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13

 

 広いキッチンの中央にあるカウンターに立って、波葉は力いっぱいアイスピックを振り上げていた。
 彼女が動くたび、麻のニットで編まれたタンクトップから伸びた腕にはまった、いくつもの細いバングルが軽い音をたてた。
 暑いので長い髪はすっきりとまとめ、日本製の朱塗りのハシをスティックがわりに頭の上で留めてある。
 まったく、なんであたしがこんなことしなくちゃならないのかしら。
 先ほどからいくどとなく浮かんでは消えていった愚痴が、また胸の中にうずまいた。
 このあたしが。よりによってあいつのために――。
 天井には大きな扇風機がついていて、ゆっくりとけだるそうに回転している。真鍮で縁どりされたその5枚の羽根が、木製のブラインドの間からさしこむ太陽の光に反射してキッチンの白い壁に光の模様を作っていた。
 ここ西棟のキッチンはゲスト用につけられた、いわばお飾りだと紀柾が言っていた。
 久下邸に住む人間は普段ここでは食事をしないそうだ。本厨房は別にあり、そこにはプロのシェフが常時入っていて、好みの料理がすぐ出てくるようになっているという。
 けれど、このキッチンのほうが波葉の自室よりだいぶ広かった。
 銀色に輝く観音開きの冷蔵庫は、1ガロンのアイスクリームが5年分は入りそうだ。ガスレンジは大小あわせて全部で5つ。オーブンとシンクが2つずつに食器洗濯・乾燥機までついている。どの料理器具も油汚れ一つついていない。みな新品みたいにピカピカだった。
「……こんなものかな」
 そうつぶやいて手を休め、砕いて小さくした氷を銀のボールごと抱えこんだ。右手でビニール袋と乾いたタオルをつかんで、隣の部屋に入る。
「まったく」
 氷がボールの中で揺れる固い音にかぶせて、波葉はひとつわざとらしく吐息をついた。
「この前は紀柾で今度はあんたなの? 今にこの家の氷は、応急処置のためにみんななくなるわね」
 キャンバス地のソファにすわりながら、捨てられた子犬のような双眸を向けて、紗宗は一言くうんと啼いた。その頬に赤くあとがついている。
「そのテにはのりませんからね、女なら誰でもあんたに優しくすると思ってるわけ?」
「……波葉ちゃんは無理かも」
「当然でしょ」
 手早く氷のかけらを二重にしたビニール袋につっこんで、タオルで包む。差し出されて、紗宗はのろのろとしたしぐさで波葉特製の即席氷嚢を受けとった。
「ずいぶんはっきりと手のあとがついてるわね。すぐ消えるといいけど」
 真横に腰かけ、すっと手でなぞられると、灼けつくような感覚にわずかに顔をしかめて抗議した。
「いてっ、さわられると痛いんだよ、波葉――」
 とたんに波葉は目を三角にして言いかえす。
「痛くて結構! あんなに怒らせるなんて、いったい何を言ったのよ?」
 言いかえす言葉もみつけられずに、彼は声を詰まらせる。
「あの様子だと、あんたがちゃんと謝るまでぜったい口きかないわよ」
「ごめん、おまえにも迷惑かけたな」
 藤女が彼の中でどれほど大きな存在なのか、もうだいぶ前から知っていた。
 いつになく素直なのはそれが充分反省している証拠だと気づいて、波葉はここぞとばかりに再び大きなため息をつく。
「迷惑ですって? 人生最大級の大迷惑よ。こんなことに巻き込むなんて、あたしを誰だと思ってるわけ?」
 舞台女優の波葉は、身ぶり手ぶりも表情もずいぶんと大袈裟になる。派手なリアクションでそういう態度は、傍若無人以外のなにものでもない。
 けれどもいつものように軽口もたたかず、紗宗は無言で氷嚢を頬にあてがい視線を落としただけだった。拍子抜けした波葉は力なく両肩をたれた。
「ガッツないなあ、どうしたのよ」
「フラれたのかなと思って……」
「だったらどうなの」
「その上あいつを傷つけて、俺って最低だ」
