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 ――キュカリ国の首都・カムナギシティは神名来とも書かれ、古くは日本語に由来していると云われる。
 タラダンは寺段、イヅユルは居露瑠、他にも香府名、尾離島、場破と書かれ、ほとんどの地名には漢字のあて字がついている。
 地名は通常、漢字の他に英語で呼び名がついていて、公の場では両名を並べて表示するのが常だ。例えばカムナギシティは英語では、Kammna Gui City=神名来と表示される。
 独立後も文化面ではアメリカの影響を色濃くのこす国である。英語が公用語として普及しているので漢字の読めない欧米人でも滞在して困ることはほとんどなかった――。




 深い緑をした樹木が、次々と後ろに流れてゆくのを、藤女は見つめていた。
 空は快晴。開け放したエクリプスの助手席の窓から入りこんでくる風が、潮気を帯びて沿岸部に近づいていることを告げる。
 藤女はひとつ大きなあくびをした。
 すぐ先を走っているのは哲笙の運転する車だ。紀柾と波葉が乗っている。
 むくれてろくに口もきかない紀柾を連れて、クウリュン市から3時間半ほど離れたカムナギシティ郊外にある久下邸まで行くことになったが、兄である哲笙と、傍若無人な波葉におどされてしぶしぶ同行を承諾したと言っても過言ではないありさまだった。
 ……どうもあの兄弟は一癖あるような気がした。7年という空白を経て再会しても、抱擁のひとつもない。哲笙は終始一貫して愛想のない態度だし、紀柾にいたってはその兄とは話す口も持たないといった様子だ。
 藤女にも実家に2人の兄がいるが、さすがにこの年になってまで、手加減なしでケンカをするほど子供じみてはいない。
 兄貴というのは下の兄弟に対しては加減をわきまえているのが普通だ。弟妹たちもそれを知っているから、甘えることはあっても理由もなく反抗はしないはずである。
 けれども藤女が見た紀柾の瞳は、あれは兄に対する恐れと、嫌悪感そのものだった――。
「なあ、あの人どう思う?」
 ほとんど黒に見える、目の前のディープグリーンのレクサスを見ながら、運転席の紗宗が口をひらいた。
「誰?」
「冷酷で横柄でいやに自信たっぷりって風情のいかにも俺は性格屈折してるぞって顔に書いてある……」
「……哲笙のことか、もしかして?」
「もしかしなくても他にいないでしょうが! おまえいつから呼び捨てになったんだよ」
「習慣で、つい……いいだろ、どうせそんなに年も変わんないんだろうしさあ」
 そこで、ハンドルを握る紗宗はしばし沈黙した。不吉なことでも聞いたかのようにその眉が険しくなる。
「誰が言ったの、そんなこと?」
「え?」
「久下さんの年のこと」
「だって、見りゃわかりそうなものじゃん」
「あの人……若く見えるけど31だよ。俺より3つも年上だ」
「え?!  ウソだろ」
「ホントだって。俺、聞いちゃったんだ」
「誰に?」
「紀柾」
 再び、しばしの沈黙がおとずれる。 弟が言ってるんだから本当だろうな、と二人は同時に考えこむような顔になった。
「……これまだ久下さんにしか言ってないんだけど」
「うん?」
「おまえたちの家に入ったやつらな、どうもけっこうややこしいとこと関係があるみたいなんだよね」
「どういうこと」
「だからさ、身元が割れたんだけど、調べたらどうももっと大きな後ろ盾がついてるっていうか…」
 ややこしいのは紗宗の話し方だろ、とぼやきながら肩をすくめる。
「あのね、彼らはそれぞれスネに傷持つようなヤツばっかりだったんだ。けど、うまくかくまってた者がいたらしくて、市警察の記録にも載ってなかった。それで久下さんがストライカーズに回したのさ。もしあのひとが関わってこなかったら、迷宮入りになってもおかしくはない事件だったな。警察の記録に手を加えて犯罪者をかくまうなんて、そんなことを誰にも怪しまれずにできるのは上の人間だけだろ……実はそれに続いて昨日から、ウチの部長補佐が消息を絶ってる」
「え?」
「彼の行き先も、生きているのか死んでいるのかさえもわからない。市警の誰もが、今度の件に関わってるのはうすうす気づいてるけど、俺たちにはただ、それを肯定できるだけの十分な証拠がまだないんだ」
「そこまで手の込んだことして、いったい何を狙ってるわけ」
「……誰を、の間違いだろ」
 ちょっと待て、と喉元まで言葉が上がる。
 あの時、家にいたのは4人。紀柾、哲笙、波葉と自分。そのうちの誰が狙われていたというのか。
「いいか、今のところみんな狙われてた可能性を持ってる。でも久下さんは、やつらの一人ととっくみあいになった時、相手の顔から驚きを感じたって言ってた。俺も彼は除外してもいいような気がする。彼があの場にいたと知ってて襲ってくるとは思えない」
「でも相手は4人だったし、それに夜明け前だったんだよ?」
「もちろんそう確定したわけじゃないさ、これはあくまでも俺の推測だぜ」
 そう、推測なのだ。でも妙につじつまが合う気もする。
 哲笙を狙って来たのなら少々手薄、でも他の誰かを狙うには十分というところか。
 そこで藤女の瞳に不安げな色を見つけて、紗宗はさりげなく話題を切りかえる。
「ま、そんなに心配すんな。これだけ人数もあるわけだし、絶対何とかなるから」
「……あんまり説得力ない気もする」
「いつになく冷たいお言葉に嬉しくてめまいをもよおしましたよ僕は」
 とほほ、と情けない声を出し、紗宗は前を走るレクサスに続いてカーブを切った。

