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Almost There 1

 

 

 その家は、左にカーブを描いたゆるやかな坂道の中腹にあった。
 家の向こうには、きっと大海原が広がっている。わずかに潮騒が聞こえて、そんな気がした。 木とコンクリートと鋼鉄をうまくくみあわせた不思議な感じのする家だった。こんな建物をてがける建築家とはいったい誰だろう。
 二階建てのその家に近づくと、玄関先にある美しくワックスのぬられた木製のパティオがまず目にとびこんでくる。パティオの奥にはシルバーでふちどりされた黒い鋼鉄製のドアがあり、中央より左側に縦に一本細くはめこまれたガラスが採光の役目をしていた。I字型のドアノブが、あと1歩すすめば触れられるほど近くのところで銀色に輝いている。
 右手を伸ばし、ノブを掴もうとしたところで目が覚めた――。

 

 

 起きがけに見たおかしな夢のせいで、その日の気分は最悪だった。
「あーッ! こんなもん、できるわけないだろうがッ!」
 拳を振りおろすと、薄い発泡スチロールの上を紙でコーティングしただけのボードが、ぺきん、と味気ない音をたてて中央から折れ曲がった。
「……くそッ!」
 イスを回して荒々しく立ち上がると、大股で壁際の小型冷蔵庫に突進する。ドアを開けてつかみだしたボトルから一気に水を飲み干しても、体に発生したこげつくような 焦燥感は消えるはずなかった。
 そんな心中を察したのか、デスクにむかってデザイン画のスケッチをしていた、同じ建築士の水那賀
(みずなが かん)が慰めにもならないことを言った。
「何だよ、荒れてるな。最初からそんなに全部うまくいかないって」
「……最初からうまくできねえんじゃ意味ねえんだよ、どうやってこの仕事やってくってんだ!」
 ばあん、と音をたてて冷蔵庫のドアが閉まった。それが合図であるかのように、部屋にひんやりとした空気がおりてくる。紀柾(きまさ)はくるりと後ろを向いて冷蔵庫に背中を預けると、窓から見える夕暮れの町並みにため息をついた。
 ……企業の建設課という肩書を捨てて、3人の仲間と小さな建築事務所をはじめたのはふた月前。独立してもやってゆける、と判断したのはここにいる自分だけではなかったはずだ。なのに仕事はひとつとしてまともな注文がこないし、資金はあっというまに底をついた。残された道でいちばん期待できそうなのは、各企業が募集するコンペに入賞して仕事を請け負うことくらいだ。
 なんてザマだ――。
 紀柾は床に視線をはわせた。
「そう落ち込むことないだろ、コンペまでまだ1週間もある。それまでに俺とお前と、あのコーディネーターたちで考えりゃいいさ」
 彼の父親は建設会社の役員である。もし今回の仕事がとれなくても、水那賀にはちゃんと行くあてがあるのだ。どんなにあがいても自分の腕にすがっていくしかない自分とは違う、と考えてまた腹が立った。
「おまちーッ、テイクアウト到着!」
 口を開きかけた一瞬、騒がしい女の声にさえぎられて、紀柾はドアを振り返った。
「まいっちゃったよ、いつもの屋台のおっちゃん来てなくてさあ、2ブロックも歩いちゃった。はい、紀柾の分のチャウメンとエッグ・フーヤン」