「あんたは、恋愛の数だけはちょっと誇れるほどあるのに、上手な失恋のしかたってものをまるで知らないのね。女遊びっていうのは、傷つけないであと腐れなく女をあしらえるからそう呼ぶんでしょうが。紗宗はそういうことに手なれてると思ったのに、いい男の株が下がったわね」
「身を切りきざむようなお言葉、ごもっともで耳が痛いです」
「この期に及んでまだそんなこと言ってるの?!」
 派手な音をさせて腕をはたくと、まっすぐ紗宗に向き直る。
「失恋ていうのは、ケガして傷を負ったのと同じことよ。その傷は目に見えないけど、きちんと処理しておかないとあとで腐りだして、ひどい目にあうのはあんたなのよ。ねえ紗宗……そんなことでいいの? それで満足なの? 残されたあんたはどこにも行き場がなくて、死んだようになっちゃうのよ」
「……好きな女に嫌われるぐらいなら死んだほうがまし、ってこともあるだろ」
「死んだ気になれば何だってできるってことも、あるでしょ。ああもう見ててはっきりしないヤツね、1回フラれたぐらいで何なのよ、それで人生終わりじゃないでしょ? そんなに腐ってるひまがあるなら、もっとガンガンせまってぶち当たってくればいいじゃないの。いつもだったらサッサと手ェ出してとっととやってるくせにっ!」
「おい……なんか下品に聞こえるぞ」
 右手で拳を作って殴るふりをすると圧倒されたのか、彼は少々身をひいた。
「言っておくけどあたし怒ってるのよ、紗宗みたいなうっとうしい男みてると胸がムカムカしてくる。今時こんな女々しいヤツもいないわよね。それなのによくあれだけ、あとからあとからひっかかってくるバカな女どもがいること。ちょっとばかり見た目がいいからって騙されて、あんたみたいな根性の腐った男と簡単に寝たりするなんて、あきれるの通り越して同情するわよ!」
「ううう……なんかひどい言われようだなあ。俺ってそこまでチャラい男に見られてるんですか? もう立ち直れなくなっちゃうなあ」
 波葉の大音声に罵倒されながら、紗宗は両手で目をこすると泣くまねをして見せた。
「黙んなさい。泣きまねなんかしたって、紗宗に情けをかけてやるほど寛大じゃないのよ、そんなことはどこかよそ行ってやってちょうだい。あたしはね、あんたみたいにヘタレな男が大嫌いなのよ。いいこと? もっと堂々としてないと、みんなが振り返るような男っぷりが泣くわよ、あんたはそれしか取り柄がないんだから。判ってるの? 判ってるんだったら男らしくぶつかってこい!」
「ハイッ」
 紗宗は反射的に返事をしてしまう。
 タイミングといい、隙のなさといい、言葉のリズムといい、これは波葉の圧勝である。さすがに紗宗も逃げ場をなくして、フォローのひとつも思いつかない。
「まったく……マジメな恋愛ひとつできなくて、とんでもない人生の無駄をしてるとは思わないわけ? 相手にした女の数と、たったひとりの女を好きになった気持ちの深さと、どっちがあんたにとって価値のあることなのかよく考えたら? フラれるつもりなら潔くさっさとフラれてきなさいよ。でなければ、いつまでも藤女を見守ってやれるぐらいの根性をつけなさい。ひとを好きになることは罪なんかじゃないんだから。気のすむまで、ずっと好きでいたらいいでしょ」
 最後の言葉を聞いて見おろした先に、優しげな瞳が待っていた。
 そうか、今まで藤女のどこを好きだったのだろうと考えると、ものおじしない波葉の言動に気持ちが上昇してゆくようだ。
 関わる者を希望へ向けてふるい立たせ、ひたむきな瞳でほほえんで、見る者の心を精製してゆくのが、紗宗の恋した藤女ではなかったか。その藤女が思いをよせる相手すら認めてやれなくて、どうして彼女を包みこむことができるのだろう――。
 ひとを好きになるのは罪なんかじゃない、か。いつまでたっても諦めつかない俺には、真理だよな……。
 氷嚢を頬にあてがったまま、数秒黙りこんでから紗宗は訊いた。
「なあ、ずいぶんとリアルなご忠告ですが……波葉も失恋なんてしたこと、あるわけか?」 
 波葉は勝ち気そうな笑顔をつくると、いつも友達に言うセリフを初めて彼に言ってみた。
「どうしようもない優男を好きになってるからね――もう慣れっこ」

