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14

 

 のどが、渇いた。
 何だか異様に身体が重い気もして、藤女は下から上へゆっくりとまぶたをあけるように目をひらく。
 唐突に視界へ飛びこんでくる部屋の天井に、頭を動かそうとして左肘の内側に痛みが走った。点滴の針が差しこまれているのを知らなかったのだ。
 とたんに意識がはっきりした。
「あいたあ……」
 そのつぶやきを聞きとって、壁ぎわでイスに腰かけながら眠っていた紗宗がはね起きる。
「藤女! どうした、大丈夫か?」
「……紗宗? あたし、どうなったんだ」
「紀柾を狙ってきたヤツとやりあって、バルコニーから落ちたんだよ。今ストライカーズが犯人を探してるけど……どこか痛いか?」
 しばらく考えて、ここ、と点滴の刺さっている腕をさす。
 その答えを聞いて気が抜けたのか、紗宗は半分泣き出しそうな笑顔になって彼女の前髪をかきあげた。くちびるが優しく額に押しつけられる。
「身体がギシギシする。それに、のど渇いたな」
 彼は水差しに手を伸ばし、グラスにそれを注ぐとベッドのへりに腰をおろした。上体を起こした藤女を、両腕でそっと胸に抱えこんでグラスを手渡す。
 それを飲みほすと、一息ついて彼女はたずねた。
「ずっと、ついててくれたのか」
 うなずく紗宗を見て重ねて問う。
「何で? あたしが怒ってるとは思わなかった?」
「思ったよ、でもそばにいたい気持ちのほうが強かった」
「あたし、おまえに甘やかされてるんだってさ。哲笙に言われた」
「あんなヤツの言うことなんか気にするな」
「でも好きなんだ――どうしようもないくらいに」
 うつむいた彼の横顔から目を移して、藤女はその右手にぎくりとする。
「どうしたんだ、これ?」
 手の甲、人差し指と中指のつけねが朱ににじんでいた。すぐにわきの下ヘ入れて、かくそうとする紗宗の顔をのぞきこむ藤女の眉が曇る。
「紗宗?」
 答えない彼の頑なな態度に、まさか、という気持ちが胸をよぎった。
「誰か、殴ったのか?」
 つぶやきには不信感があふれた。
 ひとと真っ向から対立することを良しとしない紗宗は、滅多なことでは手を上げたりしないはずだった。続く言葉を聞いて藤女は愕然とする。
「おまえが、紀柾のせいで怪我したって聞いて、けっこうキレてたから」
「紀柾をぶったのか?!」
「いや、あいつは突き飛ばしただけ。殴ったのは壁だ」
「ばッ……そんなことしたら手がだめになるじゃないか!」
 言ってから、切ない痛みが藤女の身体中をかけぬけた。
 そうか。紗宗は心配してくれたんだ。そんなにまで――。藤女は、ゆっくりと大きな手をとる。
「怒りにつき動かされてひとを殴るのは最低の行為だと、教わったはずなのにな……あたしもおまえをはたいたんだ。罰を食らうならあたしのほうが先だよ。ごめんな、紗宗」
「謝るようなことなら俺のほうがしてる」
 絞りだすように紗宗が言った。
「ううん、いちばん近くにいるからって、あたしはいつも紗宗に甘えてばかりいた」
 そこで彼女は瞳をあげた。
「だからって、あたしのことみくびるなよ。哲笙のことは、自分でなんとかする。あいつがどこを向いていても、必ずあたしのほうを向かせてみせるさ。でも、おまえはあたしの大切な幼なじみなんだ。こんなことぐらいで離れてしまうのはイヤだ――紗宗、お願いだよ、このまま離れていかないで」
 左手で彼女の肩を胸に抱きしめて、紗宗はめいっぱいの虚勢をはる。
「やっぱりおまえのこと、甘やかしてるのかなあ……あいつよりさ、俺のほうがいい男だろ?」
「バカだな、紗宗は」
 しずくのようにこぼれ落ちたそのつぶやきが、白いシャツの胸にあっさりと吸いとられた。

 

 

