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20

 

 九雁銀行の貸し金庫から美凪が取り出したのは、封筒に収められた数ページに渡る供述書だった。
 告白については正禅が行ったもので、麻名城に命じて作成させたらしく、きちんとワープロでプリントされている。最後のページには、公証人と正禅の両名の署名がしてあった。
 『美凪、哲笙、それから紀柾へ』という書き出しで始められたその文書を、美凪はパシフィック・キャスルの一室で読んだ。




 美凪、哲笙、それから紀柾へ――。
 おまえたちがこれを読む頃には、私はもうこの世にいないかもしれない。けれど決して騙していたわけではないことを、覚えておいて欲しい。
 私はキュカリ国の通産大臣として国に仕えてきたが、ここまで権力を大きくするのにはたくさんの協力が必要だった。若い頃から大して尊敬もしていない上の政治家にこびへつらったり、国民からはあまり歓迎されない事業に携わったりしてきた私は、倫理という言葉にかなわなくても、罪悪感など感じないような歪んだ精神を持つようになった。
 以前はそれが政治家としては当然で、勝ち抜くためにはそのぐらい狡猾でなければならないと考えていた。莫大な富と権力はそういうものに使うためにあるのだと。
 私は、神も仏も信じていないし今も宗教には関心がないけれど、人間の人生を左右する何かはもしかしたら何処かにあるのかもしれない、と思うようになった。出世のためによかれと思って汚したこの手で、結局自分の首を絞めるはめになったのだから。

 正式な記録を残せなかったので数字は少々曖昧だが、2年ほど前に私は嘉納かのう建設という大手の民間企業の紹介で、ある外国企業から献金を受け取った。献金という名目にはなっていたが、これはつまり私と加納建設で使っていい賄賂だった。
 しばらくしてからそれをどこからか嗅ぎつけたある人物が、そんな陳腐なことをしていないで堂々と金を使えるようにする気はないかと打診してきた。それが――国際情報調査局のホルヘ・メナンデスという男だ。
 彼はある国際貿易条約を持ち出し、私に大統領を説得してこれをアジアの先進国で受理させろと言った。その条約は、いままで不当に高かったキュカリ国の輸入税を引き下げるかわり、入ってくる外国企業には厳しい規制をつけるということになっていた。
 表向きはそれで平等に見えたけれど、少し頭をめぐらせればこの規制が高業績を収めた一部の大企業にしか適応されず、成長を続けている中小企業には関係ないことに気づくはずだ。
 キュカリに入ってくるこれらの中小企業のほとんどが、華僑財団の胡家の傘下企業だ。
 この巨大な財団はおそらく近いうちに世代交代が行われる予定で、その総帥に誰を推すかで二極に別れている。頭の固い保守派は今までどおり胡家の長男に継がせようとしているし、急進的な連中は総帥の甥にあたる者を一族の長にしようと必死だ。
 メナンデスはこの急進派の上部と手を組んで、密かに彼らの成長株である中小企業に利益が流れ込むよう条約を制定した。そしてそのかわりに、彼らから資金を募ったのだ。

 メナンデスという男は、私には精神の均衡が狂っているとしか思えない。なぜならあの男の頭の中には、何やら背筋も凍るような独裁計画が渦巻いているのだから……。
 彼はクリムゾンを世界の頂点に立たせ、楽園を築き上げるのだと言っていた。誰も何も隠せず、戦争を企てたり一国の主を暗殺しようとする反逆者をも抹消した、真の楽園を。そしてそれが平和だと信じて疑いもせず、すでにアジアはおろかアメリカ、ヨーロッパまで触手を伸ばしている。
 この文書を読む頃、天の気まぐれでもしかしたらすべてが明らかになっているかもしれない。私はそう願いたい。けれど、もしそうでなかったら……メナンデスだけは、決して赦してはいけない。
 あれは、役職に溺れて悪魔の囁きに耳を貸してしまった――いわば狂者なのだ。

