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16



 美凪はパシフィック・キャスルの同じフロアに部屋を取っていた。
 彼女の場合はひとりで部屋を使っているので、同室しているセキュリティは女性特務官ひとりである。特務官はしばらく部屋を出ているよう哲笙から頼まれて、静かに外へ出た。
「で、どこにあるんです、その鍵は」
「これなんだけど……」
 ハンドバッグの中から開封済みの白い封筒を一枚とりだして、美凪はそれを彼に手渡した。
 表にはJ−0875と記されている。哲笙は指先で中を開けた。
 出てきた鍵は銀色で、穴に細いリングが通されている。もう一度封筒の文字を確かめて、哲笙は言った。
「家の金庫は確かめたんですね?」
「全部開けて持ってきた中にこれが入ってたのよ」
「貸し金庫は? 銀行は調べましたか」
 その問いにはっとした。ごたごたしていて忘れていたのだ。
「麻名城が管理してくれてたから……」
 首を横に振った。
「母さん、これはあなたが持っていてください。手が空きしだい俺が確かめます。そのかわり中身の処理は任せてもらえますね」
 彼の瞳をのぞき込んで考える。哲笙のことだから、心配はしてないけど。
 哲笙のことだから? そうやって安心して、周りの誰もが彼を頼ってもいいものだろうか? 自分のことばかりであまり気も回らなかったけど、離婚したり父親を亡くしたりして彼だって心労は多かったはず。
 美凪は片手で息子の腕に触れた。
「おまえに無茶をさせるのは嫌よ。もういいから自分の好きなことをなさい、哲笙」
 けれど、いつものようにはぐらかすこともなく、彼はふっと笑顔になる。
「俺はこれから――自分のやりたいことを始めるんです。いくら母さんが相手でも、今回はひけませんよ」

 

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 黒のセダンはハイウェイを降りると、クリムゾンの正面ゲートの前でゆるやかにスピードを落とした。
 車窓を開けて捜査局のバッジとIDカードを見せると、最初のゲートがひらいてガードマンの詰め所まで進む。
「捜査局特務課の者だ」
「モニターで確認しますので、お手数ですが全員のIDカードを提出願えますか」
 詰め所から出てきた中年のガードマンが言った。ここだけで3人が配置されている。
 哲笙は4人分のIDカードをまとめて渡した。コンピューターで確認がすむまでは、何があってもその先へ進めないことになっている。
 そのまま長いこと待たされ、やっとカードが戻ってくると、しびれを切らしたトラブルシューターたちに、ガードマンはあっさりと告げた。
「久下哲笙さんだけ予約の確認がとれました。あとのかたはお通しできません」
「何だと?」
「おい、予約は4人のはずだぞ」
 後部席からのそんな声に、謝罪もせず男は繰り返す。
「コンピューターに登録されているビジターは久下さんだけです」
「そんなはずはない、官房室に電話を入れてもう一度確かめてください」
 哲笙は少々声を荒らげた。男はたっぷり間をあけてから、しぶしぶといった表情できびすを返した。
 詰め所の中には他にガードマンが二人いて、モニタがあるはずだが車からは死角になっていて見えない。
 やがてさっきの男が戻ってきた。
「やはり久下さん以外の皆さんは予約に入ってないそうです」
 哲笙の手が思わずハンドルをたたく。助手席のカルティニが早口で抗議した。
「ばかな。騙されてたらどうするんだ。モニタを見せてもらおう」
「ここは国の特別行政地区なんだ、警察の管轄が違う。関係者以外立ち入り厳禁の詰め所に入ろうとすれば、俺たちのほうが逮捕されるはめになる」
「……くそっ」
「もう一度予約の交渉はできないのか、午後からでも」
 後部席から別の同僚が訊いた。
「無理だ、日本訪問が入ってる。今日を逃せばあとは1週間後まで待たなきゃならない」
 言いながら気づいた。これがメナンデスの意図なのだ。
 なるほど。俺に単身で来いと、そういうわけか。
 あの男は最初から捜査局の連中と会うつもりなどないのだ。狙いは久下正禅の息子である哲笙ひとり。今まさにその哲笙の首根っこを掴んで、満足そうにほくそ笑んでいる姿が目に浮かぶようだった。
 それなら。
 哲笙にはすべてを切り札にする決心がついた。車窓を閉めて、同僚たちを振り返ると手早く説明する。
「予定変更だ、俺は単独で入る」
「久下」
「どういう意味かわかってるのか」
 それには答えずに、内ポケットからメモを取り出して何か書きつける。
「いいか、このまま戻って本部と連絡をとってくれ。例の写真もすべて洗いざらい本部長に話して聞かせ、できる限り証拠の裏付けをたのむ。それからここにあげた銀行を全部まわって、貸し金庫をひとつ捜し出してほしい」
「貸し金庫?」
 カルティニが、訝しげに訊きかえして渡された紙片を見る。そこにはキュカリでも大手の銀行名が並んでいた。
「鍵は俺の母親が持ってる。時間がなくてどこの銀行か調べられなかったが、このうちのどれかに、俺の両親の名義で金庫がひとつ貸し出されてるはずだ」
「それは……」
「多分、納得のいくものが入ってるから。もし俺が24時間以内に戻ってこれなかった時は、護衛部責任者の高遠というひとに連絡をとってくれ」
 ドアに片手をかけた彼に、カルティニは言った。
「哲笙、早まるんじゃないぞ」
 一瞬、哲笙は困ったという顔を作って見せた。
「何で早まるんだ。いくら俺でもクリムゾンで死ぬのはごめんだぞ」
「バカ、あたりまえだ。おまえなら地縛霊になりかねない」
 彼の悪態に破顔一笑して、哲笙はセダンを降りた。その胸に不思議と恐れはなかった。
「ビジター用のIDカードです……どうぞ」
 ガードマンはそう言って、小さなプラスティックのカードを差し出した。




