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10

 

 紗宗はひとり、あてがわれた客間にいた。短い会話を終えてスマートフォンの通話を切ると、そのままの姿勢で思いつめた顔になる。
 どういうことだ?
 落ちついて考えようとするほど、頭は混乱してくる。関わっているものが多すぎるような気がした。まるで複雑なパズルのように、全体を見ようとしてもその輪郭さえ掴めない。
 初めから順序立てて考えてみるんだ。
 まず、久下さんがやってきた日に紀柾たちのアパートが襲われた……。すぐに市警は捜査班を結集し、証拠品はすべて押収、保存した。
 本来ならこの手の捜査に加わるはずの紗宗も、にわかに実家へ帰ることになった紀柾について、クウリュン市警と頻繁にコンタクトをとるよう命じられた。言いかえればターゲットになった人物のお守りをしながら情報を流せ、ということだ。
 容疑のかけられた市警察部長補佐は、今日家族とともに遺体となって発見された。
 同じ頃、空港にむかう途中の通産大臣が襲撃された。運転手と秘書の麻名城は即死。大臣自身も撃たれて今まだ集中治療室にいる。
 彼の命が狙われたということは、アパートを狙ってきた連中は紀柾の生命を奪おうとしていたのだと確信が持てる。
 狙撃者は357口径の拳銃を使用。目撃者はなし。至近距離から撃たれているため、狙撃者が顔見知りか、もしくは近づいてもおかしくない状況にいたと推定される。
 そこまで考えてソファの背に腰をおろした。
 ……なのに今日電話してみたら、市警の証拠品はすでに管轄外に持ち出されてるって? 地方警察の管轄外――それではまるで、嫌がらせではないか。俺たちの出る幕じゃない、ってことか。
 これ以上足をつっこむと、おまえの首にも関わるとおどかされて、紗宗はぐっと押し黙った。
 何が邪魔をしてる? 大臣の息子が襲撃されたぐらいで、地方警察が締めだされたりするもんか。そんなことがあるとすれば、それはもっと……。 もっと別の何か、上から押さえつけてむりやり真実をねじ曲げるような。
 もっと巨大な、何か――。
 そこで紗宗はある人物を思いだし、再び通話ボタンをタップした。
「もしもし、カムナギ市警察ですか? クウリュン市警の清劉という者ですが、鑑識課のアーロン・リーをお願いします」
 次に電話口にひとが立つまで、紗宗はだいぶ長いこと待たされた。通話口の向こうではざわざわと、絶えずひとの気配がしているのに。
 他の電話の鳴る音。がたがたとキャビネットを探る音。誰かを呼ぶ声。それに応える声。それらの音が突然プツリととぎれて、耳の痛くなるような静寂がおそってくる。鑑識課へ回されたのだろう。
「――Hello?」
 無愛想な低い声が聞こえて、思わず紗宗は目を細めた。
《おい、そう邪険にするなよ。俺だ、俺》
 英語に対して、返されたのはなめらかな広東語――紗宗にとってはクカ語、英語に続く第3言語――だった。
《俺だって俺だ。あれ? この声……紗宗か?》
《そうだ。久しぶりだなあ、元気か》
 あまり長いこと使っていなかったので多少心配ではあったが、錆びつきもせず飛びだすなじみの深い異国の言葉に、紗宗は心からの笑顔になる。
 アーロン・リーは紗宗の高校時代からの友人だった。クカ語を話せない香港移民の彼とは、英語より広東語を使うのが常だ。
 香港出身の母・マリアンと暮らしていた頃、彼女との会話はすべて広東語だった。父の友人には広東語を使う者も多いので話相手に不自由したことはなかった。
《俺は相変わらずさ、仕事も忙しいけどプライベートでもイベントが目白押しだ……ああそうだ、おまえには先に言っておくよ》
《何だよ、おまえまさかあの美人の……》
《おっ、カンの鋭いところは変わってないな。実はそのまさかなんだ。来年結婚することになった》
《かーッ、幸せなヤツ!》
 紗宗は思わず受話器を耳から離し、まじまじと見つめた。
 アーロンには2年ほど前からつきあっている恋人がいて、紗宗は以前から彼女のことを『目を瞠るような美女』と形容していた。
《いいか、彼女は俺が知る美人の中で、唯一俺になびかなかった女だぞ》
《だけど俺とは結婚するんだ、男を見る目があるだろう?》
《いつまでものろけてろ!……とにかくこれだけは言っておく。恭喜、心から嬉しいよ》
《多謝。おまえはどうなんだよ? いつも言ってた幼なじみの――》
 はっと胸を衝かれた気がした。
 アーロンはこの世でたったひとり、紗宗が本音で恋心を打ち明けた人物だった。
《近すぎる存在が邪魔をして、横から出てきた鳶に油揚げをさらわれそうになってる、ってとこか》
 決してたとえ話などではなかった。アーロンがからかうように低く口笛を吹く。
《珍しいな、おまえが出し抜かれるなんて》
《自慢じゃないが、先を越されるならこれが初めてだ》
 自然と口調が沈んだものになる。紗宗は、気をとり直そうとするかのようにスマートフォンを持ちかえた。
《……今日電話したのは、おまえにききたいことがあるからなんだ》
 長い前置きのあと、やっと本題に入った彼はあらたまった声でそう言った。