 昼近くになって茶色のドアがあき、廊下に紗宗の長身があらわれた。
 壁ぎわのイスにすわって目を閉じていた哲笙は視線を上げて、彼の表情がいくぶん安堵の色に染まっているのに気づく。遠慮がちに紀柾が訊いた。
「藤女は、ぐあいどうだ?」
「普通にしてる。腹がへったって言ってるくらいだから、もう大丈夫だろ」
「そうか。俺、キッチンに行って何かもらってくるよ」
「紀柾、俺――」
 くるりと身をひるがえしたとたんに腕を引きとめられて、紀柾は驚きの瞳をむける。
「俺、おまえにひどいこと言ったな……悪い。本心からじゃなかった」
 目もあわせずにそれだけ言った。
 しばらく硬直して、それから全身の筋肉がゆるんだ、というように紀柾が笑顔になる。
「気にするな、おまえが藤女のこと大事にしてるのは知ってるから。それにあいつがケガしたのは俺の責任でもあるんだ、殴られても当然だったよ」
 心配するな、としめくくってキッチンへと降りて行く。
 紀柾のあのおおらかさが、憎悪さえもうやむやにするほどの力を持つのか。あっさりと仲直りができて、拍子抜けしている男前の顔も拝んでみたいと思ったが、哲笙からは背中しか見えなかった。
「キショウの前では、ずいぶん態度が違うんだな」
 脚を組んでイスに腰かけたまま、からかうように言ってみた。
 とたんに広い背中がひるがえって、目を細めただけの微笑がとんでくる。
「いやがらせならあとにしてください、俺は逃げたりしないから。だけど今日は時間がない。それに……お姫様が呼んでます」
 わずかに顎をかたむけてドアをさした。愛想笑いの表情はとっくに消え、瞳には荒っぽい色が宿っている。
 つき刺すようなその眼差しを受け止めたまま、哲笙は立ちあがった。
「なるほど、幼なじみには形無しってわけか」
「なんとそしられようとも、彼女にはそれだけの価値があるんでね」
 壁に背中をあずけて、紗宗はそんなせりふを吐きすてた。哲笙には、なぜこれほどまでに彼が競争意識を燃やしてくるのか見当もつかなかった。モリノに横恋慕してというのなら、少々根が深すぎるような気がする。釈然としないまま彼の左肩をかすめて部屋に入った。
「哲笙」
「気分はどうだ?」
「大丈夫、もう立って歩けるぞ」
 上体を起こしてベッドの背によりかかっていた藤女は、そう言ってほほえんだ。
 部屋に寝かされた時とは段違いに顔色がいい。もう点滴もはずされていた。
「無理するな、ここは俺の同僚にまかせてあるからゆっくり休んでいいよ」
 ベッドの端に腰をおろして言葉を続ける。
「君には、危ない思いをさせて迷惑をかけた。こんな時ぐらい恩返しをしないとな。今、キショウが食事を運んでくるけど、何か欲しいものは?」
 言ってほほえむ哲笙の顔は純真そのものだった。
 ただ単に感情をかくすのがうまいのか、それとも本当に聞きそびれただけなのか計りかねて、藤女は考えこむ。
 彼女としては、それが望まない結果でも、感情を出してくれたほうがいい。こんなふうにはぐらかされると逆に居心地が悪くなる。
「哲笙はそうやって、何もなかったふりをするのが得意だな」
「どうした、遠慮なんてらしくないぞ」
「こういうかけひきは苦手なんだ。はっきりさせよう」
「え?」
 哲笙は眉をしかめた。
「あの時、あたしが何て言ったか覚えているんだろう。感情が昴ぶっていたから聞きそびれたなんてことは、あなたに限ってないはずだ」
 哲笙の視線が藤女から外れた。すっと息を吸いこんで瞳を伏せる。
 あれは――。
 とうぜん聞き損じたはずはない。けれどもそれは受け止めかたの問題だった。あの状況で、愛の告白だと思う人間がどれほどいるだろう? 
 こちらは31歳の離婚経験者なのだ。いまさら好きだの何だのと言われたところで、いちいち真に受けてなどいられない。
 哲笙は吐息と共に言葉を吐いた。
「俺は、君の言葉をべつの意味でとった。滅入ってたから励ましてくれてるのかと」
「励ますたびにあんなこと言ってたらおおごとだな」
「まぎらわしいところで言うからだろうが」
「あたしは感情に従って、思ったことを口にしたまでだよ」
 藤女の両手がベッドカバーをたぐりよせた。黒い瞳はまっすぐで、哲笙の神経を痛いほどにつついてくる。ふいに、ダメだという思いがこみあげてきた。
 どうして藤女を相手にすると、こうも簡単に理性の留め金がはずれるのか。
 好きだという感情をここまであらわにしていながら、清々しいほどのこの思いきりのよさはどうだろう。思いを告げられた自分のほうが逆に照れくさくなってくる。
「だいたい、ああいうセリフはこっちの都合も考えて言えよ。何も神経参ってる時にわざわざ――」
 言いながら、俺は何を動揺してるんだ、という気持ちはぬぐえなかった。それを聞いて藤女が吹きだした。
「ははは、哲笙にそんなこと言う口があったとはね。よし、わかった。この次はきちんと瞳を見て言うよ――好きだって」
 呼吸をするようになめらかに、笑顔のままでさらりと告白し鳶色の瞳を射竦める。
 哲笙は弾かれたようにベッドから立ちあがった。
 鏡をのぞき込んだら、生涯これ以上はできないというほど惑乱した自分の顔が見えるはずだ。一瞬、そんな気持ちが身体の中を通り抜ける。
「好きだと言うばかりで相手の立場も思いやることができないなら、子供のわがままと同じじゃないか。君のあざとい幼なじみが、どうして俺を目のかたきにしてくるのかこれでよくわかった」
「紗宗が?」
「俺にしても、これ以上敵を作る気はまったくないね。君の口から伝えておいてくれ、見当違いもいいところだと……とにかく、俺は君をみくびってたみたいだ。それだけ言える元気があるなら、ここを出て行くのもすぐってことだな。待ち遠しいよ」
 もともと哲笙は、女性に対して手加減を忘れない男なのだが、藤女をそれほど女と意識していないのでつい口調が荒くなってしまう。相手が彼女でなければ、だいぶ柔らかなものいいになっていたはずだった。
 平然と見上げてくる藤女の瞳が三日月のようにしなる。哲笙は短く舌打ちするとドアに手をかけた。
 ひるがえった哲笙の後ろで、デニムの青いシャツのすそがまたたいてドアの向こうに消えるのを見つめながら、藤女はとりあえず第一関門は突破したと思い、ひとり意味深にほほえんだ。