 

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 カムナギシティ郊外にある久下邸では、正禅の秘書である麻名城がひとりの女性と向かい合っていた。
 窓ぎわのソファでハーブティーを飲みながら、外国雑誌に見入っているその髪は絹糸のように細く柔らかそうに見える。
 長いまつげにうっすらと紅のさした頬。以前は、夫である哲笙によりそう時のどこかはにかむような、それでいて色を含んだ瞳が印象的だった。
 彼女に会うたび、一種の不可解な感情がじんわりと麻名城の胸にわきあがってくる。
 哲笙さまは持つべきものをすべて手に入れている。地位、権力、英知……数えあげればきりがない。美しい妻を娶ってそろそろ子供を持ってもおかしくない頃だった。
 つい最近まではそう考えていた。ほんの半年前までは。
 なのになぜ、こんなことに――妻一人あしらいきれぬほど不器用ではないはずだった。
 まして彼女の一族はキュカリにとって無下にはできない立場にある。事が事なら国交に関わるおそれもあったのに。
 麻名城の強い瞳を感じとってか、その時ふいに彼女が顔をあげた。
「何か言ったかしら?」
 優雅な英語だった。とっさにいいえ、と首を振ってデスクの書類に目をもどす。
「久下大臣はあいかわらずお忙しくしてらっしゃるのね」
「あなたさまをお引き止めしたくて、わざと遅刻してらっしゃるんですよ。今日はこのあと哲笙さまがおいでになる予定なので」
「そうらしいわね」
「どうぞお泊まりになっていってください。客間のほうを手配してあります」
「……ずいぶん強引だわ」
「何としてもお泊めしろと、おっしゃられましたので」
 おとなしい口ぶりにもはっきりとした意志を聞きとって、モリノは微笑した。
「あなたは変わった人ね、そんないいかたじゃ身もフタもないわよ」
「英語があまり得意ではないもので。お許しください」
「ううん、言葉は間違ってないの。話しかたが妙に人好きするっていうか……きっとそういうところが久下大臣も哲笙も、あなたを気にいっている理由ね」
 麻名城は黙って軽く頭を下げた。
「哲笙は私のことなど口にしないでしょう?」
 ややあって、突然そう問いかける。
「哲笙さまはもともと私どもとは離れたつきあいを好むかたですから。口にしなくても、それで気にかけていらっしゃらないわけではありませんよ」
「そうね。よく見ていれば、きちんと行動にだしてくれるひとだということもわかるはずだったのよね」
 うすいブルーの瞳を楽しそうに細めて、彼女は遠くを見つめるような表情になる。麻名城は今度こそ万年筆を置いてまっすぐモリノに向きなおった。
「――私でよければお話を」
「いやね、あなたは本当に察しがよくて」
 一瞬、躊躇した様子を見せて、ないしょにしておいて、と言いながら膝の上の雑誌をとじる。
「きちんと行動にだしてくれる、と言ったのはそれが身にしみてわかってるからよ。私も哲笙も忙しい職業でしょう? だから式が終わってすぐハネムーンには行けなかった。結婚して何カ月目かに初めていっしょにお休みがとれて……一週間ほどの休暇だったけど、車で旅行にでかけたの。ほら、ひとに紹介されてあわただしく決めた結婚だったでしょ、二人きりで長い旅行に出たのなんて初めてで――たぶん私は浮かれてたのね」