 

 

「……つまんねえなああ……」
 あくびまじりにぼやいて、紀柾は長椅子に寝そべったまま雑誌から顔を上げた。その雑誌も、もうすみからすみまで3度は読み返したものだ。
 テレビではアナウンサーが、深刻な面持ちで貿易均衡を訴えるニュースを伝えていた。
 くるりと長椅子のうえで転がって顎をささえながら両肘をつくと、誰ともなく彼はたずねる。
「なあ、午後から街に行かねえか? 冷たいものぐらいおごるぜ」
「……でもまた『みんな』と一緒でしょ? どうしようかなあ」
 パールホワイトのネイルカラーをつまさきに塗りながら、波葉が気のない返事をよこす。
 彼女が煙たがっている理由は護衛にある。買い物でも何でも、久下の敷地から外にでる時は護衛の者をつけなければならないのだ。
 すさまじい集中力であっちこっち見て歩く波葉はボディガードからペースを落とせと文句がでるし、神経質で誰かに見られてると気が散る紀柾はいごこちが悪いとこれも不満顔だった。
「俺が行く」
 あっさりと言い放ったのは、ポーチでデッキチェアに座っていた哲笙だった。
「えっ、何だよ寝てたんじゃないのかよ」
 あわてて彼をふりかえった紀柾の手から、ばさりと音をたてて雑誌がすべり落ちた。
「考え事があっただけだ」
「……考え事しながら聞き耳たてるなんて趣味疑うぞ」
「行きたくないなら構わないけどな。俺がつけば警護の者を減らしてもいいんだぞ」
 その手があったかと気づいて波葉は小声で紀柾を罵倒した。
「とにかく、俺は午後になったら出るからな」
 それだけ言って彼は部屋から出て行った。
 入れ違いにキッチンから藤女がやってくる。シャワーを浴びたあとらしく肩からタオルをかけて、片手には缶入りのスポーツドリンクが収まっていた。
「なんだ、どこか行くのか?」
 タオルでしずくを吸いとりながら、彼女は訊いてきた。
「うん、紀柾がおいしいものおごってくれるって。藤女も行くでしょ?」
「もっちろん。たいくつしてたとこだからちょうどいい」
「おい、俺は冷たいものって言ったんだぞ。金かかるものは哲笙に頼めよ」
「……あいつがひとの分まで金払うほど寛大なヤツかよ」 
 清潔なタオルでごしごしと頭をこすりながら、藤女はリビングの大鏡に舌をだしてみせる。そこへ入ってきた紗宗の長身が映って軽く片手を上げた。
「あ、おまえもくるだろ、紗宗? 3日も家に閉じこもりっきりってのも、いいかげん飽き飽きするよなあ」
「ごめん、俺パス。カムナギ市警からファクス待ってんだ。おまえたちだけで行ってこいよ」
「ええーッ、こんなとこまで来て仕事かよ?!」
 紀柾は宇宙人でも見るような目つきで彼を見上げた。まあね、と首をかきながら紗宗は藤女の手からスポーツドリンクをとりあげてひとくちすすり、もったいつけて言う。
「色男のエスコートがなくてガッカリなのはわかるけど、気持ちはいつも一緒だから。愛してるよ、藤女ちゃん」
「おまえに好かれても嬉しくも何ともない」
「ふ、藤女ちゃーん……」
 冷ややかに身をひるがえす藤女の両肩を、紗宗が背後から抱きしめる。
「……紗宗ってさ、たまにうっとうしいよな」
「あのいかにもお涙ちょうだいなところがでしょ? 幼なじみってだけで藤女も苦労しょってるわよね」
 聞こえよがしに言って紀柾と波葉はうなずきあう。やかましい、と一喝して紗宗は舌をだした。