 この敷地を最後に踏んだのは、もう1年半ほど前になる。
 正式な辞令もないままに、上司だった高遠から、ストライカーズで有能な人材を探しているから君を推すがどうだろう、と告げられた。オブラートで包まれたような言葉の奥にも揺るぎない命令を嗅ぎとって、哲笙は自分に選択権がないことを悟った。
 その気があるなら特務課へ推薦状を書いてやると言われ、さすがに気持ちが揺れた。
 特務官は4年制大卒者のみで、捜査局でも最低10年の経験を積まなければなれないと聞いていたからだ。哲笙は大卒者で最年少ということになる。
 ……あの時は、こんなふうにして再びクリムゾンの敷地に足を運ぶ日がくるとは夢にも思っていなかった。
 セキュリティの見守る玄関を通過する。ビジターのIDカードはジャケットの胸についたままだ。
 ホールの床には大きくクリムゾンの紋章が描かれている。職員のIDに押されているスタンプと同一のデザインで、遠目にもそれと判る深紅だ。
 金で縁取りをされた真円に鷹の羽根がデザインされたその紋章の上を、哲笙は靴音も高らかに横切ってゆく。
 エレベーターに乗り込むと最上階のボタンを押す。局長室には何度か足を運んでいたので、表示を見る必要もなかった。
 エレベーターが止まると長い廊下に出る。哲笙は何度目かの角を曲がり、局長室の前で足を止めた。左手で強く3回ノックを繰り返す。
 ドアが開いてあらわれた秘書に、捜査局のIDを見せた。
「捜査局特務課の久下哲笙です」
 局長室の前には秘書室があって、そこを通らなければ局長には会えないことになっている。
 べっ甲の眼鏡をかけた女性秘書は、丹念にIDを見つめていたが、やがて哲笙を見上げてうなずいた。
「どうぞ、おかけになってお待ちください」
 哲笙は中に入って革張りのソファに腰かけた。秘書が受話器を上げて二言三言何か告げると、ほどなくしてもうひとつのドアが開き、局長室からずんぐりした男が姿をあらわした。
 哲笙がここにいた頃は先代局長だったから、メナンデスに直接会うのはこれが初めてということになる。
 メナンデスの金縁眼鏡が蛍光灯に鈍く反射して、立ちあがった哲笙の瞳が思わず険しくなった。
「やあ、久下特務官だね」
 彼はそう言って右手を差し出した。しかし哲笙はそれに応じず、握手を完全に無視した形で微笑を浮かべる。
「予約の確認もできないほどご多忙中のところを申しわけありませんが、少々お時間とらせていただきます」
 これしきのことで慌てもしないと承知しているから、哲笙は平然と皮肉をこぼした。
 思った通り、彼は表情も変えずに片手を伸ばして局長室へと哲笙を促す。
 室内へ足を踏み入れてから妙なことに気がついた。局長室のドアがさきほどの秘書室のものよりだいぶ厚い。
 防音扉?
 以前ここに来た時そんなものはなかったはずだと思ったのと、中央のソファから誰かが立ち上がって振り返ったのが同時だった。
 すらりとした体躯に黒髪のその人物を認めた瞬間、哲笙の身体は心臓を掴まれたように硬直した。
 まさか。
 そんなはずはない。
 乾いた砂を吸いこんだ時の埃の匂いがして、頭のどこかで低い唸りが聞こえた。
 空回りするモーターにも似たその音はやがて鎮まってゆき、哲笙はやっと声を絞り出す。
「霞月……!」

 

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