 クリムゾンがその力を駆使すれば、大臣をひとり刑務所送りにすることも不可能ではない。私は躊躇したが交換条件をひとつ出してそれを承知した。その条件が、クリムゾンに勤める息子の哲笙を解雇させるというものだった。
 私は局長自らここまであくどいことをしているような機関に、自分の息子まで売り渡したくなかった。もとはといえば、私のわがままで息子を国務めにしたのに、こんなことになって結局おまえを振り回してしまった。哲笙には済まない思いでいっぱいだ。
 こんな父親だから、息子たちから慕われる理由などどこにもない。紀柾は動物的な本能で心の汚れた連中を見抜いているらしいが、哲笙、おまえは父という肩書の前で柔順になろうとするあまり、常識的なところに止まらざるを得ない。先を見ようとばかりせずに、今自分の目の前にあるものも信じていきなさい。
 ひたすら自分の目標に向かおうとした紀柾も、私が頭ごなしに叱ったのは決しておまえが憎いからではないということを覚えておいてほしい。長いこと顔も合わせていないけれど、お節介な秘書が一々報告しにくるので、おまえが関わったという仕事は時々耳にしていた。私は肺ガンで、とうてい長生きできるような身体ではないそうだ。おまえが独り立ちするところを見られないのが実に残念だ。
 ――それから、美凪へ。
 約束を守れないことを許してほしい。君のことだからさぞかし私に腹を立てているだろうね。私はちゃんと待っているから、慌てないでゆっくり来なさい。
 財産のことはすべて顧問弁護士に頼んであるから、心配はいらない。私自身の身勝手な行為と、迷惑をかけたすべてのことに謝罪を述べると共に、キュカリの繁栄を願ってやまない。


久下正禅





 哲笙は病院のベッドの上でその文書を読み終えると、たまらずに肺の中の空気を吐き出した。
 思っていたよりずっと家族のことを考えていてくれた正禅に、目の奥が熱くなる。彼の気持ちを知っていたなら、もっと気遣ってあげられたはずだった。
 いつだって最終的には好きなようにさせてくれていた。振り回されてたなんて考えたことは、一度だってなかったのに。最後まで正禅に誤解させたままだったと知って、哲笙は唇を噛んだ。
 思ったままを臆せず口に出せばよかった。
 ひとの人生は先が見えない。だから価値があるのだが、その運命に甘んじて言葉をうまく使えないのなら、思わぬ後悔につながることもある。哲笙は文書をきちんと折りたたんで、ベッドに背中をあずける。
 負けを認めたくないと願う、その弱さのあまり刃向かうことしか知らぬ人間なら、メナンデスと同じように自分も反逆者ではないのか――。
 心の中でそう考えてからつぶやく。
「あれほどあくどいことをしていたメナンデスが、投獄もされずに死んだことが心残りだけど……クリムゾンはもう以前のままではいられなくなるんだろうな」
「そのことで会見があるみたい。テレビ、つけてみる?」
 哲笙がうなずいてみせたので、彼女はリモコンに手を伸ばした。24時間ニュースを流しているチャンネルに合わせると、ちょうどストライカーズの代表者が会見に臨んでいるところだった。
 ――それによると、今回の事件についてクリムゾンに多数の査察官が入った結果、10名を越える職員が関係者として解雇され、メナンデスによってもたらされた被害は多額に及んだ。これを案じた大統領は自ら捜査局長に連絡をとって、正式に査察部を導入するよう依頼した。査察部によってクリムゾンは定期的にチェックされ、不正や外部との癒着を防ごうという方針である。
「これからは、クリムゾンとストライカーズのミゾがますます深くなってしまいそうね……本当にこれでいいのかしら?」
 サイドテーブルによく冷えたアイスティーのグラスを置いて、美凪が口をひらく。
「それが目的なんでしょう。国を守るクリムゾンが政界と強いつながりを持つのは避けられない事実だし、それなしではキュカリは成り立たなくなる。だったら、警察組織の頂点に立つストライカーズをそこへもってきて監視させよう、ということかな。この2つの機関はもともと折り合いがよくないから、逆にその関係を利用して高めあってゆけばいい」
 そこで哲笙は、テレビのスピーカーから聞こえてくる声に耳を澄ませた。
『――大統領は、査察部を創設するにあたってこうおっしゃられました。〈Aim true〉と……。我々はこれを、そのまま査察部のスローガンとして掲げてゆくことをここに報告します』
「『エイム・トゥルー』って、どういう意味だよ?」
 椅子に座ったまま紀柾が訊ねた。
「『狙いを誤るな』ってことさ。ストライカーズの初代局長が、創立当時職員全員に向かって言った言葉だ。査察部の役目は、つかず離れず真実を見たままに報告すること。狙いは真実、それのみ。これでもう、高遠さんのような危険なアンダーカバーの仕事もなくなるな」
「その高遠さんて方ね、ひどく怒ってたわよ。おまえが命令を無視したーって。ききわけのいい男だと思ってたのに、ネコかぶってたんだなんて言ってたわ」
「……ホントのことじゃねえか、今頃気がつくなんて遅いんだよ」
 哲笙の左手が、それを聞いたとたんに遠慮なく紀柾の後頭部をはり飛ばした。
 外科手術を受けた右のてのひらと腕には、派手に包帯が巻かれたままだ。主治医は後遺症が残るようなことはないと言っていたが、完全に回復するのにはリハビリテーションが必要だった。
 リハビリをしてる間くらいは待ってやるが、治ったらさっさと持ち場に戻れよ、おまえのデスクに積まれたファイルまで面倒みてやるほどの友情じゃないぞ、とカルティニが電話口でぼやいていたのを思い出して、哲笙はひとり失笑した。

