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 午前0時に帰宅するとすぐに、久下哲笙くげ てっしょうは熱いシャワーを浴びた。
 首都高速道路を見下ろす瀟洒なマンションのペントハウスに、柔らかな明かりがともる。
 丹念に磨かれたフローリングの床に、テレビの青い映像が反射して無人のリビングルームを照らしていた。
 竹と籐を組みあわせた衝立の向こうには、4本の黒曜石の支柱にガラスをはめこんだテーブル。床に敷いてあるのは涼しげな日本製のイグサ。テレビの脇の、黒で統一されたぜいたくなオーディオ機器はほこりもかぶっていない。
 部屋の隅にあるしおれかかったシュロチクだけが、すぐに水分補給を忘れる、あまり居着きもしないこの部屋の住人を無言で抗議していた。
 まとわりつくような8月の湿度に耐えかねて、帰宅と同時にエアコンのスイッチを入れておいたが、快適とは程遠い室温だ。
 しかたなく素足のままでキッチンへゆき、180センチの身の丈とほとんど変わらない大きな冷蔵庫の扉をあける。
 よく冷えた缶ビールだけ片手で掴むと扉を閉めた。その場でタオルを首にかけたままプルトップを曲げ、最初のひとくちを含むと、もうのどの渇きを癒すことしか頭になくなる。
 12オンスの缶ビールを気のすむまで飲んだあとで、アルミの缶をカウンターの上に置いた。
 視線をあげると、窓ガラスを通してテラスの向こうのどろりとした熱い夜に、遠く都会の明かりが見えた。その中で、今夜もさまざまなドラマがくりひろげられているのだ。
 ドラマが他愛のないものならいい。けれど哲笙は、人間の心が決して明朗なものばかりでないことを知っている。
 つかの間の休息――。
 胸の底でつぶやいた時、機械的な電話のベルが鳴り響いた。左手でコードレスの受話器を掴む。
「はい、もしもし?――ああ、なんだ」
 言葉は途中で滑らかな英語にかわった。声に、いいところでほんのすこし気分を害された、といった色を含めたが相手に伝わるほどではない。
 聴きなれた声が受話器の奥から耳の奥をくすぐる。甘いメゾソプラノ。本来なら疲れをほぐしてくれる声だ。
 本来なら。
 考えながら、言葉はもう口をとびだしていた。
「仕事が長びいて、やっとさっき帰ってきた……うん、まあな。君のほど美味くはないけど、適当に食ってる」
 答えながらリビングルームへと足を進めてゆく。
「……わかってるよ、親父にはよく言ってあるから」
 ソファに腰かけながら、無意識のうちにトーンが硬くなる。
「これは俺と君の問題で、親父が口をはさむようなことじゃないよ」
 受話器から神経を逆なでするように響くのは、いつも自責の言葉だった。
 いったいいつまでこんなことを――続けなければならないのか。
 無表情にテレビの青い光を見つめながら、額の裏をそんな台詞がうず巻き、声はしだいに荒くなった。
「くどいな、いつもいつも、言いたくもないことを言わせてるのはどっちだと思ってるんだ」
 口に出してからしまったと思った。
 違う。考えているのはこんな言葉じゃない。
 けれど心の奥に巣食うもうひとりの自分が、彼女を傷つけるのを承知で言っている。
 傷つけて当然なのだと。おまえはもっと楽になる資格があると。
 受話器の向こうでぐっと押し黙る気配がする。先に謝ったのは彼だった。
「悪い、言いすぎたよ。すこし疲れてるんだ。またかけるから……おやすみ」
 もう幾度となく言った言葉。思い出しながら静かにスイッチを切る。ほとんどが言い訳に使われていた。
 利口なひとだったから、だいぶ前から気づいていたはずだ。最後のほうは言い合いばかりで、いかに効率よく相手を傷つけるかということしか頭になかった。
 言葉は人間の持つ最大の暴力。その力を最大限に利用して涙を流させるたび、人道をはずれていった。
 だから、ひとりになって解放されたという気持ちがぬぐえなかったのも事実である。
 楽になる資格って何だ? いったい俺は、自分を何だと思っているのか。