 出がけにハンドクリームをつけるのが習慣だったモリノは、バスルームで結婚指輪をはずしそのままおき忘れた。
 忙しく荷造りをすませてマンションをあとにし、高速道路に乗ってだいぶたってからそのことに気がついた彼女は、運転席の哲笙の左手には真新しい結婚指輪がきちんとはめられているのを確かめてますます落胆した。
 どうしよう。
 まず胸にわきあがったのはそんな感情だった。あの指輪は婚約指輪とセットになっている贅沢なもので、今まで肌身離さずつけていたのに。それも二人の記念すべき最初の旅行で家におき忘れてくるとは……。
 象徴だといってしまえばそれまでだが、モリノはそうやって妻の肩書を確認しなければおちつかなかったのだ。
 哲笙の左手で、モリノの小さな分身がささやいている。
 彼は私のもの。このひとは私の夫。
 彼女にとってそれは束縛以前の問題で、自分たちは夫婦として一体なのだと実感できる物質的な理由だった。だから自分も同じように肩書をつけたかった。
 やがて落ちこむモリノに気がついて、どうしたのかと哲笙がたずねた。彼女はひとことあやまって、うなだれたまま事情を説明した。
 怒られても当然だと思っていた。よりによって彼から贈られた婚約指輪と結婚指輪を忘れるなんて、いいかげんな証拠だと。
 哲笙が流暢な英語を話せるのにもかかわらず、モリノはそれまで自分の中に巣食う理由のない畏怖の念をぬぐいさることができずにいた。眉ひとつ動かさずにひとを裁き、その手で妻を抱くのかと思うと、時々ぞっとした。
 けれども意表をついて哲笙は静かにこう言った。
――ホテルに着くのは遅れるよ。
 あっという間だった。ウィンカーを出して高速道路をおりると反対車線に入り込む。
 車をUターンさせたのだと気がついて、モリノは信じられないという顔をした。
――戻ってくれるの?
――俺はそのままでも構わないけど?
 哲笙は彼女の左手を顎でさしてぽつりと告げる。ああそうか、と、この時初めてわかった気がした。
 君が気にするならとりに戻ろう、と言っているのだ。
――戻って。あれは私のステイタスだもの、ないと困るわ。
 それを聞くと、彼はほんの少し微笑んであとからこう言った。
――君の指に身分証明がなくても、ちゃんとそばにいるから。心配しなくても大丈夫。俺たちはどこから見ても夫婦だから。
 そう、あの時に気づくべきだったのだ。二人の決定的な違いに――。
「……私は、楽しかったことしか思い出さないの。それを支えに生きているから。でも哲笙には、もっと自分にきびしいひとのほうが合ってるのかもしれない。つかず離れず、彼のささえになれるひとのほうが……」
 ローズピンクの口紅の端に微笑をたたえたまま、そこでモリノは言葉を切る。
 さすがに夫婦として暮らしていただけのことはある、と麻名城は思った。確かにこのひとではすこし甘すぎる。
 彼にとって結婚生活とはただ甘いだけの虚構の城ではない。現実感がないというわけではないが、彼女では哲笙のすべてを理解することはむりだ。
 ……結局はお嬢様ということか。
 考えながら、麻名城は目を伏せた。

 

 

