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 美術館の特別展示会を見に行った紀柾と波葉に護衛の者をひとりつけて、哲笙と藤女は館内のしゃれたカフェに入った。
 沈黙に押しつぶされそうなほど森閑とした美術館で時間を過ごすくらいなら、アイスコーヒーでもあおっているほうがよっぽどましだ。
 あいかわらず仏頂面をしている哲笙もそうらしく、二人は大きなガラスがはめこまれた窓ぎわのテーブルに足を歩めた。
 空はどんよりと重苦しく曇り、月も星もでていない。かわりに風が強くなり始めていた。
「……あれ? おい、久下じゃないか」
 たった今、店を出ようとしていた誰かが振りかえってそう声をかけてくる。哲笙は後方に目を向けて、視界にとびこんできたその人物を確かめると笑顔になった。
「――霞月か? 久しぶりだな、こんなところで何してるんだ」
「何してるんだじゃねえだろうが、おまえこそどうしたんだ」
 言って二人は腕をたたきあう。その口ぶりから、男はどうやら哲笙の親しい友人らしかった。
 横から藤女も男を見やる。
 身長は哲笙とほぼ同じ。切れ長の涼しげな黒い瞳。肌はさほど灼けていない。濃紺のスーツを、ジャッケットだけ脱いで片手に抱えている。左の腰にホルスターに入った拳銃が見えた。
「ストライカーズに入ったんだろう? どうだ、むこうは」
「まあまあってとこか、トラブルシューターをやってるんだ。今は休暇中だけどな」
「……聞いたよ、通産大臣のこと。それで帰って来てるのか、大変だな」
 言いながら彼は沈んだ表情になった。
 遠雷のとどろく音がした。窓の外では大型バスが一台、雨雲から逃げるように大通りを走り抜けてゆく。
 それから彼はふと藤女に視線を移す。
「俺、邪魔したかな? これから局に帰るところなんだけど」
「ああ、紹介するよ。こいつは比嘉田霞月、俺と同期でクリムゾンに入った元同僚だ。彼女は仲乃藤女、クウリュンに住んでる弟の友人なんだ」
「よろしく」
 藤女は、右手を差しだしながら霞月の顔を見た。この国では普通男女間で握手を交わすことはまずない。しかし例外として、女性から握手を求められた場合、男性はそれを拒むことはできない。
 霞月は瞳をしならせて彼女の手をとった。骨張ったごつごつした手だった。指先はひんやりしているのに、手は湿り気を帯びていた。
 そこで今にも大雨が降りだしそうな暗い空を見あげ、霞月は腕時計をさした。
「もっと話したいけど、時間がないんだ。また近いうちに連絡しろよ、酒ならつきあうぜ」
「いいね、高遠さんに会ったらよろしく伝えてくれ」
 片手をあげて哲笙と藤女に応え、とつぜんあらわれた友人は喫茶室から出ていった。いくつもの銀の糸がガラス窓をたたきだしたのはそれからすぐのことだった。
「ああ、とうとう降ってきたなあ……」
 横なぐりの雨を窓ごしに見ながら藤女がぽつりと言った。
 大つぶの雨に加えて、吹きとばされそうな大風である。歩道の脇に植えられたヤシの葉が悲痛なほど揺れかしいでいた。
 それを見ると、通りのむこうにある駐車場にすら走りだすのにためらわれる。道路をはさんだ反対側の瀟洒なレストランの入り口は、足止めを食ったひとたちでみるみる一杯になった。
「ここにいることはあいつらも知ってるんだから、ゆっくりしようぜ」
 さっさとカプチーノを頼んで哲笙は足を組んだ。同時に左手が伸びてテーブルの上の英字新聞を掴む。おまえと話すことなどないと言わんばかりのその態度に、むっとした表情を作って藤女は新聞を取りあげた。
「あのね、そういう態度でいいわけ?」
「何が?」
「だから、目の前に人がいて、二人きりなのにサッサと新聞なんか読むかって言ってんだよ。態度が横柄」
「……新聞に目を通しながらでも、話ぐらいできるぞ」
 平然とした面持ちで、それがどうしたと哲笙は藤女を見返す。
「話ぐらいって態度じゃいやだ、構えがなってない。集中してないだろ、いつも他人とうわべでしかつきあおうとしてない証拠だ。哲笙はその考え改めたほうがいいよ、でないと今にみんないなくなるから」