 

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 紀柾は鈍い月光を受けて、白いバルコニーに立っていた。
 下弦の月には薄墨のような雲がかかっていて、ぼんやりとしか見えない。庭の小さな木立の向こう、たくさんの錦鯉が泳ぐ池をほの淡く照らしだすライトが、木々にまぎれてチカチカまたたいていた。車の音も、遠い汽笛も聞きとれない。
 右手奥には、子供の頃によく遊んだ大木がそのまま残っている。
 紀柾が小学校に上がる前まで、あの太い幹の上には小さな隠れ家があった。哲笙と一緒に暗くなるまでそこからおりてこなかったものだ。
 けれどいつだったか紀柾がそこから落ちて、前歯を折る大ケガをしてから、その小屋は処分されてしまった。髪の生え際にはまだその時の傷がかすかに残っている。
 ここが生家であるにもかかわらず、彼には自分の居場所などとうに消失したなじみの深い遊び場という気がした。風に揺れかしぐヤシの葉のこすれる音を聞きながら、次第にどんよりと自己嫌悪の波が心にうず巻いてゆく。
 せめて優しい言葉のひとつもかけておけばよかった。哲笙のいうとおりじゃないか、俺は親父の立場も思いやってやれない。子供と同じだ。
 顔も見たくないほど忌み嫌っていた父なのに、こんなに後味の悪い思いばかりが胸にわきあがるのはなぜだろう。
 夢に向かってつきすすむ情熱は、見返してやろうという存在があったからこそだった。
 親のいうとおりに生きることが、たったひとつの親孝行だとは思っていない。自分の足で独りだちしてこそそう呼べるのだ。抑圧的な父を嫌いゴタクを並べてこの家を飛びだしてはみたものの、いつのまにかその父に認められようと躍起になっていただけだったと気づいて、紀柾はまぶたをふせた。
 わかっている。もうだいぶ前から――。
 けっきょく俺は、デキのいい兄貴とはりあって親父に褒められたかっただけなんだ。素直にこっちを見てくれと言う術を知らなかったばかりに、とんだ親不孝者になった。
 泣くのはいつでもできる。泣いて許しを請うことも悔やむことも、自分にはいつでもできる。
 そんな簡単なことよりももっと大人になるべきなのだ。今自分にできることが何なのかを見極めるために、冷静になること。父を父と、兄を兄と敬うこと。そうやって樹立してゆく存在価値もちゃんとあるはずだった。
「――悪かったよ、父さん」
 その時。つぶやいた紀柾の背後で、影が揺らめいたかのように見えた。
 次の瞬間ナイロンのひものようなものが彼の目の前を通過し、キリリとのどをしめあげられる。
 息が詰まった。
 それは凄まじい力だった。声を上げることもできず、紀柾は苦しまぎれに思いきり背をそらせた。ガタン、とかなり大きな音がした。
 勢いあまった襲撃者が背中から壁にぶつかったのだ。紀柾は右手を背中に回してその顔をかきむしろうとする。相手が素早く身をかわしたのでそれは失敗に終わったが、それでも視界の端に黒髪を認めた。
 黒衣の長身だった。両手にはレザーの手袋。セキュリティ・ガードの目をくぐってこの屋敷にふみこんできたこと自体、この人物が奇襲に長けていることをあらわしている。
 ぞくりとした。
 同時に死にたくないという思いがこみあげてきて、紀柾はありったけの力をふりしぼって両手の指をひもとのどの間にくいこませる。
「紀柾、どうした?」
 続きになっていた隣部屋のバルコニーから、藤女が顔をのぞかせた。一瞬、襲撃者の注意がそれる。
「く……るなっ」
 見ひらく藤女の両眼に、懐から拳銃をとりだそうとしている男が映る。来るなと叫んだ紀柾の声を無視して彼女は反射的にかかとを蹴っていた。
 襲撃者は紀柾からその手を放し、くりだされた彼女の拳を遮ってひそかに驚きの表情になる。
 藤女は息もつかせぬ勢いでそののどを突き、二人はもみあいになった。
「……誰か、セキュリティ! 侵入者だ!!」
 藤女が叫びを上げた。サングラスをかけた襲撃者は、軽く舌打ちして腰につけているロープをたぐりよせる。
 それが屋根から降ろされた命綱だということに気づく前に、藤女は胸ぐらをつかみあげていた。女とは思えないほど、すさまじい力だった。
 身体が揺れかしぐのを感じて、襲撃者は彼女の両肩を押し下げながらみぞおちへ膝を放つ。渾身の力だった。
 よろけた藤女の身体をつかんで、襲撃者はバルコニーの手すりへと押しつける。
 ふっ、と身を沈めた彼の両手が彼女のかかとを払った。
「藤女」
 はっとした時にはもう彼女の両足が浮いていた。バランスが崩れる。
 藤女はとっさに、右手で襲撃者の腕をつかもうとした。が、その指先はむなしく空をかすっただけだった。
 駄目だ、墜ちる。紀柾は、腹の底で声にならない叫びを上げた。
 墜ちる――!
 彼女は反射的に両手で頭をかばっていた。黒衣の人物は命綱をしっかりと握ったまま、藤女をバルコニーから突き落とし、再び暗闇へと姿を消した。
「ふ、藤女……ふじめ――ッ!!」
 手すりから身を乗りだす紀柾の瞳を彩るのは、暗黒だけだった。
 のどがすり切れるのも構わずに、彼はその闇に向かって何度も何度も彼女の名を呼び続けた。

