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12

 

 ――それは、安らかな眠りのはずだった。
 グリーンの波は脳波と心拍数をあらわしている。微弱ではあるけれど確かに生命を宿したその身体は、いまだ目の覚めやらぬ宿主にしびれを切らしてた。
 点滴投与による栄養摂取だけでは、この状態を維持するのにも限界があると、彼の身体はガン細胞を抱えこんだまま、静かに最期の時を受け入ようとしていた。
 安定したラインを繰りかえしていた波が、その時突如としてグリーンのバランスを崩し、耳障りな警報をうち鳴らす。
 それは、平穏という名の舞台の終焉を告げる音色に、哀しいほどよく似ていた。

 

 

 電話を受けて、彼らが病院にかけつけた時、時計はすでに午前3時を回っていた。
 集中治療室ではすでにビニールの天蓋も一部とり外されている。肺の機能が弱っているため、ポンプで酸素を送りこんでいたが、その空気音がしだいに不規則なものとなっていた。
 美凪が正禅の左手を握った時、彼はわずかにまぶたを動かしたが目をあけることはしなかった。紀柾はベッドの脇にぴったりとくっついて、初めて見る父の衰弱しきった顔を、戦慄を覚えながら眺めていた。
 紀柾にとって、正禅は頑固で利己的で、そして何者をも圧する気迫の持ち主だった。ここまでのぼりつめるのに、いろんな意味での犠牲を払ってきたことも知っている。その犠牲が時には汚れた不正であったことも、紀柾は耳にしていた。
 だから、そんな父親が赦せなかった。
 莫大な富と権力を手に入れておきながら、父として息子の手本になるような生きかたなど何ひとつしてないではないか。
 そのうえ息子の選んだ道を潰すような真似をした。
 恥を知れ! 紀柾は思わずくちびるを噛みしめた。
 実の親にすら認められないまま、才能という目に見えないものだけを頼りに努力を重ねてきた……それがどんなに苦しいものか知りもしないくせに! この鬱積をあんたにぶつけるまでは。
「死なれてたまるか!」
 つぶやいて紀柾は立ち上がる。
「きたねえぞ、親父。俺はまだあんたに、言いたいことの半分も言っちゃいない。家を出てどんなに心細かったか、あんなに信じてたのに、自分が大したことないんじゃねえかと考え出して迷ったり……俺はまだ何もあんたに伝えてない」
「キショウ」
 背後に立っていた哲笙がその腕を掴んだ。けれども紀柾は激しく一振りして今度はその兄を睨みつける。
「おまえに何が判るっていうんだよッ! いつだって器用に世の中を渡ってきて、たいした努力もせずに人並み以上のものを手に入れてきた哲笙に……俺の何を理解できるっていうんだ。7年も知らん顔してたくせに今更兄貴ヅラするな!」
 突然の反撃だった。瞳が、攻撃の色に染まっていた。
「言い過ぎよ、キショウ」
 たしなめる母も視界に入らない。
 哲笙を傷つけるためなら、どんなことでもやってのける目だった。ここで挑発しても何もならないことを悟った哲笙は、黙って振り払われた手を下げる。
 紀柾の頬を悔恨の涙が伝った。
「俺は、自分の手で自分のやりたいことを掴んだ。どんなに邪魔されても、あきらめたりするもんか。金と権力を逆手にとって、何でも思うがままにしてきたあんたの人生なんかより、苦労して泣いて傷つくことがあっても、俺の選んだ道は間違ってなんかいないことを証明してやる。だから……だから死なれてたまるか!」
