドミがちず姉に作ってもらったビーズの指輪をおなじようにネックレスに通してたから、てっきり平野さんも結婚してるんだとばかり思い込んでたけど。
「でも、だいじな指輪だから汚したり傷つけたくない、とか」
「結婚指輪って、そういう心配を減らすように頑丈にできてるものだよ? ずっと着けたままにしたいから」
 ああ、そうか。
 だからプラチナなんだ。
「たしかにワケありっぽいけど……でもさ、ほんのちょっとでも『ワケ』のないひとなんている? 大なり小なり、みんないろんなもの抱えてるもんじゃないのふつう」 
 そう言ってハーブティーの入ったガラスのカップに口をつける一瞬、奈緒子の長いまつげが下を向いた。
 透きとおったその声が耳に残る。
 ……そうだね。
 ワケのないひとなんてきっといない。わたしだって、まだ平野さんに話してないことはいっぱいある。
 好きだからってどうにもならないけど、平野さんばかりが秘密主義じゃないのかも。
 そう考えると、重かった胃のあたりがすこしだけ軽くなった。

 

 

>>NOVELS >>INDEX >>BACK >>NEXT
10/22/2009