 

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 凄い勢いでドアがあいた。
 紗宗は、廊下に立っている一群に鋭い目を向ける。大股で近づいてくる彼の顔は、血相を変えてという言葉がぴったりだ。まっすぐに紀柾を見すえて、身体全体で怒りを煮えたぎらせている。
 紀柾にたどり着くや否や、紗宗は渾身の力をこめてその両肩をつきとばした。
「――てめえっ! そばについてながらいったい何してたんだよ。黙って見てたのか、この役立たずが!」
 それは憤怒に火がついたような咆哮だった。温和な話しかたをする普段の彼と、今の姿はまったくの別人に思えた。
 突き飛ばされよろけた紀柾は、片腕で顔をかばいながら身をかがめる。紗宗はその胸元を左手でつかんで壁に追いやり、右腕を一文字に構えるとそののどに押しつけた。
「紗宗、やめて! 紀柾はのどをやられたのよ」
 叫ぶ波葉の声も彼の耳には入らない。
「おまえだけ無傷ですむと思うな」
 紀柾の腕を押さえつけて低く呻く。わきあがるような殺気が誰の目にも見てとれた。
「落ち着けよ」
 哲笙が背後から彼を羽交い締めにする。その手を振りほどこうともがいて、紗宗は再び怒鳴り声になった。
「黙れ、俺の気持ちがわかるか!」
「軽いケガと打撲ですんだんだ、あいつなら大丈夫だから!」
 それを聞いて、紗宗は血のにじむほど強くくちびるを噛んだ。固めた拳のやり場をなくして、無言で紀柾の顔からほんのわずかに離れた白い壁を打つ。
「藤女をこんな目にあわせて――俺から許されると思うな」
 つぶやいて身をひるがえし、ドアの奥に消える。
 まるで自分が殴られたとでもいうように、波葉は痛々しそうな表情で白いシャツのその背中を見送っていた。残された誰も、口を開こうとはしなかった。




