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 軽快な音を立てて、哲笙のレクサス・クーペが家の前に止まった。続いて紗宗もエクリプスを止め、外に降り立つ。真夏の日差しを受けて輝く白塗りの壁がまぶたの裏を刺激した。
 レクサスを降りるなり、目の前にあらわれた白亜の豪邸に面食らったように波葉が口をひらく。
「……ここが紀柾のうち?」
 見通しのいい丘の上にそびえたつその家は、玄関前にきらめく水を放つ噴水を構えた二階建て。正面から見るとちょうどUの字形になっていて、玄関の両脇には見事なソテツが葉を茂らせている。
 南国を象徴する蝦茶色のかわら屋根が、洋館と呼ぶにはどこか東洋的な雰囲気を含んでいた。棟の両端からは、凶悪そうな牙をむきだした獅子口が見下ろしている。
 遠い昔、異国の琉球王国や台湾から流れてきた文化は、こうして微妙に形を変えながら、今もキュカリの地に息づいていた。
「デカく見えるけど、キュカリの大臣の中じゃ普通らしいぜ。けっこう古いしな」
 ディープグリーンのレクサスの屋根ごしに、紀柾は建物を見上げて言った。
「ようこそおいでくださいました。私はここの執事長をしております的航生まと こうせいと申します。哲笙さまも、おかえりなさいませ」
 機敏な足取りで家の中から出て来た男が、きちんとした仕草で頭を下げた。
 この国で〈ピタ〉と呼ばれる、膝をおおいかくすほど長いシャツに揃いの白いズボン。腰のところできれいな瑠璃色のサッシュが巻かれている。
 年の頃は60代半ばぐらいだろうか。はにかむように向けられた笑顔から、真珠のように輝く白い歯が見えた。ほとんど白髪になった短い髪にはきちんと櫛が通されている。
 彼のあとを数人の使用人たちが取り巻いて、素早く車のトランクから荷物を運びだしてゆく。とたんに紀柾が嬉しそうな声を上げた。
「航生! まだうちにいたのか」
 目を上げる航生の表情が、あっという間にほころんだ。
「キショウさま! お……お久しぶりでございます」
「元気そうだな、ちゃんと給料上げてもらってるか?」
 不躾な問いを吐きながら、小さな背中に手を回し優しく抱擁を交わす。からかうような物言いであっても、紀柾がこの老人をどんなに大事にしているのか、その柔らかな表情から瞭然だった。
「またそのようなことを――」
「なんだなんだ、ちょっと見ねえうちに湿っぽくなって。これだからトシヨリはやだぜ」
「年寄りでもモウロクまではしておりませんよ。さ、皆様もどうぞ中へ」
 言われて、紗宗が藤女たち二人を先にうながしてから吹き抜けの玄関ホールへと踏みこみ、最後に哲笙が続いた。
 湿度の高いこの国では、床に石材を使っている家屋がほとんどだ。久下邸の床は美しく磨かれた大理石で、廊下はフェニックスの鉢植えや中国明朝の大きな壷などが飾られていた。壁には竜虎が描かれた巨大な屏風がかかっている。
「いらっしゃいませ」
 奥からすらりとした男がひとりあらわれて、まず三人に目礼をした。
「私は、正禅さまの秘書をさせていただいている麻名城宴といいます。キショウさまにも、初めてお目にかかります。何なりとお申しつけください」
 前の三人に対する目礼とは微妙に態度が異なっているのを感じとって、紀柾はふん、と鼻をならして横を向いた。
「親父に会わせろ、言いたいことが腐るほどある」
 いくら有能な秘書でも、久下の人間でないからと連れの者をおざなりにするような男とは話す必要もない、と言わんばかりの口調だった。
 ここに連れて来たのは紀柾の友人たちである。その彼らをないがしろにすることは、久下の家にも泥を塗るのと同じではないのか。
 そんなことすら気づかないようでは、正禅の秘書ながら文句を言う気にもならない。目を合わす価値もないと思った。
 麻名城の顔には、わずかに嘲笑が浮かんだように見えた。けれども、有能なその秘書はすぐに事務的な口調に変わって、今度は後ろの哲笙を見る。
「すぐお連れします。それから……お客様がいらしてます」
「客? 俺にか」
 無言で視線を落とす彼を見て、哲笙はそれが誰かとは問わなかった。
