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「よお、藤女。恐喝未遂だって?」
「恐喝未遂に誘拐未遂。拳銃つきつけられたんだぞ」
 バターの箱やブロッコリーの飛びだしている紙袋を指先で引き寄せてから、彼はへえ、とでも言いたそうに眉をつりあげる。
「それにしては、その凶悪犯たちが大ケガして病院に運ばれたのに、おまえが無傷でピンピンしてるってあんまりじゃない?」
「うーん、やっぱりツメが甘かったか」
 そのつぶやきを聞きとると、端正な顔立ちが一瞬にして優しい兄の表情になる。女の子を口説く時のお決まりの表情だ。
「おまえが無事で何よりだよ、あんまり危なっかしいことするな」
 大きな手で頭をくしゃくしゃと撫でられ、藤女はむくれたように頭を振ってのっぽの幼なじみを睨みつけた。
「あたしはおまえが思ってるほど弱くないぞ、紗宗」
「おっしゃるとおり、護身術で君の右にでる者はいないです」
 膝をかがめると鼻先がふれあうほど顔を近づけて、子供をあやすような笑顔を作る。取ってつけたようなその物言いに、藤女はますます不機嫌になった。
 子供の頃から一緒に育った藤女の幼なじみは、都合が悪くなるとすぐごまかすから本心が見えない。手足の長い白人並の体格と、笑うと印象がまろやかになる外見が、効果に一役も二役も買っているのだろう。
 そんな不思議な雰囲気の持ち主の清劉紗宗は、ひとなつこさを利用して真実も虚偽も遠ざけ、平和主義者を気どっている。
 小学生の頃、近所に引っ越してきたふたつ年上の上級生――それが彼だった。
 ひとあたりがよく人気者だったが、その頃から広く浅いつきあいを好んでいた。家に出入りしている多種多様な大人たちにもまれて、知らないうちに本当の自分をまもる術を身につけていてもおかしくはなかった。
 だから彼の素顔が知りたくて、父の道場にこないかと誘ったのは藤女のほうだった。年下だというのにすでに黒帯の彼女にライバル意識を燃やしたのか、紗宗はすぐ熱心に練習に参加するようになった。
 一歩ずつ近づくたびに、誤解もあった。時には本気でケンカもした。そうして二人は親友になった。
 紗宗の父親が再婚したばかりだと、藤女はその時初めて知った。

――再婚て、よく判んないけど、お母さんが死んじゃうのとは違うんだろ?
――違うよ、でももう前みたいに一緒には暮らせないんだって。 
――ふうん。じゃ会いに行くのは? それならできる?
――多分。
――あたしのお母さんは死んじゃっていないんだ。だからもう会えないけど……紗宗のお母さんはまだ生きているんだから、大きくなったら一緒に会いに行こうよ。
――お母さんに、会いに?
――うん、あたしもお母さんて呼んでも怒られない?
――怒られるわけないだろ、藤女は俺の大事なともだちだもん。

 けっきょく紗宗の本当の母親にはまだ会ったことがないが、それは彼が、その日を境にそれまでの新しい母親とのぎこちない関係を、みごとに改善した証拠だと思っていた。
 実際、継母はたぶん、本当の母親とすこしの差もなく彼を愛している。藤女自身、その陽気な継母を“お母さん”と呼んで慕っているほどだった。
「……どうする、このまま帰るのか?」
 簡単な調書をとったあと、帰りじたくをはじめる藤女を見て紗宗が訊いた。
「うん、車で来てるから」
「そうか、じゃああとでな」
 ほほえんで藤女の頭をだき寄せると、その髪に軽くくちびるを押しあてる。シャンブレーの青いシャツの裾がひるがえり、頼りになる幼なじみは歩きだした。
 彼はいつもそこに居る。呼べばすぐに駆けつけてくれる。こんなふうに絶大な信頼を感じる人間を、他に知らなかった。
 彼を見送ってから、藤女はゆっくりと車のイグニッションにキイを差し込んだ。