 

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 ドアをすべて閉めたリビングの内側で、美凪はキュカリ捜査局の職員3人と顔を合わせていた。
 彼らは、久下邸に侵入者があってからすぐ集められたトラブルシューターと呼ばれる哲笙の同僚で、捜査局の中でも腕利きで名をはせている連中だ。
 まだ日が高いというのに窓にとりつけられたブラインドは閉ざされ、強くかけられたエアコンのためか部屋は冷えきっている。
 壁ぎわにはひとめで年代物とわかる、天井まで届きそうな大きな柱時計が単調なリズムで時をきざんでいた。深い飴色をしたその時計は、美凪の母が台湾から持ってきたものだ。きちんとネジを巻いてさえおけば寸分の狂いもなく定刻に鐘を鳴らしてくれる。
「だいたいのところは久下君から聞いていると思いますが、これからみなさんには少々きゅうくつな思いをしてもらいます」
 巨大なトラをかたどった鉛の置物の上にガラス台をのせたテーブルをはさんで、向かいがわに位置している男が言った。
「身柄を、拘束されるということですか」
 美凪の問いにうなずいて、向かいのソファに座っていたウォンという男がゆっくり身をのりだした。
「みなさんの協力が得られるほど、当方としては捜査を進めやすくなる。わかりますね」
 今度は彼女がうなずいた。
「こちらに滞在中のみなさんには、市内のホテルに移っていただきたい。もちろん極秘にです。表向きは要人ということでホテルに滞在し、警備のほうは厳重に手配いたします」
「なぜここにはいられないのでしょう?」
「半年ほど前にこちらで新しく採用したメイドがありましたね? 今回あなたの息子さん、キショウ君のほうですが、バルコニーで彼を襲った者を手引きしています」
 わずかな驚愕が美凪の瞳を染めてゆく。
「ご心配なく」
 と、黄は続けた。
「メイドの身柄は当局であずかっています。ですが、この屋敷のことは青写真まですべて情報を流されたと思っていてください。ドアの鍵や暗証番号などはすぐ変えることをおすすめします。今のところ盗聴器のたぐいは見つかってませんが、うっかり大事なことを口にしないように」
 思わず美凪は部屋を見回した。自分が何をしゃべっていたかなんて、とうていすべて思い出せるものではない。ヒヤリとした。
 そんな彼女の表情を読みとってか、黄は諭すように言う。
「この部屋は大丈夫です、ちゃんと調べましたから。つきましてはこの屋敷全体のセキュリティを強化したいのですが、許可を願えますね」
 美凪には、それがまるで世間話でもするような口調に聞こえた。
 ガラス台の上に家の見取り図を広げながら、新品の窓枠にとりかえて周囲にも防犯装置をめぐらせることについて、くどくど説明しだす黄の声を聞き、彼女はホテルに移る時は金庫の中身もすべて持っていかなければ、などと考えていた。