 発泡スチロールの容器に入った中華料理を差しだされる。紀柾は深呼吸をしないと平静が保てないほどの怒りを覚えた。
「フーヤンなんて頼んでねえだろッ。誰だよこんないかがわしいモノ食うやつは!」
 容器を顔の前につき返すと、ラティーシャは背中まであるトレッドヘアをゆらしながらアラ、とつぶやいた。
「……あんたチャイニーズでしょ」
「半分だけだッ。どこのチャイニーズに聞いたってフーヤンなんか食うやついねえぞ、よく覚えとけッ!」
 憤怒きわみに達したり、という形相でラティーシャをにらみつけると背を向け、開け放したままのドアから外に出る。
「ふざけんなよ、ジャマイカンめ……!」
 通りをでて角を曲がったところにある大きな書店に入ると、紀柾はまっすぐ雑誌の棚へ向かった。国内の雑誌はもちろん、アメリカやフィリピン、台湾など海外からとりよせた雑誌もたくさん並んでいる。
 ビニールの袋に入った『ペントハウス』を手に取ったところで隣に並んだ男に気がついた。
「……なんだお前かよ」
「それ最新号だろ、買うなら俺にも見せろよ」
 水那賀は平積みになったリゾート雑誌をめくりながら言った。たいして興味もなさそうに言うところがこの男を嫌いな理由のひとつだ。
 万事がこの調子で、がむしゃらになったことがない。煮えきらないというか、何を考えているのか今一つ判らない。今の仕事にしたって、どうしてこんな男を誘ったのか自分でも不思議なくらいだ。建築士としての腕はいいのだが。
「あんまりラティーシャにあたるなよ。彼女まだこの国に来たばっかりで勝手がわからないんだからさ」
「さっさとジャマイカに泣いて帰ればいいじゃねえか」
「バカ、そうなって困るのは俺たちのほうだぞ」
 経験のあるインテリアコーディネーターとして仕事に誘った州小慧(ジャウ・シウワイ)はもうすぐ産休をひかえている。
 もちろん産休後は復帰する予定だが、その間の代役兼新人コーディネーターとしてラティーシャを雇ったわけだから、確かに辞められて痛いのはこっちだ。
「……こんどのコンペってさあ、どこの主催だっけ?」
「おい、今頃なに言ってんだよ。あと1週間だぞ」
 やりきれない、と思いつつ見上げると、水那賀は勝手に続けた。
「いや、主催なんかどうでもいいんだ。コンペの内容はキュカリ最南端の、リゾートホテルのエントランスだよな。確かホールが海側に面してたと思うけど」 
「……だから?」
「お前、いつだったか話してたじゃん。エントランスホールってどこのホテルも同じだよな、って。あのとき俺に何て言ったか覚えてるか」
 すぐにはその意味がのみこめなかった。水那賀がいつのことを言っているのか思いだすのにだいぶ時間がかかった。
「……だってあれは、とうてい予算がカバーしきれっこないって、お前も言ってたじゃないか」
「ハリウッドの映画だって黒字になるのはほんの一握りだぜ。だいいちこれはコンペなんだ。スポンサーを言い負かせばあとはどうにでもなる」
 紀柾は一瞬なにも言葉がみつからなかった。
 確かにあの案はリゾートホテルのエントランスにはぴったりの派手さをもっている。ガラスを固定させるためのフレームと接着剤の使用量が多いので予算が高くつくのが難点だが、プラスティックガラスで代用するという手もある。
 紀柾は『ペントハウス』を棚に戻すと同僚にむきなおって答えた。
「――わかった。帰って図面かきおこしてみよう」