 それは、紀柾の執念だった。
 自分の好きなことをするためには、家を出るしかなかった。久下キショウの名を捨てて、反逆のしるしであるキマサを名乗りながら、いつかきっと正禅を見返してやると考えていた。
 ここまで激しく父親を意識していながら、押しつぶされもせず逆に乗り越えてゆこうとする力は、どこからくるんだろう?
 やはり紀柾は、7年前のキショウではない。
 哲笙の胸のうちが、鋭敏にそう感知していた。きれいごとばかり並べ立てる理想主義はそのままだが、18の時との決定的な違いは、その言葉の重みだった。
 紀柾は多分、言った通りのことをしてきたのだろう。
 勢いにまかせて家を出たものの、建築家になれるかどうかなんて、ひきとった周紺良でさえ判らなかったに違いない。手先の器用なやつなら掃いて捨てるほどいる世の中だ。
 紀柾は感情的だが、自分が信じているものへは強く執着する一面も持っている。その時々で信じるものなど変わってゆく哲笙から見たら、異常なほどに。
 その執着が、モノにならない芽が出ないとさげすまれ、踏みにじられても、そこから這いあがる術だったのだ。
 事務所の入り口で追い返されて、たぶん情けないほどに泣きもしただろう。
 どうしても追いこせないライバルに、猛烈な嫉妬心を抱いたこともあるだろう。
 可能性を信じて疑わなかったデザインコンクールで、予選すらも通過せず、目標を失いかけた日もあっただろう。
 ――それでも、帰る家をみずから捨てた紀柾は、強情にも決して赦してくれと言わなかった。
 たった一言、俺には才能がないから親父のあとをついていく、とさえ言えば、おまえはよく頑張ったよと、ねぎらいの言葉すらかけて迎えられたかもしれないのに。
 そこまでの執念は、俺にも親父にもない。わざわざ辛苦を舐めるより、プライドなんか根こそぎ捨てさればずっと楽になれる。
 ひとと真っ向から対立することは、思ったより気力を消耗するものだ。だったら初めから、器用に立ち回るほうが自分に合っている、と哲笙は考えていた。
 その時、突然正禅の乾いたくちびるが歪んだ。
「はん……ぎ……しゃ」
 病室にいた全員が、ベッドの上の疲れきった通産大臣に視線を注いだ。
「何だって? おい、親父、何て言った?!」
 紀柾が吠えるように問う。聞きとれた者はいなかった。
「親父、死ぬなよッ」
 その言葉を聞いたように、正禅の口元がかすかに笑みを含んで――そして、機械はすべてフラットラインを描きだした。弾かれたように医師たちがベッドへと近寄ってくる。
「死ぬな……親父!」
 取り乱しそうになる紀柾を後ろから押さえて、哲笙はやるせない表情になる。
 ――これで最期か?
 とっさに哲笙の胸に浮かんだのはそんな言葉だった。
 心臓マッサージを施されている間も、美凪はそばを離れずにいた。
 医師が無表情に時間を告げるのを、まるで、まだ息をしているかのように温かい手を撫でながら黙って聞いていた。
「――いやだよ、死ぬな!」
 両腕を哲笙に押さえられたまま、紀柾は頭を垂れて激昴を吐きだす。
 弟の目からこぼれた透明な涙がリノリウムの床を濡らしてゆくのを、兄は無表情にみつめていた。頭は鉛のように重かった。