 

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 カムナギシティの目抜き通りは、相変わらずたくさんの人と車が行き来していた。
 ここキュカリの夏場は、午後になると気温が高くなってとても動けたものではないので、人々は涼しい午前中か日の暮れる頃にいちばん活発になる。エアコンのよくきいたビルに勤めているのなら話は別だが、真昼近くにあくせく働く人間はあまりいない。
 この国で道を歩いていると、すれ違うひとたちがにっこり微笑んだり挨拶してくることがよくある。知っているひとでもそうでなくても、キュカリ人であろうとも外国人であろうともそれは同じだった。目が合うと笑みを返したり、元気ですかといった意味の言葉を投げかけてくることもある。
 キュカリのひとたちにとってこれは、『わたしにはあなたの姿が見えてますよ』と言うのと同じくらいの意味なのだ。彼らは、目が合ったらそうするのが礼儀だと考えている。
 親しい友人同志が道でバッタリ会えば、もっと派手になる。友人間ではすぐ食事の話題になるのが普通だ。
 おい、景気はどうだい、ちょっとそこで何か食べながら話さないか――?
 そんな台詞が挨拶がわりだ。よく知ってる間柄で、この話題を持ち出さない者はいない。キュカリのひとは食べることと喋ることが大好きなのだ。
 だから涼しい朝のうちは歩道に洒落たテーブルやイスが並び、街はひとで溢れかえっている。ぱりっとしたスーツを着こなしたエグゼクティブたちも決して少なくない。これはブランチ・ミーティングと呼ばれ、彼らは軽い食事を取りながられっきとした会議や商談を行っている。そして太陽が天高くなると、空調の効いた涼しいオフィスへ戻って仕事をするのだ。
 もちろん中にはデスクにはりついたままのひとも、炎天下の中を歩き回って仕事をするひともいる。キュカリ国ではスタンダードという言葉ほどあてにならないものはない。それぞれが自分の意見を持っているし、ひとと違っていても別に気にもとめないからだ。この国の印象はと訊ねれば、人口の数だけの答えがあるに違いない。
 それでも、ひとと違うことを恐れもしないキュカリの人々は言うだろう。すれ違う誰かと目があったなら、迷いもせずに。民族や習慣や言語の違いを越えて。
 大丈夫、わたしにはあなたが見えてますよ、と――。

 

 