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 車をとめて、両手いっぱいに紙袋をかかえながら家の前までくると、見なれない男がひとり立っていた。
 つやのある黒髪。褪せたインディゴ色のリーバイスに、黒のポロシャツが玄関の明かりに浮かぶ。見たところ、男はドアの前でノックの返事を待っているといったふうだった。
 藤女は足をとめてスーパーの名前入り紙袋のあいだから声をかけた。
「そこで待ってても誰も出てこないよ」
 男がふり返った。
 定期的に身体を動かしているのだろうか、ふれたら鮮やかなしぐさで切られそうな動作だった。
 シャツのそでから伸びた小麦色の腕はよく引きしまっており、胸板は厚い。振り向いたとたんに、体じゅうからはがねのような硬い印象が消えた。
 はねあがった眉の下の鳶色の瞳だけが、まっすぐに藤女を見つめて隙もあたえなかった。
 動きの滑らかさが、猫科の大型動物を思わせる男だ。
 なんだ、まだ若いひとじゃないか。同じ年くらいか。
 顔を見た時、藤女は何の理由もなくそう感じた。
「失礼だが、ここに住んでいるかたですか?」
 予想に反して、くちびるから滑りでたのは低くてしっかりした響きだった。思ったより年上なのかもしれない。
「そうだけど。ちょっと、ドアあけて」
 ぶっきらぼうに顎をしゃくると、彼は左手でノブを回して彼女を中に通してくれた。
 再生紙を利用して作られた紙袋が、盛大な音と共にキッチンのテーブルの上に放りだされる。
 続いて男が踏みこんできた。藤女は男の頭からつま先まで、値踏みするように睨みつけてやる。
「この家に何か用? こっちも夕食のしたくがあって忙しいんだけど」
 訪ねてくる以上、さきに名乗るのが礼儀ではないかと思っていた。
 歓迎されていないことが一目でわかるその態度にも、男は顔色ひとつ変える様子も見せなかった。他人に煙たがられるのは慣れている、というように無言で室内を見回している。
 西洋風の間取りのこの家は、玄関をくぐるとすぐにリビングルームになっている。
 ドアの横には二枚続きの大きな窓があり、カーテンをあければ南国の日差しがたっぷりと入る。窓ぎわには大人が4人は腰かけられるソファがあり、右側の壁に沿って使いこまれたオルガンが置いてあった。
 壁紙はクリーム色で、小さな額縁がいくつかかけてある。男はそれが人物の写真でないことを確かめ、今度はキッチンに目をうつした。
 冷蔵庫のドアに、飾りのついたマグネットで雑多なものが留めてあった。メモや絵葉書や通知のようなものに混じって、小さな切りぬきもある。
 雑誌から切りとられたらしい、ベンガルの子供のカラー写真のところで男の視線はとまった。
 タビーではなく、豹そのものの斑点を持つ金色の猫だ。黄緑の萌えるような瞳を持ち、子猫ながら猫のなかでは最もジャングルに溶けこむ容貌をしている。
 写真から視線を外して、やっと男が口をひらいた。
「ここに、久下キショウという男がいると聞いたんだが」
 聞きなれない発音に思わず眉根をよせる。
「久下……キショウ、だって? あんたどこのひと?」
「いや、勘違いならいいんだ」
 再び子猫の写真を見てから踵を返すその腕をとって、藤女はあわててひきとめた。
「ああもう、いるって。いるからちょっと帰らないで」
「いるのか?」
「いますよ、二階の左のつきあたり。でも……」
 言いかけるのに耳も貸さず、男はそのまま階段をあがってゆく。
 しかたなく藤女もあとを追った。
 この家はもともとペンション用に建てられたもので、二階の三つの部屋は現在アパートとして貸しだされている。藤女のほかに住人は二人で、個人の部屋以外バスルーム、キッチン、リビングなどはすべて共同だ。
 男はいちばん奥にある左側のドアをノックした。返事はない。
「だめだよそんなんじゃ、あいつどうせ寝てんだからな」
 言うが早いか彼をおしのけて、拳でドアをたたきつけながら怒鳴る。
「紀柾っ、起きろ!」
 かすかに男が目を見開いたような気がした。
「いつまで寝てるんだよ、すぐ夕メシだぞ。こら聞こえてんのか、紀柾!」
 そこまで言うとやっとドアが内側にひらいて、タンクトップにショートパンツ姿の若い男があらわれた。
「うるせえな。ったく、おまえといい波葉といい……」
 片手に縁なしメガネをぶら下げ、頭には寝起きを証明するねぐせがばっちりついている。
 藤女をひとめ見るなり、これ以上は無理と言わんばかりの不機嫌な声が口から飛び出した。
「俺の同居人はほんとに、どうしてこう男勝りなやつばっ――」
 文句はそこでとぎれた。隣にいる男に気づいたらしく、手にしていた縁無しメガネをかける。
 同じ目線で切りこむように藤女は訊いた。
「客が来てんだぞ、もうちょっとマシなかっこうしたらどうだよ?」
 その時だった。
 突然、隣の男が何事かつぶやいたので、藤女は思わずとびあがるほど驚いた。
 男が話していたのはクカ語だったのに、紀柾の姿を見たとたんにそれは理解不能な地方の言語になっていた。
 対する紀柾の言葉も同じだった。藤女にはまったく判らない言葉でまくしたて、ドアを閉めようとする。
「き、紀柾?」
 藤女は反射的に、つま先を戸口に滑りこませた。
 また男が何か言った。脊髄に響く声。静かな中にも確かに圧力を感じる口調だった。
 何が気にくわないのか、怒鳴り散らしてドアを閉めた紀柾の声には、怒りとかすかな畏怖が感じられた。
「ちょっと、何すんだよ、紀柾!」
 何が起こっているのかまったく判らない藤女は、その仕打ちにひどく腹を立てて両手を握りしめる。
「むだだな、こういう時は一度言い出したら当分態度を変えない。まったく……誰に似たのか」
 男は独りごとのようにつぶやいた。言葉は再びクカ語になる。なまりも誤りもない完璧な話しかただった。
「あの、あんたいったい、紀柾の何?」
 紀柾は喜怒哀楽のはっきりした男だけれど、見ず知らずの人間に怒鳴ったりしないはずだ。彼にそこまでさせるなら、この男はよほど関係があるに違いなかった。
 返事を待つ藤女を男の鋭い瞳が射る。
「俺は久下哲笙。あのバカは弟だ」
「えっ、紀柾の……兄弟?」
「キマサなんて呼ばせてるんだ、どうせ言ってないんだろう。兄貴がいるなんて」
「どういうこと」
 言っていることがよく判らなかった。そんな言いかたではまるで――。
「キマサ、っていうのは正確な読みかたじゃない。親がつけた本当の名前はキショウというんだ」
「……なんだって?」
 藤女はその時、信じていた何かが崩壊していく音を頭の片隅で聴いた気がした――。

 

 

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