 同じ頃、カムナギシティの一角ではスーツ姿の男たちが7人、会議用の巨大なデスクをかこんでいた。
 予算拡大案を持ちだした会議の紛擾は思いのほか長びいて、閉会する頃には全員疲れきっていた。ホルヘ・メナンデス国際情報調査局局長は、ため息をついて針金のように細い金のフレームの眼鏡をはずした。
 フィリピン系二世の彼はずんぐりとしていて小柄な身体に少々大きすぎるような麻のスーツを着ている。左手首には派手なゴールドの時計。これも彼の体格にはサイズが一回りも大きく見える。
 片手で鼻のつけ根をつまむと、じんわりとした痛みが両目にあふれてきた。充血しているのだ。
 今朝は6時半からオフィスに入りびたりだった。2個のブリーフケースいっぱいに収められた書類に目をとおし、昼食をとるひまもなく会議が始まって気がつくと太陽はとっくに西の果てにしずんでいた。
 再びゆるくため息をつくと、思い出したように空腹感がからだの中枢から吹きだしてくる。
 今回の緊急会議は海外要人の護衛費拡大がおもな提議だった。
 東洋では日本と肩を並べるキュカリ国である。とうぜん貿易拡大を求めて欧米や近隣のアジア各国から、訪問者がひっきりなしにやってくる。
 護衛部は高遠という腕利きの男に任せてあったが、その彼からの再三の催促だったのでメナンデスも今回は予算拡大を余儀なく承知させられた。
 立ち上がって会議室を出る廊下を歩きながらメナンデスのスマートフォンが振動した。内ポケットから取り出した小さな端末を見下ろして、メール受信のアイコンを確かめる。内容は『連絡乞う』。
 局長秘書室を通りぬけ、セキュリティ・ロックのスリットにIDカードを差しこむと、暗証番号のボタンを押してドアをあける。
 建物の中ではすべてのドアにセキュリティ・ロックがついている。暗証番号は3回押しまちがえると自動的にロックされ、すぐさまガードマンがかけつけるしくみになっている。
 つまり侵入を企てる者にとっては、じつに高い確率で防犯処置がほどこされるということだ。
 広々とした局長用のオフィスに戻り、メナンデスは後ろ手にドアをしめる。左手にカムナギ市街をつつみこんだ林が一望できる窓は、今はブラインドでその視界がさえぎられている。
 ガラスはすべて防弾用の超硬化ガラスだ。建物の外装は二重になっており特殊なシールドがなされているので、外部からの盗聴は文字どおり不可能である。
 オーク素材の荘厳なデスクは、もともとこのオフィスに備えつけられていたが、ひとめ見た時から気にいらなかった。
 デスクの上のパソコンは彼の私物だ。部屋の端にはベンジャミン。これも手入れはすべて秘書がやっている。
 中央にはコーヒーテーブルと、やわらかな革張りのソファ。
 部屋の隅にある小型冷蔵庫に歩み寄り、中からミネラルウォーターをとるとグラスに注ぐ。空腹を満たすように飲みほして、メナンデスはやっとデスクの上の電話に手を伸ばした。
 盗聴不能のオフィスの電話を使うかぎりは安全だが、決して具体的な固有名詞を使わせないようにしていた。
 番号を押すとすぐに相手が出た。
「私だ」
 デスクの椅子にすわり片手で受話器を掴んでいたが、応対を聞いてあいたほうの手でコツコツとデスクをたたきだす。
「……わかった、始末はまかせる。おまえを使わなくて幸運だったよ。こちらも少々手薄だったようだ、やりかたを変える必要があるな」
 彼の頭にはすでに一案が浮かんでいた。メナンデスはデスクをたたくのをやめると、部屋の中央に向き直る。
「私に考えがある。追って連絡するからそれまで待て」
 受話器の向こうで相手が短く了解すると、メナンデスはうなずいて受話器を置いた。椅子にすわったままパソコンのモニタにからだを向け、スイッチを入れる。
 カギつきのケースから小さなUSBメモリをとりだし、ドライブに差しこんでキーをたたいた。白い画面にウィンドウがあらわれる。なれた手つきでファイルを探りだし機密語を入力した。
 次の瞬間、画面一杯に広がったのはアルファベット順の重要人物の一覧表――メナンデスは迷わずラストネームKの位置へとカーソルをすすめる。
 そのファイルを、メールに添付してさきほどの相手宛てに送信する。
「息子はあとまわしだ……反逆者はジャマにならないうちに消そう」
 メナンデスがキーをたたくと、メール送信済みを示すアイコンに切り替わる。
 メールを閉じると、開いたままのリストの上、久下正禅の位置でカーソルがまたたくように点滅していた。
 
カーソルを見つめながら、メナンデスはこらえきれず、日に灼けた顔をゆがめるようにして笑みをこぼした――。

 

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