 

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 哲笙は自室で一枚の封筒を手にしていた。
 何の変哲もない、よくある茶封筒。しかし中身をあけて悟る。
 差出人無名のこの手の封筒を受けとったのはこれで2回目だ。消印すら押してあるけれど、これがうまく作られた偽造郵便であると哲笙は知っていた。
 たとえば、大判の茶封筒を使ってどこかの企業からパンフレットでも請求する。大企業が封筒一面に、あて名を書いたりすることはまずない。普通は小ぎれいにタイプされたあて名が、封筒の中央に貼られているだけだ。
 送られてきた封筒の上の空白部分を切って、書類を入れうまく貼りあわせ、そうして作った消印つきの偽造郵便を、誰かが久下邸のポストに直接投函していった。
 そんな巧妙なことをする人物だから、指紋のひとつも残していない。中に入っていたのは前回と同じ、複写された雑誌記事だった。
 『エリート部長補佐、一家心中』という小さな見出しがついている。先日のクウリュン市警察部長補佐の事件だ。新聞の記事とほとんど同じだが、亡くなった家族についての部分が違っていた。
 長女の勤務先がカッコでくくられて紹介されている箇所に、蛍光色のマーカーで線が引いてある。
 ファーイースタン・インシュアランス――ちかごろ成長を続けている保険会社だ。
 哲笙は2枚目の紙を見た。それは新聞広告の複写だった。
 企業エキスポ開催を知らせるもので、下には後援会社が名前を連ねている。再び蛍光色でラインを引かれた、ファーイースタン・インシュアランスの名が目に入る。
 誰が何の意図で送ってくるのか、哲笙に心あたりはなかった。前回も、送られてきたのは新聞記事のコピーだった。3年ほど前、クリムゾンを解雇になった職員の記事である。
 哲笙自身も元クリムゾン勤務だったので、もしかしたら嫌がらせだろうかとも思った。だが、それにしては意図が見えない。かすかな冷気に撫でられたように、首筋がぞくりとした。
 その時、はっきりとドアをたたく音が耳に届いて、哲笙はコピーを封筒ごとポケットに押しこんだ。
「どうぞ」
 一呼吸の間があったあと、ドアがひらいて藤女が顔をのぞかせる。彼は、入れ、と軽く顎をしゃくった。
「紀柾は、落ち着いたのか?」
 竹の家具で統一された哲笙の部屋に入ると、病院から戻っても感情的にとりみだしたままの紀柾を案じてそうたずねる。
 美凪も自室にこもりきりだし、門前には報道陣がうろうろしている。当然、テレビでも通産大臣逝去のニュースでもちきりだった。
「ああ、航生が何とか宥めてくれたみたいだな。玄関先で暴れたから、君も驚いたろ?」
 家に入るなり植木鉢をなぎ倒し、すごい剣幕で泣きさけんだ紀柾を思い出して藤女はすこし切ない表情になる。
「いや、紀柾はもともと感情表現のストレートなヤツだから、今までもたまにあったよ……それに、今日は誰も構うもんか」
「俺は正直言ってちょっと驚いた。あいつが親父にあれほど固執してたとはね。いちばん遠くにいるはずのキショウがあれだけとり乱すなんて、だったら俺は――」
 立ちあがりかけて、とたんにふわり、と足元が軽くなった。平衡感覚が瞬時にして狂いだし、つづけて頭の中枢をしめつけるような感覚がおそってきて、彼は再びソファに座りこむ。
「哲笙!」
 振りかえった藤女が声を投げつける。
「……ただの立ちくらみだ、大丈夫」
 言いながらどんどん血の気が失せてゆく。まるで、胃がのど元までせりあがってきたようにむかむかした。
「大丈夫大丈夫って、あんた自分に言いきかせてるだけだろうが。ほんとに大丈夫だったら立ちくらみなんかするか! そんなふうに、いつもいつも神経をはりつめていたら体力消耗して当然だろ。ほら、いいからすこし横になりなよ」
 身を起こしかけた哲笙の腕をつかんでソファに寝かせると、藤女は手近にあった籐の椅子をひきよせて、それを前後逆にしてまたがった。
 心の中ではこんなところで休んでいるわけにいかないと思いつつ、哲笙の身体は背中からソファにはりついたように動かない。身体中の器官と細胞とが、もう一度動き回るには少々の休息が必要だと訴えていた。
 呼吸をととのえ、あきらめたように両瞳をふせて、哲笙は今度こそぐったりと身をうずめる。
 そばにあったガラス製のピッチャーから、藤女がなめらかにアイスティーをグラスに注ぎ、差し出した。菊の花を乾かして混ぜた中国のハーブティーだ。飲めば長寿になるといわれる。
 左手でそれを受けとって、ほんのりと甘い液体をのどに流しこむ。
 モリノとの離婚ひとつにしても、哲笙は自分で思った以上に神経を使っていた。なるべくなら傷つけたくなかったのに、顔を合わせればおたがい必要以上に過敏になっていらだって、けっきょく嫌な感情をいだいたまま別れてしまった。