 キュカリ中を騒がせた、クリムゾンのスキャンダル発覚から5か月後――。
 藤女は、今日のクラスをすべて終えて、大通りへと出たところだった。洗ったばかりの髪が暖かい1月の風に舞い上がった。はっきりとした四季の変化がないこの国でも、11月から2月までは湿度がぐっと下がるので過ごしやすくなる。
 たくさんのひとが横を通り過ぎてゆき、彼女は銀行の前に建っている時計台に目を走らせた。
 5時すぎ。
 今夜は、7時半から波葉の劇団の追加講演を見にゆく予定である。波葉は去年の暮れに、『砂漠の果てに』という公演で、アマチュア劇団の最優秀新人賞に選ばれ、今年はその追加公演で夏まで大忙しだ。
 今日はその初日なので、彼女の友人として藤女も招待されていた。 これから軽く何か食べて、いったん帰って支度しても……じゅうぶん間に合うよな。
「……藤女さん?」
 そんなことを考えながら道を歩いていると、突然声をかけられた。振り返った瞳に、佑久モリノの小柄な姿が映る。
 灰色がかったラベンダーのパンツスーツの肩に、前に見た時より長くなった髪が落ちている。買い物帰りだろうか、彼女の手には小さなデパートの紙袋がひとつ下げられていた。
「モリノさん! 久しぶり、元気でした?」
「この間は、ごめんなさい、自分勝手なことをしてしまって――」
 感情的になったまま、久下邸を出た時のことを言っているのだと気がついて、藤女は即座に首を振る。
「ううん、謝らないで。モリノさんは何も悪くないんだから……あの、紗宗のこと、嫌なヤツだと思わないでやってください。あいつ、すぐ自分の殻に閉じこもるとこあるから――」
 モリノは目を細めてそんな彼女のあとを受けた。
「そうやっていつもフォローするの? 幼なじみの存在って偉大ね」
「あたしは、あいつのためなら何でもします」
 平然と言ってのける藤女に、軽い憧憬にも似た気持ちがモリノの胸に浮かぶ。
「じゃあ、藤女さんに免じて許さなければならないわね」
「でも、モリノさん、あなたもあたしの大事な友達なんですよ。モリノさんが願うなら、あたしが紗宗を一発ぐらい殴ってもいい」
「え?!」
「……気心が知れてるんだから、それくらいで怒りゃしませんて。幼なじみってそういうもんです」
「す、すごいのね……あ、そうだ、少し時間あるかしら? ちょっとそこで、お茶でもどう?」
 軽く食事をするつもりだった、と頷いて藤女は彼女と近くのビルの上階にあるレストランに入った。
 まだ時間が早いせいもあって店内はほとんど客もいなかったから、二人はいちばん眺めのいい窓際のテーブルに案内された。
 窓からはクウリュン市のほぼ全景が見渡せる。西に巨大な太陽を携えたまま、一部イルミネーションを灯しはじめ夕暮れに染まってゆくその光景は、息をのむほどに美しかった。
「今日は、どうしたんです、こんなところまで来て買い物?」
 しばらく景色を楽しんだあと、藤女が尋ねた。
「実は、これから取材が入ってるの。私、今度友人と企画して、新しく雑誌を出版することになってね、今日はその創刊号のために、副編集長自ら出て来たってわけ」
「へええ……えッ、副編集長?!」
 大きな瞳を見開いて驚く彼女に、モリノは笑顔を見せた。
「びっくりしたなあ、ずいぶん若い副編集長ですよね」
「あら、私のこといくつだと思ってるの?」
 口には出さずに、確か哲笙より2つ下だと計算する。
「やることさえやっていたら、この齢になれば珍しい役職じゃないと思うわよ」
「おめでとう、ですね。頑張ってください」
「ありがとう。あ、そうそう、齢で思い出したんだけど……」
 モリノはそう切り出して、脇に寄せてあった紙袋を手にとった。
「藤女さんに頼んじゃおうかなあ、これ」
 アクアマリンの瞳が悪戯っぽく彩られてゆく。
 藤女は眉を寄せた。
「なんですか」
「来月2日がね、哲笙の誕生日なの。私、今日しか空いてる日がなくて、衝動買いしちゃったんだけど……近く彼に会う予定ある?」