「よくそれだけ勝手な言葉が出てくるもんだ、おまえもその押しつけがましいところを何とかしたほうがいいな」
「あたしのどこが押しつけがましいんだ?」
「いつでも自分がいちばん正しいと信じて疑わないところがだよ!」
 思わず声が荒くなった。近くのテーブルにいた男女が振りむいてチラリと視線を投げてよこす。
 カッとなった藤女はいらだちまぎれに足を組みかえながら、テーブルの下で哲笙の脚を蹴飛ばした。とたんに上目使いの鋭い視線が飛んでくる。
「……今、わざとやっただろ」
「何のこと?」
「理屈でかなわなくなると暴力にでるしかないってわけか」
「その暴力にものいわせて弟を殴ったのはどこの誰でしたっけ?」
 一瞬、哲笙の顔に怒気が浮かんだ。
 彼は怒っている時ほど、じっと瞳を見据えてくる。猛禽類を思わせる深い色。先にそらしたほうが負けといわんばかりの気迫で、藤女は彼を睨みつけた。
 ウェイターが二人のテーブルにカプチーノとアイスコーヒーを置いて、あわてて逃げてゆく。
 脚をけられた瞬間、彼の身体を灼けつくような腹立たしさが駆け抜けたけれど、哲笙の中の理性的な部分が闘争心をふくらませてゆく藤女とは正反対に、たかが女ひとりにいらだちをあらわにしてどうするんだとせせら笑っていた。
 自分の理屈が通らないからと駄々をこねる子供と同じじゃないか。正面から対峙して数秒の沈黙のあと、哲笙はそう考えて突然ふきだした。
「変わった女だな、君は」
 ほんの一瞬とはいえ、ここまでたやすく自分を怒らせる人間を、実弟の他に知らない。
 藤女とやりとりしているあいだ、心の隅々を巣食うしがらみをすべてを忘れていた。いらだちまぎれにこの俺をけとばしてくる人間などそういないだろうと思うと、藤女のその幼稚さに笑いさえこみあげてくる。
「あの彼氏に、だいぶ甘やかされてるらしい」
 藤女はそれを聞いて眉をよせる。
「誰? 紗宗のことだったらただの幼なじみだよ、別に甘やかされてなんかない」
 憤然としたようすでアイスコーヒーを飲む。
「幼なじみと呼ぶにはずいぶん親しそうに見えるじゃないか。あれだけの器量を黙って放っておくのか」
「それだけ器量があるから、放っといても不自由してないみたいだね。そう思うなら哲笙がモーションかけたら? もしかしたら相手にされるかもしれないよ?」
「……それは、笑えない冗談にしかならないな」
 鼻にしわをよせて哲笙は言った。こっちこそ願い下げだと怒鳴る紗宗の声が聞こえてきそうで、藤女は思わず声をたてて笑った。
 店を出る頃になってから、彼女はさっきと段違いに素直な顔になってたずねる。
「足、けったりしてごめん。痛かったか?」
 哲笙は不思議なモノでも見るような目つきで、隣に並んだ藤女を見た。無言で左手を差し出すと、アイスコーヒーの代金をきっちり請求してやる。
 軽い舌打ちとともに、彼女はポケットから紙幣をとりだした。
「……チップ抜きだぞ」
 謝るぐらいなら最初からしなければいいのにと思いつつ、怒りをいつまでも根に持たないさっぱりとした性格にけおされて自然に笑顔になる。
「君がああいう人間だということをよく覚えておかないと、危なっかしくて油断もできないな」
 そう言って哲笙は鷹揚に笑い、藤女の髪を軽くかきまわした。

 

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 ドアをあける直前まで、紗宗のくちびるはモリノの白い首筋を慈しむように確かめていた。
 長く余韻のあるキスはしない。つばむようにふれるだけ。何度も何度も。
 やがてくちびるを離すと、ドアをあけて室内に明かりを導き入れる。今度は反対に、彼女の体が外へ出た。モリノは廊下に出るとそのまま振り返らずに歩みだし、角を曲がって消えた。
 それを見送って、紗宗の瞳は遠くへ流れたようになる。
 計算ずくとはいえ、ここまでドライになれるとは……改めて自分という人間がどんなに卑劣な男か思い知らされる。でも、それとはまた別の自分が心の奥でささやいている。
 天使のように清純なやつなんて、この世にいるはずないと――。