 おちつく暇もなく紀柾を連れもどしに出て、今度はそこで命を狙われた。弟を強引に連れもどしたらもどしたで、彼はとことん父に刃向かうだけ。
 離婚を切りだしたはずのモリノは考えなおしてくれと復縁話を持ちかけてくるし、紀柾の友人である紗宗からは何だかしらないけど恨まれて、とどめに父の襲撃事件。そして、彼の死だった。
 ここ短期間のうちに、あまりに多くのことがありすぎた。哲笙の勘の鋭さは、そのまま研ぎすまされた神経をあらわす。いくら人並み以上の体力があるとはいえ、これだけ神経を酷使していたら疲労困憊して当然である。
 カタカタカタ、とヤシの葉のこすれる軽やかな音が部屋の中を流れていった。
「……よほど、薄情な男だと思われているんだろうな、俺は」
 やっと吐き気が治まってくると、横になったままのかっこうでぽつりと彼は言った。
「どうして?」
「周りのヤツらの目が、冷たいって言っているようなものじゃないか。父親が死んだのに、涙一粒見せなきゃとり乱しもしない」
 窓の外に視線を向けながら哲笙は毒づいた。
 真夏の朝のひざしが、竹のよしずの間からきりきりと差し込んでいる。きっと今日も、一歩そとに出れば亜熱帯の黄金色をした太陽が容赦なく照りつけるのだろう。そんな中を干からびてたおれるまで歩きつづければ、いつか自分を赦せるようになるかもしれない……。
 不気味なほど冷静な頭でそんなことを考え、哲笙はダークスーツの片腕を額に押しつける。
「……なあ、哲笙。みんながなんて言ってるかなんて、どうでもいいじゃないか。どんな大物にだって敵は必ずいる。100人の敵に嫌われることより、10人の味方がいることのほうが大事だろ? 違うのか」
 もうひとつのグラスをつかんで、自分もアイスティーを注ぎながら藤女は軽い口調で言い出した。
「あんたは冷たいヤツなんかじゃないよ。本物の悪人は、法をやぶったり他人を不幸にしてまで欲望を満たそうとしてるから、自分のことをかえりみる余裕もない。あるのは目の前の利益だけ。過労でぶったおれてるあんたとは違う人間だ」
「そういうことじゃない。時々俺は、自分に赤い血が通ってるのか不安になるんだ。真っ赤な血が流れてるって判るなら……どんな極悪人になってもいい」
「あんたには無理だよ」
 にべもなくそう切り返されて、哲笙は思わず眉をつりあげる。
 ふだんの彼ならとっくに言い返しているところだ。けれど今は頭が重く、歯切れのいい言葉のひとつも思い浮かばない。口をひらきかけて思い直し、再びこめかみをおさえた彼に藤女は一笑を送る。
「モラリストのくせにすぐ悲観的になるところは直さないとね。すごいタフガイかと思ってると、時々妙に気弱になるんだな……ま、人間だもの、神経すりへらすこともあるよな」
 そんなふうに言われたのは初めてだった。
 クリムゾンでもストライカーズでも、感情のコントロールに関して哲笙は周りから一目置かれていた。それをこうもあっさりと見やぶられるとは、そんなに顔に疲れが出ていたのだろうか、とぎくりとする。
「あたしは涙だけが悲しみをはかる術でもないと思う。本当の悲しさっていうのは、あとから思い出したようにわきあがってくるものだからさ」
「知ったふうなことを言うなよ」
 言ってからはっとした。藤女の表情がみるみるうちに沈んでゆく。それを見て、やはりだいぶ参っている、と思った。
 俺が傷つけてしまった。いたわってくれるひとに、思いやりのかけらもない……。
 藤女は静かに言葉を紡いだ。
「――8つの時に、母親を亡くしたんだ。交通事故だった」
「すまない。傷つけるつもりじゃなかった」
「葬儀に参列しても、ピンとこなかった。家に帰ればまた母に会えるような気がしてた。彼女はもうここにいないんだとわかって泣きだしたのはそれからだいぶたったあとさ。家族の死がこういうことだと、その時実感した」
 気やすめでも構わなかった。藤女の遠回しな思いやりが、ひびわれた哲笙の心をしっとりと、小雨のようにぬらしていった。
 ……心にもないことを言った。
 哲笙は、まぶたを伏せてその上から再び片手をおしつけた。低く、重い吐息をつくと、まつげのきわが痛みだし、わずかに涙があふれてくるのに気づく。
 それが正禅に対する追悼なのか、藤女に対する懴悔の念なのかわからなかった。泣けたことが、きしんだ哲笙の心を安堵の中に解き放ってゆく。
「そんなに自分を追い詰めるな。あんたはあんたの思うとおりにふるまえばいい。頭で計算して、理性で割り切ろうなんて考えるなよ。それがどんな決断でも、哲笙を嫌いにならないヤツなら、ここにいるから。あたしは、好きだよ――哲笙のこと」
 右手を伸ばして指先で彼の黒髪にふれながら、藤女はさらりと告げた。
「すこし眠れば、きっと元気になる。何も考えなくていいからゆっくり休め」
 透明な、自信に満ちた声をききながら、疲れてすりきれた哲笙の神経がゆうるりと弛緩してゆく。打ち水を放つ音が響きはじめ、藤女は視線を窓の外に向けるとまぶしさに瞳を細めた。