 傷つけられたから、嫌な思いをしたから、自分も同じことをしていいという理屈は赦せない。相手も同じ後味の悪い思いをするのだ。
 すべてとは言わない。せめて自分に関わる人たちだけは、自分のせいでそんな思いをさせたくない。
 考えていても気が滅入るばかりだった。
 やめた。過去は過去とわりきるのは得意なはずじゃなかったのか。
 いつもの堂々めぐりに早々と終止符をなげつけると、音を立ててソファに足を投げ出した。伏せたまぶたの裏に二度と戻らない過去がひらりひらりと翻る。
 北欧の血をひいている彼女の、ミディアムウエーブはきれいな栗色。
 アクアマリンを思わせる明るいブルーグレイの瞳。
 手も足も滑らかで、抱きよせると甘い沈丁花の香りがした。時々無性に恋しくなる香りだった。
 仰向けになってソファに身を沈め、天井をさまよう青い光をぼんやりと目で追う。
 ブラウン菅では夜中にはじまる流行のトークショーホストが、その毒舌で政治家を罵倒していた。観客の笑い声が響き、つられたようにホストも声をたてて笑った。
 こんなに騒がしいのに、世界にはまるで自分しか生きている人間がいないようだ。あとどれくらいの時間を過ごせば、過去は本物の過去になるんだろう。
「情けねえな」
 自分で自分を罵る声が聞こえる。
 哲笙は、そうしてひとりになったことを確かめた。



 午前6時20分。
「うっ、ひゃあー、こりゃひでえなー」
 現場に一歩ふみいったとたん、間のぬけた声が周りの緊張感を盛大にうち砕いてゆく。ぎょっとした表情で他の捜査官たちが振り返った。
 ぶしつけな視線には構いもせず、ばかに長い脚を見せびらかすように両膝のうすくなったエドウィンを交差させ、大きなからだで軽々と飛び歩いてゆく。
 その浅黒い肌と甘い顔立ちは、東洋的でありながら、生粋のキュカリ人とはいいがたい。もっとどこか北の国から来た人間をも想像させるし、もしかしたら東洋人でないのではとも思わせる。
 要するに所属する民族が思いつかないのだ。
 ジャケットがわりにはおられたシャンブレーのワークシャツは、だらしなくボタンが全部はずれていて、下に着ているTシャツがのぞいている。
 そんな格好でも不快感を与えないのは、彼がファッションモデルを彷彿とさせる垢抜けた容貌だからだろう。
 大多数の女の子から、一生に一度ぐらいはこんなハンサムとデートしてみたい、と思われそうなタイプだ。
「ではでは、さっそく現場調査といきますか」
 喜々として薄いラテックスの手袋をはめる。
 すぐ横でぢしゃ、ぢしゃ、とフィルムを巻き上げる音がして、あたりは白いフラッシュの光でなめまわされてゆく。
 フラッシュは、ベージュのじゅうたんを赤黒く染めた血の海の上をまたたき、うつぶせに倒れた一人の男のうえをまたたき、次々にその凄惨な光景を記録していった。
 殺人現場、という場所にこれほど不似合いなものもあるまい、というくらい明るい鼻歌が響き渡り、彼は血溜まりを踏みつけないようにやや爪先立って歩きだす。
 リビングルームには頭蓋骨を割られた死体が一体。植えこみをはさんで道路に面した中庭ではもう一体、口の中の様子から、これは毒を服用して自殺したらしい。
 彼はプラスティックの耳かきのような棒をとりだすと、死体の口をあけて粘液をすこしだけすくいとり、小さな容器に入れる。何百回とくりかえした動作なのだろうか、その手ぎわは鮮やかだった。
「清劉さん、こっちもおねがいします」
「オッケー、今行きます」
 清劉紗宗しんりゅう さしゅうの職業はインベスティゲーターと言って、いわゆる現場捜査官である。
 あくまでも殺人など事件が起こった『現場の』捜査をする人間で、犯人を追う刑事とは異なる。
 インベスティゲーターには、もう何年も前から私服着用が認められている。西の国々に感化されて、たくさんの物がキュカリ国にも流れこんできたが、この私服通勤だけはいまだに人々の間で賛否両論だった。
 営業専門のビジネスマンならともかく、地方警察の現場捜査員なんて、堅苦しいスーツは動きにくいことこの上ない。