 

 

 夕暮れを待って彼らはしたくをととのえ、カムナギ市内にあるホテルに移ることになった。
 転落事故にあって間もないというのに、藤女はその超人的な回復力ですでに体力をとりもどしている。応診を終えた時の、化け物でも見るような医師の顔に、彼女は思いのほか腹を立てたらしく、ホテルへ向かう車中ずっと悪態をついていた。
 ホテルでは2人ごとにスイートがあてがわれ、セキュリティがつけられた。でかでかと置いてあるテーブルの上に用意された、フルーツの盛り合わせからさっさとマンゴーをつまみあげて、藤女は波葉に訊く。
「なあ、これ本物の大理石かなあ」
 ボーイが息を切らせつつ重たげに荷物を運んできたので、波葉は紙幣を数枚とりだしながら視線をめぐらせた。
「ためしに割ってみるとか言わないでよ?」
 ボーイが、ぶっきらぼうにチップを渡してスカートをひるがえしてしまった波葉に、なごり惜しそうな目をむけて部屋を出ていった。ドアのすぐわきに立っていたセキュリティは吹きだしたいのを何とかおさえて、ゆっくり下を向く。
 藤女たちの入った部屋はリビングと、キングサイズのベッドが2つついたベッドルーム、黒大理石のぜいたくなバスタブがはめこまれたバスルームで構成されていた。
 窓からは海が見える。テラスはついていなかった。多分、美凪が防犯のためテラスのない部屋を手配してくれたのだろう。
 リビングルームの南側についている白いドアがノックされ、藤女はマンゴー片手にノブを回した。
「よう、落ち着いたらルームサービスでなんか頼むけど、おまえたちはどうするんだ?」
 紗宗だった。紀柾と彼がいる隣の部屋とは、ドア2枚をへだてて続きになっている。
「いいね、んじゃそっちへ行くから一緒に頼んでくれ。あたしはコレ」
 紗宗の手にしていたメニューから、ディナーセットを指さして藤女が言うとあたしも同じのでいい、とバスルームに歩みながら波葉が声をかぶせた。
 15分後にルームサービスが運ばれてきた時、大きな銀のワゴン2台にぎっしり乗った皿を見てギョッとしたのはセキュリティたちだった。
 仮にも命を狙われている連中なのに、なんという食欲か。しまいにはデザートのとりあいまで始まって、傍観するしかなかった彼らはあきれて吐息をついた。
「ねえ、本当のところ、いったいどうなってるのか説明してくれない?」
 紗宗の手から、強引にとりあげたキウイのシャーベットをほおばりながら、波葉が上目使いに訊いた。
「俺もよく知らないんだ、親父が殺された理由も、どうして俺たちが狙われてるのかも。ただ、あの兄貴のことだからぬかりなく何かたくらんでるんだろうけど」
「たくらむって?」
「このまま引き下がらないってことさ。優等生ヅラして、昔っから黙ってやられることなんかなかったからな。俺はああいう人間だけは敵にしたくない」
「そ、そんなに底意地悪いのか」
 紗宗は急に情けない声になった。
「そりゃあもう、ひとをいたぶることに関しちゃあ、兄貴の右にでる者はいませんよ。あれ? そういえばおまえ、なんか――」
 気にさわることでも言ったのか、と訊こうとして、タイミングよく藤女の大声に遮られた。
「『兄貴』?!」
「何よ、急に」
「今、兄貴って聞こえたぞ」
「そう言ったみたいね」
 カラになったシャーベット皿を差しだされ、紗宗はうらめしそうな目を向けた。藤女は身をのりだして続ける。
「へええー、『あのバカ』からすごい進歩だなあ」
「アラほんと。いつから兄貴になったのよ、紹介ぐらいしなさいよ」
「……うるせえよ、いちいちいちいちッ! もっと大人になることにしたんだ、俺はッ。勝手に意地はって、悪いことしたと思ってるんだぞ」
 誰が訊いたわけでもないのに、突如そんなことを言いだした紀柾に3人は吹き出す。
「紀柾ってさあ、けっこうかわいいとこあるよな」
「『大人になる』って純情になる、の同義語だったんだな、俺またひとつお利口になってしまいましたよ」
「やかましいッ! シャワー使うぞッ」
 憤然とした態度でそう言いはなって、紀柾はソファから立ち上がった。
 その顔が、耳まで赤くなっていた。

 

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