 今まで、数えあげれば十指ではとても足りない数の女たちと快楽を共にした。どの女も、それなりに好きだと思ったし可愛いとも感じたけれど、一旦ベッドから出てしまえば不思議なほどその焦燥感がうせてゆく。会えなくても、相手を欲して灼けつくような胸の痛みに襲われることはない。
 けれど、いつの頃からかたったひとりの女だけはそうはいかなくなっていた。
 放っておいたら何をしでかすか判らない、飛んでいったらいつ帰ってくるのかも判らない。彼女がこの世からいなくなってしまったら、と考えるだけで心臓が凍りつきそうだ。その瞬間に自分の生きている意味もなくなる。
 はかりしれない信頼をよせてくる黒い瞳を思いだして、紗宗は胸の奥がうずくのを感じた。あの瞳に見入られると、時々何もかもが口をついて出てしまいそうになる。
 人間なんてそんなに綺麗なものじゃないと知っていながらも、それを見せる勇気などない。自分の中にあるずるい男の一面を見せても、彼女はまだそばにいてくれるだろうか。
 手に入るのなら、何をひきかえにしてもいいんだ――。
 心の中でそうつぶやきながらドアを閉め、やわらかな生成色の明かりの中でシャツを脱ぎかける。動くたびに、襟元から花のような彼女の残り香がした。そこで、サイドテーブルの上に光るものを認めてふと手を止める。
 サファイアをあしらった金のイヤリング。
 誰の忘れものかは明白だ。つまみ上げ一瞬どうしたものかと考える。
 思い直したように着替えるのをやめ、今度はボタンをはめた。カーテンのすきまから見える東棟の窓は、まだ明りがついていた。そのまま部屋をでて角を曲がり階下へゆく。
 哲笙の部屋は長い廊下をつっきって東棟。都合がいい。あの男が怒りにうち震えるところを本当におがめるかも知れない、と考えて、紗宗は自然にわきあがる笑みをこらえるのに苦労した。
 重い音がしてドアがノックされると、間をおいて、中から黒いTシャツにジーンズという楽な格好の哲笙があらわれた。思いもよらない来客にわずかに眉を動かしただけで、視線で何だとたずねてくる。
「こんばんは。昼間、うちの署から電話をもらったんですが、少々お時間をもらえますか」
 あながち嘘でもなかった。今回のことに関しては、哲笙の耳に入ないことには話にならない。
「……ああ、入れよ」
「失礼します」
 口元だけでほほえんで、紗宗は中央に足を進める。
「どこでも好きなところにすわるといい。何か飲むか?」
「ワイン、という雰囲気でもないし……ウイスキーかな」
「水割りなら俺もつきあうけど」
「……上等ですね」
 相手の態度にリラックスの色が見えかくれして、紗宗は歓喜の声をのみこむのに苦労した。
 ここで隙をみせるほど、あとでその愚かさにほぞを噛むことになる――何よりその顔が見たかった。
「それで、何がわかったんだ」
 水割りのグラスを手渡しながら、椅子に腰かけて哲笙は紗宗を見た。
「あなたが紀柾たちのアパートを訪ねた時におそってきた奴らが、市警察内部と通じて身元をかくまわれていたというのはもうご存知ですよね。今日、部長補佐が水死体で発見されました」
 カラカラと背の低いグラスの中で氷が音を立てた。かすかに哲笙の目が険しくなる。
「これで、彼がこの件に深く関わっていたことが明らかになった。水死というのはあなたも知ってる通り、自殺か他殺か非常に見極めにくい。でもそんなことはどうでもいいんです……部長補佐はその死を以て、関係していた真意を明らかにしてしまったんだから。俺は思うところあって先日、遺留品からアパートを襲った奴らの身元を洗おうとファイルを探してもらったんですが、それが回覧禁止のトップシークレットに回されてまして……地方警察なんかには手が出ないと言われました」
「遠回しな言いかたはよせよ。君のことだ、もう予想はついてるんだろう」
 哲笙は腕をひらいて軽く首を振った。
 両手をひらいて胸をさらけ出すのは、本心から気を許している心理のあらわれだという。無防備に、急所である心の臓を見せていることになるからだ。
 ぬけ目のない哲笙のことだから、そう装っているだけかもしれない。しかし装って何を言わせたいのか。そんなに大それたことがこの裏にかくされているのだろうか? 