 着飾っても見てくれる人など誰もいないし、スーツ一着というわけにもいかないから当然金もかかる。
それならいっそ私服だっていいじゃないか、ということでインベスティゲーターには私服許可がおりたのだ。



 午後3時45分。
 アイスティーの入ったグラスは、もうかれこれ30分近く、デスクの上で震えたように揺れている。時々中身がはねてあたりに水滴が飛んでいた。
 それでも膝の貧乏ゆすりは止まる気配がない。
 うるさい。
 大音響でステレオを鳴らして、家中が震動するほどの大声で歌を歌っているのは、向かいの住人だ。
「……いったい、あの女に謙虚さってものはないのかよ」
 いらいらしたように、両手が短い黒髪をかきむしる。
 だいぶ使い込まれた製図用のデスクと、3つのペン立てにぎっしり詰まったカラーマーカー。デスクの隣には先端から青写真をはみださせた筒が、ワイヤー製のスタンドに何本も収められている。
 そこらじゅうに散らかっている、半透明の方眼紙やトレシングペーパーやボード。天井まである木製の本棚は、そのほとんどが建築関係の本や写真集で埋められている。壁には愛してやまないフランク・ロイド・ライトの巨大な鉛筆画。
 久下紀柾くげ きまさは大手会社の建設課に籍を置く、注目されつつある新進の若手建築家である。レモンイエローのタンクトップにカーキ色のショートパンツ。縁なしメガネが、彼にすこし神経質な印象を与えている。
 最近、改装されることになったコミュニティセンターのデザインを任されたばかりで、はりきっていた。
「だあーッ、もう我慢できねえ!」
 襲いくる頭痛に頭をかかえて、そう怒鳴ると紀柾はとうとう椅子を蹴倒して立ちあがった。
 このままでは仕事どころか、難聴になって病院行きが関の山だ。
 建築物の資料本だのデザイン画だのがところ狭しとちらかされた部屋を、ほっそりした体でずかずかと横切ると、ドアをあけて廊下に飛びだし、向かいの住人のドアを遠慮なくすさまじい力でたたきつける。
「波葉、てめえにはジョーシキってもんがないのか!! そのやたらと音のデカいステレオ今すぐとめろ! 鼓膜がぶち破れるぞ!! おい、聞こえてんのかよ?!」
 鼓膜より先に、血管の方がぶち切れるのではと思えるほど絶叫すると、ほんの一呼吸間をおいて、それまで大地を揺るがす大音響を放っていたステレオがピタリと押し黙った。
「やかましいわね! こっちは次の公演の主役がかかってんのよ、ごちゃごちゃ言ってる暇があったらとっとと耳栓でも買いに行けばいいでしょ!」
 彼の絶叫よりはるかに大きな怒号だった。
 声の主、シャンカール・波葉はようはアマチュア劇団の女優である。
 すこし前に『砂漠の果てに』という定期公演を終えたばかりだ。歌姫役を演じた彼女は地方紙に絶賛され、年末に発表予定の劇団を対象としたコンクールにノミネートされていた。
 その波葉が怒鳴ると、窓や床が振動し、胸は震え、ついにはアパートの向かいの家から驚愕に顔をゆがめた人々が飛びだしてくるほどだ。
 紀柾は蚊が唸っているような耳の痛みに顔をしかめて、ブツブツ文句を言いながら部屋から離れた。
「ったくよー、あれじゃあオトコのひとりもできねえわけだよなあ、傲慢なオンナって最ッ低だな。おまけにあの声じゃあ何言われっか判ったもんじゃ……」
「よけいなお世話だってのよ、蹴飛ばされて鼓膜に三角定規でもぶち込まれたいの?!」
 地獄耳、という喉まで出かかった言葉を飲んで、紀柾はあわてて自分の部屋に逃げこむ。
 その背後で、再びステレオのボリュームが目一杯上がった。

 

 午後6時29分。
 スーパーマーケットを出ると、夕日はすでに陸のきわに沈んであたりは薄暗くなっていた。
 彼女は陽気なリズムで口笛を吹きながら、片手にひとつずつ紙袋をかかえてパーキングまで歩いていた。
 今週は食事当番なので、自分の他にあと二人分夕食を作らなければならない。ボリュームの多さでは定評があるが、味のほうは腐ったものよりはマシ、という程度である。