 

 

 オフィスに戻ると、小慧が外回りから戻っていた。タックの入ったロングシャツとサブリナパンツというかっこうで、本屋からかえってきた同僚ふたりを見ると手にしていた携帯電話のスイッチを切る。
「大手にもいくつかあたってみたけど、あんまり期待できそうにないわ。こうなったら小さい事務所でも、前の会社によくしてもらってたとこにきいてみる」
「それから、質のいいプラスティックガラスをいい値段で提供してくれそうなとこあったら教えてくれ。来週のコンペに間にあうように」
 そう言うと紀柾は製図用デスクについたまま、きっかり6時間もそこを動かなかった。
 背中と首の筋肉が石のようにかたくなったのでようやくイスをたちあがったとき、壁の時計は夜中すぎをさしていた。伸びをしながらオフィスの中を見回して、ふるぼけたソファで眠っているラティーシャにぎょっとする。
 からだを丸めるようにして寝ているその右手は、ガウディの写真集をつかんでいた。ソファの真ん中が沈んでいるので、本は彼女の手ににぎられたまま床に触れていた。
 紀柾は軽く肩をゆらして彼女をおこした。
「おい、こんなとこで寝るなよ」
「……ん? いいよ、泊まってくから」
 邪魔するな、というように片手ではらうと、ラティーシャはまた目を閉じた。
「ばか、このへん夜は危ないんだぞ。家まで送るから起きろ」
 デスクの上の製図を手早くまるめてケースに入れ、紀柾は荷物をまとめてうながした。彼女はしばらくソファの上でぼんやりしていたが、やがて無言で身を起こすと帰りじたくをはじめた。
「……なんでもっとはやくに帰らなかったんだよ。小慧も水那賀も定時であがってたろ」
 中古のフォードに乗りこむと、エンジンをかけながら訊いた。大通りはまだ車の流れがある。そのほとんどが家路につくひとたちだ。
「ハイウェイに乗って」
「え?」
 早口の英語で言われたので、紀柾はあわててハンドルをきった。すんでのところでインターセクションにはいりこむ。うしろを走っていた車がおおげさなクラクションを鳴らして直進していった。
「お前の家ってウエストポイントじゃなかったっけ」
「はやく帰らなかったのは紀柾も同じじゃない。こんな時間までデスクにむきあってるなんて、家に戻ってもすることないの?」
「……うるせえな、お前の知ったことか」
 寝起きで機嫌がわるいのか、ラティーシャはあおるような口調だった。
 いくら小慧の紹介とはいえ、こんな女と仕事をしなければならない自分がひどくいやだった。やる気だけはあるから、どんなに小さな仕事でも文句をいうことはない。ラティーシャはこの分野で自分がまだ下っ端だということをちゃんとわかっているようだった。それが唯一の救いと呼べなくもなかった。
 そんなことを考えながら彼女がナビゲートするまま車を走らせていたので、ハイウェイをおりてだいぶたつまで自分がどこにむかっているのかわからずにいた。
「そこを右に曲がってまっすぐ」
 街灯もない路地があちこちにあらわれたとき、紀柾はわきの下が熱くなるのを感じた。
 暗い中でも、路上に散らばる雑多なゴミははっきりと見てとれる。バスストップや標識、ゴミ置き場など、公共のもののほとんどにはスプレーでらくがきがしてあった。窓の壊れた家が多く、空き地には、ホイールキャップやタイヤを売って生計をたてているような小屋が見えた。
「ここって……」
「イースト・セントラルよ、来たことないの?」
 ラティーシャはシートに深くすわりこんで答えた。声は苛立ちを含んでいた。その瞬間に、自分とラティーシャのあいだに一筋のラインがひかれたような気がした。
 ――東中環(イースト・セントラル)は、ダウンタウンのほぼ真東に位置している、低所得者が住むエリア一帯の総称だ。表向きはそういうことになっているが、外からここに足を踏みいれようとする者はほとんどいない。ほぼ公然と麻薬の売買がおこなわれ、毎日どこかで銃声がひびき、密入国者が通りをうろうろしている。
 もう真夜中だというのに歩道にたむろしている若者の瞳が、ゆっくりと紀柾の車を追っていた。高級車だったら、エリアに踏みこんだとたん間違いなくカージャックにあってるはずだ。紀柾は生まれてはじめて、流行おくれの車に乗っていてよかったと思った。
「……その先の角を左に曲がったところでいいわ」
 ラティーシャはそう言って、バッグの中から小さな黒いものをつかむとポケットにおしこんだ。てのひらにかくれるほどちいさな代物が、拳銃だったのかスタンガンだったのか、紀柾にみきわめるだけの余裕はなかった。
 イースト・セントラルでは北から南に通りが走っていて、それぞれアベニューAからJと名前がついている。これはそのまま治安のよさと比例するといわれている。つまりAがもっともマシで、つづいてB、C、D……というようになるわけだ。
 紀柾が車をとめてラティーシャをおろした通りは、血のように真っ赤なスプレーのらくがきの下、Gと読めた。こめかみの中でシンバルをうちならされたように頭痛がした。
「それじゃ、おやすみ」
 ドアを開けて通りにおりるあいだも、ラティーシャは決して紀柾の顔を見ようとはしなかった。ふだんなら気軽にこぼれでるサンクス、という礼の言葉もないまま、彼女は通りを渡って平屋の小さな家に入っていった。割れていない窓ガラスに、テープでXの形に補強がしてあった。
 け っきょくなにも声をかけられないまま、紀柾は車をバックさせてアベニューGをあとにした。