「……あとで会うと伝えてくれ」
「かしこまりました」
 麻名城の痩躯は、そのまま足音も静かに客人たちを正禅の書斎へと導きだした。書斎のドアを二回ノックすると、一呼吸置いて返事を待つ。
《入れ》
 タラダン語で正禅が答え、やや間をおいて麻名城がゆっくりとドアを開ける。部屋の中央にどっしりと構えた大きなデスクが見えた。
《失礼します。ただ今ご子息がたがお着きになりました。キショウさまからお話があるそうです》
《判った、二、三分話しを聞こう》
 デスクで書類に目を通していた正禅の態度には、それを予想していたらしい含みがあった。麻名城はつづけた。
《お連れさまもお通ししてよろしいですか》
 返事を待たずに紀柾は書斎に入った。ずかずかと踏みこんできたスニーカーが、ソファの前を通ってデスクの手前1メートルほどでぴたりと止まる。
 ふれたら切れてしまいそうなほど鋭い双眸を向けて、紀柾は告げた。
「帰ってきたぞ、これで満足か? 親父」
 正禅がもっとも流暢なのはタラダン語である。その父親にわざわざクカ語で言ったのは、ささやかな反逆のつもりだった。
 それを見て哲笙が軽くこめかみを押さえる。
「あんな卑怯な手を使うとは親父も成りさがったもんだな」
「父さんと呼べんのか、キショウよ」
 声に怒りはなかった。
 正禅は単なる言葉のまちがいを指摘したのではない。第三者に対して自分の父親を『親父』と呼ぶのはかまわないが、本人を目の前にしてそう呼ぶことはこの国ではほぼ蔑称と同じ意味になるからだ。
「呼べないね、父親ならそれらしくしたらどうなんだ」
「何年ぶりになるんだ、ちっとも変わってないな、おまえは」
「変わったよ。俺はもう高校生だったあんたの息子じゃない、独立して仕事をもらってる建築家だ。私情をはさんで勝手に仕事をとりあげてほしくない」
「達者になったのは口だけか。なぜ呼び戻されたのか聞いてるんだろう」
「相続権も何もいらない、仕事をもとに戻せよ」
「――おい、少し言葉使いに気をつけたらどうなんだ」
 戒めたのは正禅でなく哲笙だった。まだ判らないのか、という意味も含んでいる。
 その声に視線を動かした正禅は静かにたずねた。
「そちらの方々は友人か」
「同居人の仲乃藤女さんとシャンカール・波葉さん、それにご友人の清劉紗宗さんです」
 矛先を向けられてすくなからず3人はドキリとしたが、背後の麻名城にそう促されてデスクの前のソファに腰かける。正禅は微笑みもせずにうなずいた。
「ああ、聞いている。キショウが世話になった。私はあまり家にもいられないが、麻名城に言って西棟を空けてあるから自由にしてくれたまえ」
「話はまだ終わってないぞ、逃げるな!」
 紀柾のその声に、ブリーフケースを閉めようとしていた手がとまる。
 初めて正禅は険しい目つきになった。
「俺はただの久下紀柾でいい。久下通産大臣の手垢がついたものなんて何ひとついらねえよ。親父に指図されるなんてまっぴらごめんだ。今この場で絶縁したっていいんだぜ、どうせ久下家に次男はいなかったんだからな」
 がた、と哲笙がよりかかっていた椅子から体勢を立て直す。
「大臣は、ぜんぜん判ってないみたいね」
 哲笙が口をひらきかけたところで、ソファから凛とした声がひびいた。波葉だった。
「あたしたちにとって、仕事をひとつまかされるということがどんなに大事なのか……あくせく働かなくても暮らせるだけのお金がある人は、何とも思わないのかしら」
「何が、言いたいのかな?」
「紀柾の立場から考えたら頭にくるのは当然だと思うわ。あたしは紀柾の同居人だから、仕事を勝ちとるために徹夜でドラフト描きあげたり、評価されなくておちこんだりしてたのも知ってる。そういうところを見るたびに、こっちも負けてられないと思うのよ。あたしたちの世界は、お金で左右されるようなところじゃないはずだわ」
「でも事実、金で簡単に動かされるんじゃないのかね、今回みたいに」
 おだやかながらも皮肉めいたものの言いかたは、哲笙のそれとよく似ていた。
 波葉は大きく息を吸いこんで続けた。