 

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 その日は夕方から雲行きが暗転した。
 哲笙の車で街にくり出した藤女たちが雨に降られなければいいと思いつつ、紗宗はバルコニーで星も見えない暗い夜空を見あげ、煙草をとりだす。
 喫煙するのは心が不安定な証拠。それは判っている。だから彼女の前では喫わない。気持ちが揺らいだままの自分を見せたくないからだ。
 くだらないこだわり。いちばん近くにその身をおきながら、男として意識されないのは幼なじみであるがゆえだった、彼女はなじみの深いものよりも、つねに真新しいものをおいかける女だ。だから、とつぜんやってきて鷹揚な態度でその場を手ぎわよくとりしきるかと思えば、今度は刃物のように鋭いもの言いで感情をあらわにする、あの男に興味をいだいても不思議はない。
 彼女はあいつに惹かれている。
 冷淡な横顔と掴みどころのない性格が、内にある狩猟者を駆りたてるのだ。目標が定まればまっすぐに進んでゆく潔いほどの情熱が、彼の心までも染めあげないとどうして言いきれるものか。
 そう考えると紗宗は戦慄すら覚えた。あんな男にとられるくらいなら、何でさっさと胸の内を告げてしまわないのか。
どっちが本当に耐えられないことなんだろう。きっぱりふられるのと、このままどうにもならない気持ちを抱えてゆくのと。
 思考はそこでとぎれた。
 踊り場のバルコニーにあらわれたひとを見て、反射的に笑顔になる。
 女性には不機嫌な顔すら見せないくせが、骨の髄まで染みこんでいる動作だ。紗宗が真の遊び人と呼ばれるゆえんはここにある。
 彼の泊まっている客間の隣、半円形のバルコニーに出てきたモリノは、煙草の煙をくゆらせている紗宗を見て、あらと小さくつぶやいた。
「あなたも星見? みんなとでかけたのかと思ってたわ」
 そう言う彼女の顔には屈託がない。愛らしい濃紺色の小花模様のシャツドレスに、耳には同じ色の貴石が揺れている。
「仕事に追いかけられてしまいまして、さっきまで電話を待ってたんですよ。それに雨も降りそうだし」
 もうとっくに日も暮れて、闇にそまった南国の空の一角を閃光がきりさいてゆく。
「ほんと、今朝はあんなにいい天気だったのに……」
「あの、どうです、俺とお茶でも?」
 目を細めて、彼は煙草を持ったままの指先で部屋の中を指した。
 モリノはしばらく考え、やがてローヒールの足を進ませるとバルコニーから出た。
 灰皿で火をもみ消しているうちに軽いノックの音がして、紗宗はドアをあけると恭しい仕草で訪問者を招き入れる。
 ドアを閉め、壁にとりつけられた長いカウンターにティーポットを運んだ。彼女に背を向けてアールグレイをとりだし、なれた手つきでお湯を注ぎだす。
 ふと見あげた視線の先で壁にかかったラファエロの天使が、なんと因果なとりあわせよ、と笑っているようだ。
「……モリノさん、『プレシャス』でいちばんのやり手と聞きましたが」
 それとなく訊ねながら、紗宗は額縁の天使に軽い嘲笑をかえす。
 モリノは椅子に座ったまま、ユーズドウォッシュのリーバイスにコットンのシャツという格好の、紗宗の後ろ姿を見ながら答えた。
「やり手?……そんなことないわ、仕事をことわれなくて押しつけられてるだけ」
「でもきちんとこなせる人はそういないですよ。やはり有能な証拠だ」