 

 

「……言っとくけど密入国なんかじゃないわよ、ラティーシャの家族は」
 受話器のむこうで、やっとおちついた小慧が答えた。午前1時すぎの電話に激怒した彼女をなだめるのに、紀柾は10分もついやしていた。
「彼女の長期滞在ビザを申請してるのは知ってるでしょ。許可がでるまでは、すでに入国ずみの家族もここにいられるのよ、仕事はできないけど」
「家族って、何人?」
「7人」
「あいつ一人で養ってるのか?!」
「ううん、弟がひとりジャマイカに残ってるはずよ。その子とふたりで」
「……うちに来る前は?」
「ナントカっていうレストランで働いてたけど、つぶれちゃったみたい。ジャマイカでも建築事務所でアルバイトしてたらしいから、それで私がつれてきたの。履歴書にウソの住所書きなさいって言ったのは私よ。だからラティーシャを怒らないで」
 天井がぐるぐる回りだしたような気がして、紀柾は思わず目をとじた。
「……いつ俺が怒ってるっつったよ?」
 ベッドに腰かけて続ける。
「ウソついてたことを言ってんじゃねえ。あいつの心配してんだよ。生活保護とかいろいろあるだろ、イースト・セントラルには。どうしてそういうのを受けないんだ?」
「生活保護の対象はキュカリ市民と、2年以上滞在している外国人だけなのよ」
「んじゃ国籍とればいいだろ」
「……あんたホントにわかってないわね。外国人が帰化するのにどれだけかかると思ってるの? 申請ができるようになるまで最低で4年、それも最短でよ。ほとんどのひとはもっとかかってるのよ」
「てっとり早くなんとかできる方法はないのかよ」
「そりゃあんたと結婚することでしょ」
「んああ?」
 くちびるを動かすより先に声が出た。
「……キュカリ市民と結婚すればいちばんはやく、しかももれなく国籍が取れるのよ」
 重いトーンの声を聞きながら、受話器のむこうで額をおさえている小慧の姿が目に浮かぶようだった。

 

 

 次の日からラティーシャは無断で仕事を休んだ。
 コンペの準備をしながら、めぼしい仕事をとりつけようと躍起になっていた紀柾の苛立ちは3日目してに最高潮に達し、ついに彼女の自宅までいってみることにした。電話をかけてみるというアイデアはすぐに却下した。彼女の家には電話がひかれていなかったからだ。
 ハイウェイをおりてイースト・セントラルに入ったとたん、その景色は見慣れないものになってゆく。日中に見る家々の壁は色あせて汚らしく、歩道のわきはよく見ると注射器らしきものが転がっていた。
 紀柾は木陰で涼んでいる住民のどろりとした目を見ながら、自分がここに生まれ落ちなかった理由を考えた。そしてどんなに考えても、ここで実際に暮らすことと、今自分が手にいれている社会的な立場のあいだには溝があると実感せずにはいられなかった。
 ――人間は生まれながらにして平等だなんて、だれが言ったんだろう。
 この状況を見ればそんな楽観的な言葉はでてこないはずだ。人間はみんな不平等だ。だから戦って真の平等を勝ちとろうとする。そうしない者だけが不平等なまま一生をすごす。
 紀柾はアベニューGでフォードを停めると厳重にロックして、数日前の夜中にラティーシャが入っていった家の前に立った。

 

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