「……だから頭にきてるって言ってるんでしょう、のみこみの悪い人ねッ! 実力がモノをいう世界ほど、お金で動かされて熱くなるところはないのよ。こっちは体張って仕事してんのよ、それを横からお金で操作するなんて、理不尽だと思わないの?」
 胸のどこかがかすかに震えるのを感じて、正禅は黙ってその顔を見つめた。数日前に麻名城から受けとった調査書を頭に思いうかべて、口角をつりあげる。
「……なるほど、女優というのは君のことか。勇ましいその声のハリだけは評価されるべきだな」
 あからさまに不機嫌そうな表情を作り、波葉が鋭い視線を向ける。
「大臣は、本当に父親の名に恥じないことをしてるのか?」
 今度は藤女があとを継いだ。 正禅は、おや、というように眉をあげて、ぴんと背筋の伸びた彼女を見やる。
「父さんと呼ばれるのにふさわしい人なら、紀柾がいちばんしてほしくないことをこうも簡単にできるわけがない」
「……では君はきっと、親の愛情を受けてまっすぐ育ってきたひとなんだろうな」
「親は子供を生んだ分、その子の望みをかなえてやる義務がある。でも子供はそれに甘んじてはいけない。あたしはそう教えてもらっただけだよ」
 ぴしゃりとはね返すような口調だった。
 甘えさせるつもりは毛頭もないが、素のままの才能をのばす援助はおしまないということか。
 そんな彼女の育ちのよさを見てとって、正禅は一瞬表情をゆるめた。
「あいにくと私の時間は無限ではないのでね……つづきはまた今度話すことにしよう。哲笙とキショウに言っておく。私はこれからアメリカへ飛ばなければならん。帰るのは二日後になるが、それまでにはおまえたちの母親もここに来ることになっている。私が戻るまでは家にいろ、いいな」
 ブリーフケースを閉じながら息子たちを見るその目には、有無を言わせぬ強さがあった。
 けっきょく謝罪のひとこともなしに部屋を出ていく彼の背中に、紀柾が怒鳴る。
「呼びつけておいてその態度かよッ、帰ってくる頃にはあんたの息子じゃねえぞ!!」
ドアのノブに手をかけながら、正禅は肩越しに答えた。
「……好きにしろ」
 それから思いなおしたように部屋の中を振りかえり、挑むような表情でつけ加える。
「波葉さん、と言ったね? のみこみの悪いやつと言われたのは初めてだ、覚えておくよ」
 言い返す隙もあたえぬ鮮やかさだった。小さく音をたてて閉まるドアを見て、波葉は両手を強く握りしめる。
「たつ鳥あとを濁さず……」
「こんな時に言わなくてもいいでしょ」
 ぽつりとつぶやく紗宗のつま先を思いきり踏みつけて、波葉は彼を睨む。
 その時だった。

 

 

 それまで黙っていた哲笙が大股で紀柾に近づき、いきなり左手を振りあげた。
 日本刀のような鋭さで弧を描き、つづけて紀柾の顔面に振りおろされる。
 張りつめた紙を破るような音があたりに響いた。
 張り飛ばされた紀柾は、壁にかかっていた鏡に頭を打ちつけてわずかに跳ね返った。返す手で紀柾の髪を掴んで、その顔を壁におしつけながら哲笙が言う。
「おまえには……呆れたよ。偉そうなことばっかり言いやがって、出て行った時と何にも変わってないじゃないか」
「い、痛えな、何しやがんだよ」
 喘ぐように言ってわずかに抵抗した。けれども次の言葉を聞いてぴたりと押し黙る。
「俺の話を聞かないなら、二度と口を動かせないようにしてやってもいいんだぞ」
 兄の声には隙が感じられなかった。紀柾の背筋を、冷えた稲妻のような衝撃がおりてゆく。
「……この7年間、何があったのか知らないくせに偉そうな口たたくんじゃねえよ! どんな気持ちで親父がここへ呼んだかわからないのか。上っ面ばかり見てるからあんなことが言えるんだ。建築家なんて、自分で食っていくまでにどれだけかかると思ってるんだ!」
 怒鳴られるたびに、手加減なしで張られた紀柾の頬がひりひりした。しっかりくちびるを噛まなければ、顎がふるえだしてくる。
「おまえは自分で考えてるよりずっと世間しらずだ……今回みたいに裏で大きな権力が動けば、おまえひとり外すことぐらい何でもないんだぞ。これは、仕事をおろされたぐらいで揺らぐような足場など最初から作るな、という親父からの警告だ。自分勝手なこと言ってうちを出てったくせに、そのぐらい自分で何とかできなくてどうする?」