 ベッドに横たわる藤女を見て、紗宗は今にも心臓が音をたてて崩れそうだと思った。できることなら自分のこの身とすり替えたかった。
 ベッドの脇の小さな椅子に腰かけて、そっと彼女の顔をのぞきこむ。
 繁みの上に落ちたおかげで骨折こそまぬがれたが、腕や首筋、髪の生えぎわなど所々かき傷ができて赤くにじんでいた。
 その頬には驚くほど血の気がない。左腕に刺された点滴が、一定のリズムで透明な液体を注ぎこんでいる。それを見た瞬間に、紗宗の目から熱い涙が玉となってこぼれた。静かに優しく藤女の右手を握る。
 気がつかなかった。
 今まで。
 こんなに小さな手になっていたなんて。
 歯切れのいい言葉づかいと、腕っぷしの強さに気をとられて忘れていた。凛とした顔立ちの中の、きめの細かい肌や長いまつげ。
 やわらかなうす紅色の爪は、きれいに手入れもほどこしてある。耳たぶについている小さなピアス。
 ジュエリーを嫌う藤女は、邪魔にならないからという理由でピアスしか身につけない。それもほとんどが紗宗の贈ったものだった。
 両手で柔らかく藤女の手をはさむと、今度はそのまま額へ押しつける。
 最低だとなじられても構わなかった。どんなに嫌われてもあきらめきれないと悟ってから、自分のすべてを投げうってでも藤女を護りたかった。
 目をあけて再びほほえんでくれ、と強く強く祈りながら紗宗はささやく。
「俺の、藤女――」

 

 