 考えれば考えるほど判らなくなる。これでは策士同士、まるで腹のさぐり合いだ。紗宗は無難な線から攻めることにした。
「実はカムナギ市警に友人がいるんですが、調べてもらったら今回の大臣襲撃にからんで、ある事件が浮かび上がってきたんです……だいぶ前に、Qucali Telecommunication Services(QTS)の女性職員がひとり自殺したのを覚えてますか」
「知ってるよ、電話ボックスで自殺したとかいう、あのおかしな事件だろう。一頃そのニュースでもちきりだったからな……でもあれは、確か未解決だと聞いたが」
「カムナギシティで発見された死体は、357口径の拳銃で絶命していたとだけ報道されてましたよね。関係者の話では、死体が握っていたのは同じ357口径でも、被害者のものだったかどうか断言しかねるらしい」
 鑑識が調べた結果、その銃の通し番号は外資系ブランドのタラダン工場から出たものだった。しかし工場に問い合わせてみると、同じモデルはもう生産されていないという。
「検屍の結果、被害者の傷を作ったのはこのモデルから発射された弾丸ではないということになって、この事件は迷宮入りになってしまったんだそうです……頭蓋骨のひびの入りかたや銃弾の食いこんだ深さまで、被害者の持っていた拳銃ではとうてい力が及ばないですからね。誰かが別の357口径の銃を使って、巧妙に自殺に見せかけた可能性も考えられる。そして、大臣の身体から摘出された弾丸や亡くなった麻名城さんと運転手の検屍結果を比較してみると、俺の友人が言うに狙撃者の持っていた銃は、自殺に見せかけてQTSの職員を殺したともとれる、このもうひとつの銃に非常によく似ている……と、俺が調べたのはここまでですが――久下さんなら他にも何か知ってるんじゃないかと思いまして」
「いや、その話は俺も初耳だよ。それに、何でそこで俺の名前が出るんだ。こっちはクリムゾンを追われた反逆者だぞ」
「え?」
 予期せぬ言葉を聞いて、紗宗の顔に驚きの色がよぎる。
「クリムゾンとストライカーズの折り合いが悪いのは知ってるんだろう? 捜査局じゃこんなこと言うヤツもいないが、クリムゾンから見れば俺はストライカーズに寝返った身だからな。立派に反逆者になり得るってわけだよ」
 哲笙は黄金色の液体をひとくち含んで続けた。
「前に、俺がクリムゾンを辞めたのは、大統領が代がわりしたからだと言ったよな。でも入れかえといったって普通は部署をかわるのがせいぜいで、クリムゾン自体を辞めるやつなんてほとんどいない」
「……まあ、あれだけの情報を握っている機関の職員なら、上が手放さないでしょう」
「俺はその上から、自主的に辞めろと言われたんだよ」
「え? どういうことです?」
「辞めても、ストライカーズから拾われるようとりはからってやるから、クリムゾンを出ろとね――最年少クラスの特務官と、とりひきしたってことさ」

 

 

 何だって?
 哲笙の言葉をすくいとろうとして頭を働かせるが、言われたことがうまく理解できない。
「クリムゾンに配属になってしばらくして、今まで知らなかった情報調査局のもうひとつの顔に気がついて、その派閥の深さや上下関係の厳しさに多少ウンザリしてるところもあったから、最初は肩書につられたようなものだった」
 わずかな間を見てとったように、彼は続けた。
「知っての通り、クリムゾンは大統領のためにあり、権限も彼が握っている。軍とのつながりも強く、政府といちばん近い位置にある彼らは、国中から選りすぐった逸材だ。なのに驚くほど外部からの干渉がすくない。活動データも公表されず、勤務中は身元も厳重に守られている。俺の所属していた護衛部では、殉死をとげた者はその一親等まですべて国から終身保護手当が出されている」
 返す言葉を失った。
「弟のアパートを襲った連中のひとりは、身元がバレるのを恐れて俺の目の前で自殺した。あの時、どこか腑に落ちなかったんで捜査局のほうで男の身元を照会してくれるよう頼んでおいたんだ」
「結果はでたんですか?」
「ああ。裏であやつってたのはそこらの大物なんかじゃない。その気になれば、あの男たちが生きていたという事実すら抹消できるような者だ」
「生きていたという事実?」
「あの男は若い頃に一度、つい何年か前にも二度目の服役をしてる。ムショ入りを苦に自殺なんかするような男じゃない。もうわかってたのさ……計画をしくじってどのみち死ぬ運命にあると」
「つまり、雇っていた誰かはそういう者だと?」
「逃げたってムショに入ったって、いずれ足をつかみにくるやつがいるってことかな」
 頭のなかにモヤがたちこめてくるような、不透明な感じがした。
 紗宗の水割りが残り少ないことに気づいて、哲笙はボトルを引きよせてグラスに継ぎ足してやる。