 刃のような鋭さをあらわにした哲笙の横顔には、過去に大統領の護衛もした、特務官という肩書きを持つ敏腕な男の匂いはまるでない。
 そこにあるのは兄の顔だった。
 哲笙は左手に力をこめて、なおも紀柾の頭を壁におしつけながら言う。
「おまえにそうやって教えながら、裏では苦労しないように、せめて息子に何か残してやろうとしてるあのひとの思いやりがわからないのか。7年も音沙汰のなかったおまえにすらそんな心配をしてるひとなんだ――ないがしろにしたら俺が許さない!」
 ああ、何だ。そうだったのだ。
 感情的な哲笙の怒号をきいて、藤女はやっと紀柾をかばおうとしていた両手から力を抜いた。哲笙はすさまじく怒っている。でも、それは紀柾が憎くて怒っているのとは質が違う。
 心の奥深くに流れているのは、もどかしさと――しっかりとした愛情だ。
 どうしてこんな簡単なことがわからないんだ、なぜもっと大人になれないのか、と。
「いつまでも子供じみたことばかり言いやがって……絶縁したいだと? 好きにしろと言ったのがせめてもの親父の情けだ。俺の権限でおまえの望みどおり縁を切ってやるよ! 今日からきさまは久下を名乗らなくていい、さっさとどこへでも行け!」
 それだけまくしたてて手をはなすと、哲笙は背を向けて荒々しく部屋を出ていった。
 残された紀柾は、やっと解放されて気が抜けたというように、クモの巣状にひびわれた鏡を見て息をついた。
「だ、大丈夫かよ? すごい音したぞ」
 紗宗が腕をささえながら言う。
「いってえ、きき腕で殴るヤツいるかよ、あのバカ力。顔ゆがむぞ、まったく……」
 紀柾は、うっすらと赤くはれた頬をおさえて力なく笑った。その瞳がわずかに潤んでいた――。

 

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 珍しく大きな足音をたてて広いリビングルームを横切っていく哲笙を、掃除をしていたメイドたちが驚きの表情で見送る。
 みなお互いに顔を見あわせて機嫌の悪いトラでも見たかのように肩を震わせた。
 哲笙はリビングをつっ切って、使われていない客室に踏みこみ、うしろ手にドアを閉める。
 竹製のロールブラインドのすきまから、金色の刃のような光がさしこんで床に美しい模様を作っていた。ぼんやりとその縞もように視線を落としながら、胸にやり場のない怒りがわきあがってくる。
 しかたなく彼はひとつ大きく息を吐く。深呼吸でもして新鮮な空気を頭に送りこまないと、怒りといらだちで血管がはちきれそうだ。
 けれど、そんなことで憤りが消えるはずもなかった。
「ったく、あのクソ馬鹿ヤロウッ……!」
 左手が動き、手近なところにあったクッションを掴んで力いっぱい壁に投げつける。
 感情的になりながらも、どこかで冷静にながめているもうひとりの自分がいることを、哲笙は知っている。
 壊せばけっきょく後悔するのが目に見えているからだろうか、クッションはわずかに右にそれて、作り付けの棚に飾られた青磁の壷には当たらなかった。
 だが震動で額縁がひとつ揺れ、それが床に落ちて派手な音をたてた。枠がはずれてガラスにひびが入っている。
 どうせなら、こなごなに砕けてくれたほうが良かった。額縁ひとつ壊したからといってとがめる者などいないのに、何をためらう必要があるのだろう。
 中途半端な破壊は、崩壊よりも悲愴感がただよう。過去と同じだ。いっそすべてをたたき壊してしまえるのなら、そのほうがいい――忘れてしまえるのなら。
 身体をくの字に折ると、哲笙は今度こそ心底いらついたように両の拳でソファの背をたたき、その上に額をのせた。
 どうしていつもキショウはあんなに奔放なのだろう。要領も悪くて決して人より秀でているわけでもないのに、肝心な時には自分の思いどおりにする力が備わってるとしか思えなかった。
 なまじ目先のことまで見えてしまうばかりに、哲笙は考えすぎてけっきょく自分の思いどおりにできないことが多い。