「大丈夫か」
 おいてけぼりを食った子供のように両膝を抱えてイスにすわりこんだままの弟に、哲笙は訊いた。美凪が救急箱を手に部屋へと入ってくる。
 紀柾の首筋には、まだみみず腫れのようなひものあとがついている。けれど目に見えるそんな傷よりも、不意になげつけられた言葉で負った傷のほうが、ずっと癒えにくいことを哲笙は知っていた。
「あの男でも、あんなにとりみだすことがあるんだな」
 哲笙はソファに身を沈めながら思い出した。
 藤女の部屋の前でドアは固く閉ざされたまま、おまえの踏みこむ領域ではないと告げているかのようだった。
「……あいつさ、誰かとあらそうのが大嫌いな日和見主義だから、怒鳴ったり手をあげたりするようなヤツじゃないんだ。何があってもヘラヘラしてられるんだと思ってたよ。腹も立てないし血相を変えてあわてふためいたりしないって」
 美凪から救急箱をうけとったまま、ふたもあけようとしないで紀柾はそう話しだした。
「いつでも俺の兄貴みたいな存在で、身体も態度もデカかったけど、要領いいから俺なんかに弱味みせねえな、ってどこかで安心してた。長いこと友達やってて、今日ほど本気であいつがつっかかってきたことなんかなかった。藤女は俺にとっても大事な友達なんだ。俺があいつの立場でも、きっと同じことをしたと思う。だから紗宗の気持ち、よくわかる。痛いほど」
 そこで言葉を切って、自嘲をこめた笑みをうかべる。
「俺は役立たずなんだってさ。当たってるよな……友だちを犠牲にしなきゃ、自分の身ひとつ守れない」
「そんなふうに考えたらだめよ。さっき往診してくれた医者が言ってたわ、とっさに頭をかばうあたり、よほど反射神経のいいひとだって。彼女だからできたことなのよ。あのひとは、自分の能力をちゃんとわかってる。犠牲になったなんて思ってもいないはずよ」
「でも、結果として友だちふたりを傷つけた」
 テーブルの上に救急箱を放りだし、うつむく紀柾のまなざしは揺れていた。
「まわりの誰かを傷つけるばかりで、何の役にもたたない。意地をはってわがままを言って、いつも自分のことしか頭になかった」
 組み合わせた両手の指の関節が、白い色をおびてくる。
「親父だって、あんなに早く死んじまうんだったら、俺はもっと――」
 紀柾の声は、すべてを吐き出す前にそこで途切れた。美凪と目が合うと、哲笙は軽くうなずいてみせる。
 それを受けた母が紀柾の肩に片腕を回した。
「生きてる時にはわからなかったこともいっぱいあるわよ。みんなが万事うまくいくことなんて、この世の中のほんのひとにぎりなんだから。それがわかっただけでも良しとしなきゃ……役たたずなんかじゃないわよ。やんちゃだったキショウが、かけだしとはいえちゃんと建築家になったんですもの。おまえのお父さん、本当はすごく驚いていたはずよ。哲笙は昔から何でもできる子だったから、何になっても驚きもしなかったけど」
 斜め正面のソファに座って、聞こえないフリを決めこんでいる長男をちらっと見やり、美凪はそう言った。紀柾がさっと顔を上げる。
「おふくろ、俺をなぐさめてんの、けなしてんの?」
「あら、ごめんなさい。そんなふうに聞こえた? お母さんね、いつもこう思ってたの。哲笙はひとりでクヨクヨしても、けっきょく自分で解決してるみたいだから慰めもいらないけど、けなされて熱くもならないわ。だけど、キショウはけなされて強くなる。周りに影響されやすいのね。そばにいる人間が大きければ大きいほど、影響されて強くなる。表現のしかたはちがうけど、おまえも哲笙も、感性が豊かなのよ」
 キショウのほうが表現力が豊かなのだろう、と哲笙は思った。
 目にしたものが1であったとしても、彼はそれを10にして表現できる人間だ。
 哲笙の場合は1つのことから10のものをみつけだす。勘がいいと言われるのはそのためだ。
 待ち受ける未来を予測するはずの鋭い勘は、時としてひどく神経質にさせ二の足を踏ませて、そして失敗を恐れるため悲観的にさせる。
 突然の事態に見舞われても感情の行く先が示すように生きてゆけぬのなら、理性で生きている人間ほど弱い者はない。おびただしい量の情報を確保するため、本来自然の中でいちばん重要であるはずの動物的な勘を抹消してしまったのだから。
 この世の終わりがきても生き残れるのは、自分にとって何が危険で何が安全なのか見抜くことができる、単純な人間なのかもしれない。
 キショウや藤女は、理屈でものを考えない。感覚に訴えてくるものを察知する。最初に藤女と言葉を交わした時、心のどこかで誰かに似ていると感じたのは弟のことだったのかもしれない。
 ――彼女の声には不思議な力がある。
 例えば声に画像をつけられるのなら、その画像によって心がすこしずつ洗われてゆくような効果。コンプレックス、不信感、戸惑いなどの皮を一枚ずつはいでゆくように、新しい自分と向かい合うことができる。不安の底に沈みかかった者を力強く引き上げてくれるような、今まで感じたこともないような気分にさせてくれる。
 彼女がひとこと『大丈夫』と言えば、素直に信じられる一種の催眠術のような、強い暗示力をたずさえた瞳。あれは、ひとを導くことのできる瞳だ――。
 ひとから頼られることはあっても、自分からはなかなか愚痴もこぼせなかった哲笙の領域に、予告もなしに土足で入りこんできて、あぜんとしている横顔を嘲笑していった。
 最初から、ひとを敬うとかいった態度とは程遠い口調の女だった。彼女の言動ひとつで、おもしろいほど感情的になる自分がいた。
 『みんなが何て言ってるかなんてどうでもいいじゃないか』
 『100人の敵に嫌われることを気にするより、10人の味方がいることを覚えておくほうが大事だろ? 違うのか』
 『ま、人間だもの、神経すり減らすこともあるよな』
 彼女はそう言っていた。不思議なひびきだった。
 あるがままの彼を受け止め、きっと元気になるからゆっくり休め、と包みこんでくれた透明なあの声を、哲笙は心のどこかが再び欲しているのを感じた。

 

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