 ね? と言いながらモリノにティーカップが差しだされる。それをうけとって、彼女は戸惑うように視線を落とした。
「仕事は、やるだけやれば評価されるんだもの。だから私には気が楽だわ」
「気が楽でないことも、あるような言いかたですね」
 ノーシュガーのアールグレイをひとくち含み、彼女の右どなりの椅子に腰かけて足を組む。顔では何も判らないようなふりをして、彼はもちろんそれが何をさしているのかとっくに手ごたえを掴んでいた。
「まあね、離婚ひとつ経験したあとは何でも楽に思えるわ」
「そんな……離婚は人生の墓場じゃありませんよ。俺の父親も離婚経験者だけど、今は再婚してうまくやってる。モリノさんほど若ければ、なおさらやり直せる可能性は高くなるはずだ」
「やり直すだなんて……そんな気力もうどこにも残ってないわ。ここまで女々しいヤツだったとは、われながら驚いているところだもの」
 おどけたような口調とは逆に、彼女の顔には余裕が見えなかった。アクアマリンにも似た明るい色の瞳が自信なげに床をさまよっている。
「久下さんと、復縁するつもりはないんですか」
「……考えるだけむだなことよ、あのひとが父親にさえ耳を貸さないんだもの」
 うつむく彼女の横顔にあきらめの色が浮かんだ。
「哲笙はね、ああ見えても久下大臣には頭が上がらないのよ。自分の手で人生を切り開いているように見えるけれど、実は大臣の与えたいくつかの選択肢からピックアップしてるに過ぎないわ。大学もクリムゾンという肩書も、私との結婚だって……父親の目にかなった結婚相手の中から私を抜きだしただけ――」
「それでもそこにはひとつの意志が働いていると、俺は思いますが? 大事なのは、何人かの候補者の中から彼があなたを選んだということでしょう。大臣からあなたを押しつけられてしぶしぶ、と言うのならともかく、久下さんは自分の意志であなたを選びとったんだから」
「あなた……見かけによらず頭の良さそうなことを言うのね」
「お褒めにあずかって光栄です、と言うべきなのかな」
 なれた様子でそう切り返してくる紗宗に、モリノの心情はいくらか軽くなった。
 このひとは会話の愉しみ方を心得ている、と思って彼女は柔和な笑顔になる。
 たくさんの人たちと会っていると、言葉の運びが秀逸なひとは驚くほど少ないことに気がつく。普段から気の利いた会話になれているひとは、きりかえす言葉にも余裕がある。紗宗はまさにそういうタイプだった。
 結婚する前も結婚後も、優麗なモリノに興味をしめして近づいてくる男はそれこそ掃いて捨てるほどいた。けれどしゃれた会話をたのしむ余裕もなく、彼らは哲笙の存在を認識するなり例外なく立ち去っていった。
 哲笙は護衛のプロであり、のちのトラブルシューターである。モリノにちょっかいを出せば、どんな目に合うかは火を見るより明らかだ。
 もちろん彼女は、哲笙がそんな分別のないことをする男だとは思ってもいない。
 もてあそばれたのならともかく、彼にとって妻は人生のパートナーであり、独立した一人の人間である。哲笙はべったりと甘えられるより、自分のことぐらいひとりでなんとかできる颯爽とした女のほうが好きなのだ。
 そんなふうに自分と他人の間に一線を画して、いつまでたっても身の内に入れてくれないと気づいたのは、いつのことだったろうか……。