 それでも本当に腐っているわけじゃないから死ぬことはあるまい、というのが彼女の意見だった。それを聞いて同居人は二人とも複雑そうな顔をした。
 車にたどりつくとボンネットの上に紙袋を置いて、いいぐあいに色褪せたジーンズのポケットをまさぐった。
 その時だった。
 唐突に、口笛のリズムが消えた。同時に肩甲骨のしたに何か固い物を突きつけられてふりむこうとする。
「動くな! 言うとおりにしねえと心臓ぶち抜くぞ」
 無言で動きを止め、背中に神経を集中する。
 感触はたしかに拳銃のようだ。最近とくに騒がれだした、密輸入の銃がこんなに身近なところまで出回ってきている。
 心の中で舌打ちした。
「ドアをあけて俺たちを乗せるんだ、怪しまれないように普通にしてろ」
 俺たち? 相手は複数か。
 冷静に頭をめぐらせながら、キイをとりだしてゆっくりとドアに手をかけた。ほんのすこし体をななめにして目の端で背後を見やる。
 二人だ。やるなら今しかない。大丈夫、できる。
 ドアをあけるふりをして右の拳を固めた。体を右に傾けて、ふりむきざまに左手で男の手首を掴む。
 銃筒を思いきり自分の体から遠ざけたまま、同時に右の拳を繰りだす。自分の命がかかっているのだ。手加減する必要は微塵もない。
 ぐわし、と変な音がして、男は拳銃を持ったままきれいに弧を描いて昏倒した。顔の中央から血が吹きだしている。 それを見てもう一人が顔色を変えた。
「こ、この野郎……!」
 ズボンのポケットからナイフを出して、男は顔を赤くしたまま彼女を睨んだ。
「女のあたしに向かってこのヤロウとは失礼な」
「うるせえ、女がこんなことするかっ」
 言いながら視線で倒れた男をさす。鼻の骨を折って、それが脳髄にまでつきさされば致命傷になる。
「女だろうと男だろうと、自分の身を護るためなら当然なんだよ」
 一蹴して滑らかに身を沈める。
 両足を肩幅にひらき、胸の前で拳を握ったそれは戦闘的なファイテイングポーズだ。瞳だけでまっすぐに相手を威嚇する。
 落ちつきなくナイフをふりまわす男の表情に、焦りの色が浮かびだした。
「ちくしょう!」
「まあ何て雄々しげなこと。でもそんなに簡単にやられる藤女さんじゃないんでね」 
 胸を狙ってとび込んできた男を入り身でかわし、彼女の声は完全に状況を愉しんでいる。
 ナイフを持っていた右手首を左手でひっぱると、いとも簡単にバランスを崩して前のめりになり、肘はその時点で鮮やかに男の顔面を直撃していた。
「あああうう……!」
 両手で顔をおおいながら、子供のように泣きじゃくるその姿を見て肩をすくめる。
「ほんとに泣き声だけは大きいったら」
 なれた手つきでその襟首を掴み、膝の裏を蹴って彼をひざまづかせた。そうしながら彼女の片手は、車のドアをあけて携帯電話の短縮番号を押している。
「いてえよお、鼻が……」
「鼻血ぐらいで死にゃしないって。あ、血はちゃんとはきだしな、飲むとひどい目みるぞ」
 まるで百戦錬磨のつわもの、といった口ぶりに思わずごくりと喉をならし、男はとたんに鼻血も飲んでむせかえる。
 横目で見ながらわずかに眉をしかめた時、軽い音がして呼び出し音がとぎれた。
「もしもし、紗宗? あたし、藤女だけど。今ね、市役所前のスーパーの駐車場。恐喝未遂犯捕まえたから誰かよこして……え? 来てくれるって、あんたも? じゃ、待ってる」
 粗大ゴミでも扱うかのようにそうはきすてる仲乃藤女なかの ふじめは、武道家の父を持つスポーツインストラクターである。
 173センチの長身に恵まれ、ほとんどのスポーツを人並以上にこなし、とくに護身術に秀でているので、並大抵の男では太刀打ちできないとよく言われる。
 そんな彼女を恐喝しようとしたのが、男たちの大きな間違いだったのだ。
 10分としないうちに、一台の白いエクリプスが他のポリスカーと共に駐車場に入ってくる。運転席のドアがひらいてあらわれた大柄な男に目をむけ、藤女は片手を上げた。


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