「トラブルシューターになったのは予想外だったけど、こうなってみると都合がいい。君は銃は使えるのか?」
「は? ええと……インベスティゲーターも、時には必要にせまられるかもしれないということで、射撃訓練だけは受けてますが? 実戦に立ってないんで自信はないですよ」
 なぜこんなことをきくのだろう、と思いながら彼は哲笙を見た。
「探りたいことがある。どうだ、俺と――手を組まないか」
 瞬間、ついに言わしめたという気持ちで胸はいっぱいになる。
 無心をよそおって近づいても、この用心深い哲笙から、はたしてどれほど信頼という名の領地をうばえるかと考えあぐねていた紗宗は、略奪が予想以上に早くすんだことを悟った。
 思いつめた様子をよそおってグラスを握り、冷笑をもらして答えてやる。
「そんなことを、軽々しく口にしていいんですか。慎重な久下さんらしくもないな」
「何だよ、君を見込んでの言葉だぞ?」
「ひとつ大事なことを教えてあげますよ。あなたは――俺という男をまるで判っていない」
 何を言ってるのか見当がつかない、という顔で哲笙は彼を見た。その瞳をまっすぐ受け止めて、紗宗はジーンズの尻ポケットに片手を伸ばす。
 イヤリングが一組、きらりとルームライトに反射してその姿をあらわした。
「見覚えが、あるでしょう?」
 当然だった。
 サファイアはモリノの誕生石。ずいぶん前に哲笙が彼女に贈ったはずのものだ。紗宗はそれをテーブルの上に置いて、平然と言う。
「今夜あなたの別れた奥さんが、俺の部屋に忘れていったものです。あなたから彼女に返しておいてください」
 何を意味するのか、のみこみの早い哲笙は瞬時に悟ったようだった。表情に硬さが走る。
 多少の乱闘は覚悟のうえだった。そうでなければ最初からモリノを抱くつもりなどない。けれども哲笙は殴りかかってはこなかった。
「……何食わぬ顔をして、ひとの感情を手玉にとろうとするとはね。わざわざあおりに来たってわけか……君はもっと大人だと思っていたが、それも俺が買いかぶっていただけらしいな」
 冷淡な顔は落ち着いていたが、声にははっきりと憤りがあらわれていた。身体のどこかから、はげしい脅迫の匂いを発して、それが声とからみあって目に見えない野獣を作りあげているようだ。
 吠えながら近づいてくる犬科ではなく、一頭で音もなく背後に忍びよってくるしなやかな猫科の野獣。目の前の男には、最初からそんな印象を持っていた。
「何を言っても、負け惜しみにしか聞こえませんが」
「負け惜しみ? 何に対してだ? 別れた妻を寝とったぐらいで、勝ったつもりでいるなんて聞いてあきれる。モリノが誰と関係しようといまさら俺の知ったことじゃない。彼女もそれぐらい判ってるはずだ」
「なるほどこれじゃあ離婚されるわけだ。その淡泊さではさぞかし大きな痛手だったでしょうね、彼女には」
「あざとい君に言われたくもないね」
「俺はあなたみたいに下手なあつかいはしないし、結婚で失敗するほど愚かじゃない」
「それが真実であることを祈りたいな。口で言うだけなら誰にでもできる」
 自分に絶対的な自信があることは確かだが、この男には傷を負った者特有の奇妙な優越感すら感じられる。戦場をわたりあるいてきた傭兵どもが、古傷を見せあったりするあれだ。
 ――どんなにあがいたところで、俺が抱いた女の顔はきさまには変えられない。それが事実だ。
「切れる頭は、うまく使わないととんでもないところで身の破滅をまねくぞ」
 哲笙が、まっすぐ紗宗に双眼を向けて吐き出した。
「切れるものを使わずにいて、錆びつくよりましです」
 その場の温度が上がった気がした。
 拳を振りあげて殴りつけることはたやすい。それで勝負がつく相手なら哲笙もはじめにそうしている。けれども紗宗が望んでいるのは、言葉を使ってのヒリヒリと身を灼け焦がすような争いなのだ。
 殴られることなど何とも思ってない彼に、拳を振りあげても意味を成さない。殴る価値もないと思った。
 心底腹が立った、というように哲笙は低く唸った。
「――さっさと出て行けよ、顔も見たくない」
 やっと本音が出たな、と心の中でつぶやきながら、紗宗は満足そうに目を細めて悠々とその場をあとにした。
 別れたとはいえ哲笙の妻を、わずかな時間に口説きおとしてものにしたのである。何とののしられようとも、大事な幼なじみの心をつかんだ冷徹な久下哲笙に、一撃を与えたという事実が紗宗には胸のすく思いだった。
 ドアが閉まっててからしばらくして、哲笙は握っていたグラスを壁に投げつけた。
 グラスは一直線に飛んでいき、高い音をたてて粉々に砕け散った。

 

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