――君は、自分の関心を他へ向けることはできないのか。
 それは問いかけではなく訴えだった。
 モリノの関心事は、いつでも世の中で良しとされている夫婦像。完璧でありたい妻は仕事につき、家事もこなす。そんな彼女にとって必要なのは完璧な夫。誠意があるのなら私のことも理解しようと努めてくれるはず。
 そう言ったモリノに対して、哲笙は訊き返した。
――誠意って何だ? 君と俺とでは誠意の定義が違う。夫婦っていうのはどちらか一方にひっぱられるものじゃない、二人の個人がお互いを尊重しながら暮らしてゆくものじゃないのか。
 違う。そんな理屈じみたことじゃなくて、私はもっとあなたを感じたいだけ。一緒にいるよと。俺はここに、君といるよ、と。
 夫婦はどんな時でも一体であるべきというモリノと、夫と妻は互いに一個の人間として尊重されるべきという哲笙。
――俺は君の考えを否定するつもりなんかない。認めることもできる。だけど同意はできない。
――あなたは、冷たいわ。

 そうつぶやいた時の、まるで心の内側をえぐるような彼のまなざしを思い出してモリノは両手で自分を抱えた。
「ねえ、あなたになら言ってもいいかしら?」
「……何なりと」
「私、時々わからなくなるのよ。結婚の意義って何なのかなって。このひととならやってゆけると思って哲笙と結婚したのに、気持ちをぶつけるたびに遠ざかってゆく。言葉は堂々めぐりのまま、彼はどんどん先へ行って見えなくなって、おいていかれた私のことなどどうでもいいみたい……そう言うと、あのひとは決まって私をペシミストだと呼んだわ。目に見えないものに翻弄されて、悪いほうへと考える癖を直さないと私のためにもよくないと」
 そこでモリノは声をつまらせた。
「一緒にいると、俺はどんどんいやなやつになってくばかりだって……そこまで言われたら、怖くてもう何もできなくなるじゃない? 大切にしていた思い出を抱えてゆきたいだけなのに、どうしてこんなに辛い思いをしなければならないのか判らないの……そう考えると、結婚という場において確信なんてものは何ひとつ存在しなくなってしまう」
 ふせたまつげの間から涙があふれた。
「近づこう近づこうとするあまり、逆に自分のほうが息もつまりそうになる。だから私は……私は自分の身をまもるのがせいいっぱいで、彼を思いやることすらできない――」
 紗宗の端正な横顔を銀の稲光がなぞり、同時に雨が窓をたたきはじめた。透明なしずくは何本ものこよりのように連なってガラス窓をなめてゆく。
 彼は静かに自分のティーカップを置いて、やがて片手を差しのべた。
「なぜ、そんなに神経をはりつめるんです? あまり近づきすぎると見えるはずのものも見えなくなってしまう。ささえが必要なら、いくらでも手を貸す者がいるのに」
 モリノは、言われてそのてのひらに自分の手を重ねた。わずかにひんやりとして、大きな手がゆっくりとモリノの手を包みこむ。
「あなたは辛い思いをしたはずです」
 その言葉を聞いて、せき止めていたはずの小さな嗚咽がモリノの口をついてでた。紗宗の左腕が、彼女の肩を優しくなでる。
「……もう充分に苦しんだんだから、自分ばかり責めるのはやめて解放してあげるべきではないですか」
 どんなにか夢見たことだろう。
 哲笙の口からこんな台詞がこぼれることを。
 あのひとのひとことで、私は簡単に救われるのに。
 けれどもそれが応急処置でしかあり得ないことは、彼女自身がいちばんよく判っていた。
 どんなにあがいたところで、別れた夫を振りむかせるのはもう無理なのだ。冷然とした深い色の彼の瞳を見ているだけで、心臓が破れてしまいそうだった。
 俺にしてやれることはもうないよと、諭すようなまなざしには愛情ではなくまぎれもない同情しか映っていない。
 俺たちはとっくにだめになってるじゃないか――。哲笙のそんな言葉を心の中で反芻しながら、優しく背中をなでられてモリノは涙をぬぐう。
「……ごめんなさい……泣いたりして、見苦しいわね」
「あなたの立場からしてみれば無理もない」
 そう言って紗宗は瞳をのぞきこんでくる。
 フォレストグリーンのシャツの胸にほとんど抱きかかえられているのに気がついて、モリノはあわてたように目をそらすと立ちあがった。
「紅茶、冷めちゃったわね。淹れかえるわ」
 ――その時、モリノの胸をよぎったのは不思議な感情だった。
 紗宗にふれられても不快感すら感じなかった。むしろかすかに頬が火照って動悸がする。
 何の不安も与えず、自分にここまで近よれる男をモリノは知らなかった。ひとなつこい笑顔のせいなのだろうか、危うさがまるでない。