 

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「佑久さま! ご用意など、私どもにまかせてくださればいたしますものを……」
「いいの、それより車を呼んで」
 哲笙の部屋をでて階下におりると、そんな声が耳に飛びこんできた。藤女は、開け放してあるドアの内側からモリノの部屋をのぞきこんだ。
 備えつけのクローゼットは、ぽっかりと白い扉があいたまま。バスルームもマリンブルーのタオルがそろえられ、洗面台の上もきれいにかたづけられている。肌触りの良さそうな白いベッドカバーの上になげだされた、高価な本革製のトランクに荷物をつめこんでいるモリノの背後を、航生が恐縮した面持ちで見守っていた。
 ポーチでその様子を眺めていたらしい紗宗は、藤女に気づくと一瞬何か言いたげに口を開いたが、すぐ黙りこんだ。
「……何してるの?」
「ああ、仲乃さま、どうか止めてください。佑久さまがご帰宅なさるとおっしゃって」
「ええ? 今出てくのはちょっと難しいぞ」
 朝から久下邸の回りを囲んでいる報道陣を思い出して、藤女はやんわりとたしなめる。
「大丈夫、伯父から迎えの車をよこしてもらうわ。それに記者のあしらいかたなら心得てるつもりよ」
「まあ、モリノさんの仕事から見れば、あんな記者団ぐらいどうってことないだろうけど……帰るなんて、どうしてまた急に」
 カーキ色のショートパンツにTシャツという楽なスタイルのモリノは、その問いを聞いてかがみこんでいたトランクからまっすぐ向き直って言う。
「私、藤女さんのことすごく気に入ってるの、尊敬もしてる。だから誤解しないで欲しいんだけど――ひとこと忠告しておくわ。あなたの幼なじみは救いがたい男よ」
「えっ?!」
「このひとは、平気な顔でウソをついて他人の心をもてあび、それを罪とも何とも思っていない」
 人差し指をつきつけられた紗宗は、おもむろに首筋をぴしゃりとはたくと蚊に食われた跡をかきだした。藤女はわけがわからずに彼とモリノを見くらべる。
「きのうの夜、哲笙が忘れものを届けに来てくれたわ。悪びれた様子も見せないで、あなたってひとはよくよく図太い神経の持ち主ね。あんなことで、彼が挑発にのるとでも考えたの? 思いあがるのもいい加減にしなさい」
「どういうこと?」
「いいんだ、藤女……すみません、ちょっと3人で話したいので席を外してください」
 紗宗はポーチから、ちらりと航生に視線を投げる。彼はいやな顔もせずに、わずかにうなずいてそこから出ていった。
「ふたりで、のまちがいじゃないの? 私は話すことなど何もないのよ」
「まあ、そう邪険にしなくてもいいじゃないですか」
 おだやかな紗宗の声とは正反対に、モリノは怒りと蔑みのこもった強い瞳で彼を見据えていた。殺気に満ちたその表情はまるで手負いの猫だ。
「挑発とは、あまりいい言葉じゃありませんね。別に久下さんに見せつけてやろうと思ってあんなことをしたんじゃない、純粋にあなたに惹かれたからです」
 言いながら、もったいぶったしぐさで長い脚を進めてくる。身をこわばらせたモリノには近づこうとせず、彼女を中心に小さな弧を描くようにして、紗宗は部屋のすみの背の低いサイドボードにもたれかかった。
「俺はえり好みするほうだから、誰とでもというわけにはいかないんですが……今は何を言っても信じてもらえないのかな」