「ええ、まあ」
 近くどころか、今日これから行く劇場に彼も来る予定だとは言い出せず、うなずいてみせる。
「良かった、壊れ物を買っちゃったから郵便で送るわけにいかないし、会いに行くのは気が引けるから。藤女さん、渡してくれる?」
「それは構わないですけど……モリノさんはいいんですか」
 訊いた藤女の核心を突くように、モリノは問い返した。
「藤女さん、哲笙のこと――好きなんでしょう?」
 ぎくりとした。
 他の誰かならともかく、相手はモリノである。彼女だって、まだ哲笙への思いをふっ切れたわけでないことを多少なりとも知っているから、はっきり肯定もできない。
「えっと」
「いいの、遠慮しないで。私の肩書はもうとっくに『別れた妻』なんだから」
 と、モリノは続けた。
「これからもずっとね。私は甘ったれで、傷つきたくないばっかりに自分から離婚を言い渡したくせに、ひとりでは気持ちの整理もできない。本当にどうしようもない女だと思うわ。哲笙にいつまでもひとりでいられると、落ち着かなくて……困るのよ。早く他の誰かと、ちゃんと恋に落ちてくれないと、気になって仕方ないんだもの」
「……それ、哲笙に言ってみたんですか」
「言ったわよ、だいぶ前にね。私では駄目なの。それはよく判ってるの。私では、彼のことを理解してあげるのは無理。あのひとと一緒にいると、わがままを言って甘えて、頼って……何もしてあげられない。なのに、彼にいつまでもひとりでいられると、期待してしまう。もしあなたが哲笙のことを好きなら、少しは救われるんだけどな」
「どうして? あたしはきっぱりと言われたんですよ、『一生きみに惚れたりしない』って。哲笙は、あたしのことなんか女だとも思っていない」
 グラスの水を飲み干して、憮然としたように藤女は言う。モリノはあっさりとそのあとを繋いだ。
「あなたの中の闘争心を見越しているから、そう言ったのよ。簡単に引き下がるひとじゃないでしょう、藤女さんは」
「……確かにそう言い返しましたけど」
「あなたはその強さが、どれだけひとを惹きつけるか知らないのね。哲笙の心がどこに向いていようと、ひたむきなあなたには理屈なんか通じないもの。そういう感情こそ彼が最も苦手とするものだから、きっと何か影響を与えるはず」
 そうなのかなあ、と気のない返事をして、藤女は腕を組む。
 賭けてもいい、哲笙はいつか――彼女に心を開くようになるだろう。いや、もうなっているのかも知れない、とモリノは考え直した。
 この凛々しいひとは、黙って哲笙の腕の中で護られたりしない。
 理性的な彼を感情の命ずるままに新鮮な衝撃でつらぬいて、怯んだところでぺろりと舌を出すような彼女には、いくら哲笙だって動揺するはずだ。
 そしてその動揺が、冷静な彼の心に波紋を投げかけて、いやでも彼女を見つめるようになる――。
 そこで一旦視線を外して、モリノは息を継いだ。
「私は弱虫だから、楽しかった思い出を捨ててしまいたくないの。未練がましいかもしれないけど、すごく女々しいかもしれないけど、立ち直るのに、だいぶ時間がかかりそうだわ……ねえ、別れた夫の思い出が怒った顔ばっかりなんて、それじゃ悲惨でしょ。だから、楽しかったことを抱えてゆくことも許してね」
「モリノさん、それはあたしが」
 口をはさむことじゃない、と言いかけるのを遮って、モリノは続ける。
「伝えておいて。仕事は今以上に頑張るわ。そして、きっと哲笙の自慢の『別れた妻』になるから、って」
 まだ今は、きちんと顔を見る勇気も湧いてこないけれど、少しずつ強くなれたらいい。 目の前の彼女に、彼だけじゃなく私も影響されているのか。
 少し苦くて、甘い痛みがモリノの胸にぽつりと広がって、彼女はゆっくりとその明るい色をした目を伏せた。

 

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