 いつも自分が有利に評価されるよう選択してきたはずだった。結果など関係なく、欲求の指し示すままにふるまいたい時があるにもかかわらず、理性的な哲笙にはそれができない。
 こんな簡単なことがなぜ判らない、といらつくのはいつも哲笙のほうだ。なのにせいせいとした顔をしてるのは決まってキショウで、哲笙はイライラする自分を抑えるのにむだな精神力を使うばかり。キショウのような人間を見ていると、逆に自分のほうが不器用にすら思えてくる。
 だから、思うままにふるまう弟を見るのが嫌いだった。
 そして実弟にさえそんなふうにしか感じられない、心の狭い自分はもっと嫌いだった。藤女に言い当てられた通り、キショウを見放してろくに考えてもやらなかったのはこの自分だと、誰よりも哲笙自身がいちばん判っていることだった――。
 そこでノックの音がした。
「……入れ」
《失礼します――哲笙さま?》
 麻名城だった。彼はソファの背に上半身をつっぷしたままの哲笙を見て、いっしゅん躊躇したが静かに訊く。
《よろしければ、すこしお休みになられてはいかがですか》
《いや、それより頼みがある。キショウたち3人の仕事をすべてもとに戻してくれ。これは独断でやることだ、責任は俺がとる》
 麻名城は少々驚いたように目をあげたが、はい、と言ってうなずいた。
《お客さまが、東の客室でお待ちです》
 それを聞いて哲笙は体を起こす。その顔には、もういらだちも怒りも映っていなかった。
《すまない、額縁をひとつ壊した》
 ひとことそう言って、哲笙はそこをあとにした。

 

 

「ちくしょう、思いきり殴りやがって! あー痛ェ」
 片ひざを抱えるようにしてソファに座りこんだまま、派手に毒づいて紀柾は携帯用の氷嚢を頬に押しあてた。今や彼の頬の腫れは、見るものの遠近感を狂わせるほどになっていた。
 向かって左側だけ大きく膨れた顔は、左頬がうっすらと押し上がっているのでそこだけ妙に近づいて見える。頬骨のあたりを中心に、紀柾はこめかみ、首筋と頭の片側がしびれるような鈍痛に襲われていた。
「すぐ腫れがひくといいですねえ」
 ゲストのひとりひとりにアイスティーを出しながら、航生が困惑した声をもらす。
「……知ってるか。あいつの左ストレートって軍仕込み、森大里のお墨付きだったんだって」
「さようですか、射撃の腕もさることながら哲笙さまは格闘技にも秀でていらっしゃるようで」
「そこでどうしてあいつばっかり褒めるかな、航生は」
 どっかりと足を組みかえて、紀柾は不機嫌そうにぼやくと横を向いた。
 航生が哲笙の肩を持つのが気に入らないと顔に書いてある。それが可笑しくて、紗宗はアイスティーを一口含むとニヤリとした。
「いやあ、こっちはおもしろいもの見せてもらいましたよ。久下さんでもあんなに感情的になるんだなあ」
「怒鳴ったりするタイプには見えなかったもんな」
 藤女もうなずく。
「そういえば、久下さんどうしたの?」
「誰か客が来てるって麻名城さんが言ってたな」
 波葉と紗宗の言葉に紀柾が眉をよせた。
「なあ、哲笙の客がこっちに来るってヘンじゃないか?……航生は何か聞いてるんだろ、誰だよ?」
 確かに、自分のマンションを持って自立している哲笙に会うのに実家へやって来るというのはおかしい。いるとしたら久下家にも縁のある者だろう。
 そんな紀柾の胸のうちを感じとって、航生は軽くうなずいた。
「――いずれは話さなければならないことです、私から言っておきましょう。ただし、みなさん普通にしててくださいよ。哲笙さまはとても聡いかたです。くれぐれも、不自然な態度などとってあのかたにお気を使わせることのないように。いいですね?」
 紀柾の鼻先に人差し指をつきつけて、彼は椅子に腰かけ足を組んだ。
 航生という人物はきっと昔からこうして紀柾の、いわば目つけ役を務めてきたのだろう。その口ぶりは危なげがなく、魅きつけて話しを聞かせる力を持っていた。
「今日おいでになっているお客様は、佑久モリノさまといってデンマーク大使の姪御さんです。今日は正禅さまがお呼びになったのですが、佑久さまは半年前まで――哲笙さまの奥様でいらっしゃいました」