 何を言われようとも、相手が女性なら下手に徹するのが紗宗のやりかたである。昴ぶった女の気持ちをおちつかせ、愛憎の修羅場を切り抜けるためならどんな嘘でもつく。例えそれがでまかせであっても、衝突を避けたいと願う気持ちに偽りはない。
 紗宗の心の底を流れる、そんな感情が彼の言葉を揺るぎないものにするのか、それともたぐいまれな容貌が作用するのか、彼は女性からこっぴどく嫌われたという経験がなかった。
「……あのさあ、あたしだけなんか、話の筋が見えてない気もするんだけど?」
「久下さんにとった態度が気に障ったんだったら謝ります。俺が軽はずみでした」
 自分の言動を完全に無視されて、藤女はくちびるを尖らせた。釈然としないまま、幼なじみを睨みつける。けれども次のせりふを聞いてその黒い瞳を見ひらいた。
「でも、罪悪感なんて言葉はどこを探してもでてきやしませんよ。そんなふうに思うくらいなら――最初からあなたを抱いたりしない」
「やめて!」
 哀願にも似た声でそう言って、モリノは荒々しくトランクを閉じた。
 藤女の体の中を激しい衝撃がかけおりてゆく。目には見えないけれど、固い物体で脳天を叩かれたようなショックだった。
「いまさらなにも聞きたくないわ、これ以上関わりたくもない。二度と私の前に出てこないで!」
 モリノは紗宗を一瞥もせずに身をひるがえし、その場をあとにした。 けっきょく残されてしまったトランクに視線をうつして、彼は別人のように瞳を険しくする。
「――どういうことだよ、紗宗?」
 藤女は、サイドボードに背をあずけたままの彼につめよった。
「言った通り、俺はモリノさんと寝たんだよ」
「そんな……誰だか判ってるのか、哲笙の――」
「だったらどうだっていうんだ」
「……好きなのか、モリノさんのこと?」
 その問いに彼の表情がゆがんだ。心の奥がチリチリと音を立てて燃えはじめていた。
「そう言えば、おまえは納得するのか? 好きだったら構わないことなのか?」
「それならなぜ追わない? おまえはいつも口ばっかりで、行動がついてってないじゃないか」
 言いかえされて、今度は紗宗もおしだまった。窓の外からソテツの葉ずれの音とともに風が流れこんできて、藤女の髪をゆらしていく。
「行って、ちゃんと謝ってこいよ。泣いてるみたいだったぞ」
「言っただろ、謝るつもりなんかない。なぐさめる立場のヤツなら他にいるだろうが。それとも何か? 藤女はそいつに行かせたくないから、俺にそう言ってるのか」
「モリノさんはあたしの大事な友達だから言ってるんだよ」
「どうしてそんなに彼女をかばうんだよ、放っておけばいいじゃないか。彼女なんかサッサといなくなってくれたほうが、おまえだって哲笙に近づきやすいだろう!?」
 聞いたとたんに藤女の右手が空を切った。 パアン、と紗宗の頬が派手な音を立てる。
「おまえは……自分が何を言ってるかわかってるのかッ!」
「何だよ、図星をさされてそんなにくやしいか」
 ひどく他人じみた声だった。それを聞いたとたんに、藤女は再び拳に力をこめた。
 けれど、にぎりしめた拳は振りあげようとせず、射すくめるようなまなざしで紗宗を見る。乾いたくちびるが言葉を吐いた。
「……今のおまえは最低だよ、紗宗」
 それで充分だった。
 まるで、鋭利なガラスの破片を目いっぱいぶつけられたかと思った。身体が、痛みと切なさに爆発しそうになって、紗宗は無言で藤女に背を向ける。 その背中に幼なじみが部屋を出てゆく足音がはねかえった。

 

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