 

 

 へえ、あれだけでまごつくあたり、見込みはあるわけだ。もう少しガードが固そうに見えたが、哲笙に邪険にされたのがよほどこたえてるな、と頭で考えて紗宗は思わずほくそ笑む。
 背を向けてアールグレイを淹れるモリノに足音もなく近寄りながら、紗宗は冷静な哲笙の横顔を思い浮かべていた。凛然とした者ほど、その勇ましさが崩れて感情をあらわにしたところを見たくなる。
 あの男が、地団駄を踏んで悔しがるさまも見てみたくなった――それだけのことさ。
 紗宗はその瞬間、自分の中にある薄暗い部分に、しっかりと足を踏み入れたことを自覚した。
「紅茶だけじゃ物足りないな」
 声色がついさっきとはだいぶ変わっていた。
 雨足の強くなった風がガラス窓をたたき、雷鳴がとどろいた。彼女がそのままの姿勢で凍りついたのは、耳をつんざくようなその音に怯えたからではなかった。
 両手をカウンターのへりにのせて、紗宗は後ろから胸にすっぽりとモリノのワンピースを包みこむ。
 同時に男物のコロンが閃くように彼女の鼻孔をくすぐった。柑橘系を好んで使っていた哲笙とは違う、甘く刺激的な香りだった。
「……私を、どうするつもり?」
 たずねる彼女の声はうわずっていた。
 紗宗はそれには答えずに、栗色の柔らかい髪に鼻先をうずめる。
 モリノは息を吸い込んだ。そうでもしないと、自分を見失いそうで立っているのもままならない。
「こっちを向いて――」
 切なげにささやかれるたびに鼓動が激しくなる。モリノはゆっくりとティーポットを置いて、振り向いた。もう二人の間に距離はない。
「俺のことなんか……足がかりにすればいいんです」
 かすれた声で言いながら、片手が頬をすべり首筋にふれ、そのまま鎖骨へとおりてゆく。その動きは優しく、彼女は哲笙の愛撫を思いだしていた。
 くちびるを重ねた瞬間、軽く電流にふれたような衝撃がモリノの身体を駆けぬける。その時点で彼女は紗宗のものになったも同然だった。
 すべてが暗い海の底で行われているように、時間の感覚が麻痺し始めた。モリノは広い肩に両腕を回し、ゆっくり目を閉じるとその身をあずける。
 長い指が陶器のようになめらかな胸をさぐり始め、彼女は閉じた瞼の裏で別れた夫を思い浮かべた――。

 

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