 ごぼ、と奇妙な音をたてて、紀柾が飲んでいたアイスティーをむせ返しながら訊いた。
「なに?」
 正面に座っていた藤女が、それを見て顔をしかめた。
「私は、お二人の間でとり交わされていたことはよく存じませんし、これはご夫婦の問題ですから……他人がとやかく言うのは失礼にあたります。表面では仲睦まじく見えても、ひとたび家に帰れば口もきかない夫婦もありますし、反対にはたから見ればしょっちゅう言い合いをしていても何十年もつれそっている夫婦もあります。ですが正禅さまはお二人のことにひどく落胆なされたご様子で、できれば佑久さまに復縁していただきたいとお考えになってらっしゃるようです」
 そこで航生は一息ついた。紀柾の顔には明らかに動揺があらわれていた。
「……7年の間にいろいろあったってこういうことか」
 つき刺すような兄のまなざしを思いだして、紀柾はふと生身の哲笙の胸に踏み込んだ気がした。
「それで、復縁できそうなのか」
「そればかりはこの航生にも判りません」
「デンマーク大使の姪じゃ、親父が手放したくないわけだ」
 紀柾の声には皮肉がまじっていた。藤女が訊ねる。
「どういうこと?」
「あの国は北欧随一の大国だぜ、そことコネクションができればキュカリにとっても有利になるからだろ。いかにもあの通産大臣の欲しそうなコマじゃねえか。それに哲笙は、親父の頼みならそれくらいやってのけるやつだ」
「でもそれじゃ――」
 政略結婚ではないか、と言おうとして波葉は言葉を飲んだ。
「ううん、きっと政略結婚なんかじゃないよ」
 思い直したようにそう口をひらいたのは藤女だった。
「もしそうなら離婚したらまずいんだろ? 別れたりしないで形だけでも夫婦として暮らしてるはずだよ」
「そうだよなあ、そこが俺にも判んねえんだ。あの要領いいヤツが、何で結婚だけ失敗したのかが」
「……やっぱり、純粋に恋愛感情があったから離婚にふみきったんじゃないのかしら」
 アイスティーをすすってそういう波葉に、紗宗も小さくうなずいて見せる。
「愛情があったからこそ、それがなくなったあとは一緒にいるのが辛くなるってことも、あるもんな」
「あいつがそんなしおらしいオトコかよ。見りゃわかるだろ、冷徹でばりばりのやり手で怖いものなんかありませんってツラしてすっげえ底意地悪いヤツなんだからさ」
「そ、そこまで言うか、普通……」
 紗宗は、その言葉にいささか哲笙に同情して唸る。
「……でもあたし、それって表向きだけって気もする」
「ほんとはもっと違うって?」
「うん、哲笙ってすごく器用だけど……時々無理して自分を抑えてるみたい。でもこんなこと聞いても絶対本当のことなんか言いそうにないけどな」
 つい今しがたの、紀柾にぶつけられた怒号を思い出して藤女は続けた。
「久下大臣のことばっかり言ってたみたいだったけど、紀柾、早い話がおまえに対する説教だろ? 説教する口があるってのは、おまえをまだ見込んでるっていう意味さ」
「……俺はあんな野蛮な説教食らったのは初めてだぞ」
 紀柾が、氷嚢を顔にあてながら答える。ひゅっと眉を上げて目を細めると、藤女はからかうような調子で言った。
「判らないのか? 哲笙みたいなヤツが本当に愛想つかしたら、説教どころか口もきかないよ。手が出るってのは、それだけおまえに固執してるってことじゃないのか」
 紀柾はそれきり何も言わずに横を向いてしまったが、紗宗はいつになく彼女の言うことが論理的なので驚いた顔になる。
 いったいいつの間に、藤女は哲笙をここまで分析したのだろう?
 じっと耳を傾けていた航生は、やがて藤女を眺めやって言った。
「ああいう方を、一種の器用貧乏とでも言うのでしょうかね。哲笙さまは見えすぎる瞳を持っていらっしゃるようだ。あの方は……片目を閉じてちょうどいいぐらいなんですよ」
 もしかしてこのひとなら、という気持ちが航生の胸をよぎった。その時、玄関のほうで華やかな声がして、航生はおや、とつぶやいて紀柾に笑顔を向ける。
「奥様が、お帰りになられたようですよ」

 

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