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 哲笙が客室のドアをあけた時、優婉な笑顔でむかえてくれたのは佑久モリノだった。
「……モリノ」
「こんにちは」
 まったく予期していなかった人物に、哲笙はこれまでにないくらい動揺していた。思わずどうしてここに、と言いかけて口をつぐむ。
「久しぶりね、その後はどう?」
「君こそ……元気にしてたのか」
 彼女はそれには答えずに、曖昧に首を動かしただけだった。離婚当時の自分の心境を思い返せば、こういう間抜けな質問は控えるべきだった。
「親父に、呼ばれたか」
 ドアを閉めながら訊く。
「『復縁する気はないのか』と――」
 哲笙の口から重いため息がもれた。モリノの向かいがわに音を立てて身を沈める。父の意向を思うとやるせなさが込みあげてきた。
 あのひとは、早く孫の顔が見たいだけなのだ。一度だめになった夫婦というのは、そう簡単に修復できるものではない。
 モリノは続けた。
「それだけじゃないの。あなたに直接会って話したいこともあって」
「何だ?」
「慰謝料をとめていただきたいの。もう何度も伝言を頼んでるのに、一向に伝わってないみたい。だからちゃんと会って伝えたかったの」
 揺るぎのないその声を聞いて、哲笙は美しい瞳から視線をはずした。
「俺にできるのはもうこんなことぐらいしかないぞ」
「あなたは自分で勝手に出て行ったことを気にしてくれてるんでしょうけど、勝手を言ったのはわたしも同じよ。気遣いなら必要ないわ」
「……君がそう望むなら」
 それきり哲笙は押し黙る。もう話すこともないと身体全体であらわしていた。
「あなたのお父様が言ったことは、考えようとはしないのね」
「どういう、ことかな」
 整った眉をひそめて哲笙が問い返す。
「私たちは……離れてしまった気持ちを戻そうという努力をしていなかった」
 そのひとことで、彼女の意向が読めたとでもいうように、哲笙は首を振った。
 なす術もない様子で苦い笑顔を作る。モリノの胸中を踏みにじるような、皮肉めいた表情だった。
「仕方のないひとだな、君は。忘れたのか?……離婚が成立するまでの数カ月、俺たちはあんなにお互いを傷つけあってばかりいたじゃないか」
「でも確かにお互いを必要としてた時もあったわ。確かに愛しあっていた」
 だから今更何なのだ。哲笙は心の底でそうつぶやく。
 熱い想いをかかえてお互いを求めあっていたのはもう記憶のかなたのこと。過ぎ去った時間を掘りかえしたところで、今の彼に気持ちを変えさせる何かがあるとは思えなかった。
 モリノが、顔をそむける哲笙のかたわらに歩み寄った。彼は当てつけのように大きなため息をついて訊く。
「親父にほだされたのか」
「違うわ。あなたが出ていってから気づいたことよ」
 片手で優しく頬にふれ、鳶色の瞳をのぞきこむ。
「哲笙……」
 甘くささやいてくちびるを重ねる。変わらぬくちづけだった。一瞬頭の中に白い火花が散ったように、哲笙は何も考えられなくなった。思わず左手がゆるやかに彼女の髪をすいてゆく。
 相手がモリノでなければ、こんなにやすやすと心を許したりしないはずだった。
 長いくちづけを終えると、淡い色のモリノの瞳を見つめ直す。初めて見た時から、哲笙はこのブルーグレイの瞳が好きだった。どうしようもなく惹かれて、自分のものにしたいと思った女はモリノだけだった。
「……必要なのは夫か、それとも俺か? 君はいつでも優しくものわかりのいい、頼れる夫が欲しかっただけじゃないのか」
「そんなふうに言わないで」
 恋愛というものは不思議なパワーを秘めている。ふだんなら公平な判断を下せる物事でも、恋愛という名のフィルターを通すととたんに真実がぼやけてしまう。
 哲笙は感情のこもらない乾いたままの声で続けた。
「俺は君が思い描くような男にはなれそうもない。理不尽なことに腹を立てたり、ちょっとしたことで気弱になったりもするんだ。離婚してみて、そんなことは君がいちばんよく知っているはずだ、モリノ……」
 結婚当時、哲笙は不幸にも理想通りの大恋愛をしていると信じていた。
 結婚生活とは大なり小なり障壁がつきまとう。その壁を乗り越えてこそ、夫婦は絆を深められるのだ。
 けれど、仕事が忙しくてすれ違うことが多かったふたりは、たまに一緒に過ごす日には気持ちばかりが空回りした。
 ささいなことでも口ゲンカが多くなり、答えを見つけられないふたりは、抱き合って眠ることでしかお互いを鎮められなかった。
 りこうな解決策とは言いがたく、ふたりの間のしこりは大きくなるばかりで、結局モリノのほうが先に音をあげた。世の中のほとんどの男と同じように、哲笙には離婚を切りだす勇気がないだけだった。
「なあモリノ、俺たちはとっくにだめになってるじゃないか……何度やりなおしてもけっきょくお互いを苦しめるだけで近づくことすらできない。君は君の理想をかたくなに追いかけて、俺は君といるといやなヤツになってゆくばかり」
 そこまで聞いて、モリノは彼から身を離した。
「あなたは決してとりみだしたりすることがない。かわいそうなくらい冷酷なひと……冷静に分析して、きっと判断を間違えることもないのね。でもひとつだけ――私との結婚は判断を誤ったんだわ。なぜ? 政略結婚だったから?」
 立ち上がりながら、哲笙は頭にカッと血がのぼるのを感じた。
「冷静にならなきゃどうなってたと思うんだ? 君は勝手に解釈して勝手に傷ついて、放っておくとまるで俺ひとりが悪者だ。自分のせいだと言っておきながら、けっきょく君は周りの目がそんなほうへ向かないことを知っているんだからね」
 黙って聞いているモリノの瞳に怒りがあらわれだした。
「いつも俺の表面しか見てなくて、そうやって冷たいと言いながら、もめごとを蒸し返して嫌な思い出を忘れさせてくれないのはモリノのほうだ」
 モリノも立ち上がり正面から彼を見据える。
「嘘よ、許そうという気持ちなんかかけらもないくせに! 私をこれだけ不愉快にさせておいて、許すかどうかなんてあなたが気にしてくれてるとは思えない」
「だったらいったい俺にどうして欲しいっていうんだ? 君につきあって理想通りの夫になれと? 君には結婚する前からきっちりと描かれた理想があって、インプットされていないものは極力抹消するようにできてるんだ、俺がそうされたようにね。お互い歩み寄ることもできないまま、こんな言い合いを続けていてやりなおせるわけがないだろう」
「なぜそうやってつき放すの? いつも愛情のかけらも見せないで……どうしてそれで、私を傷つけたくないなんて言えるの?」
「つき放しているのは君のほうじゃないのか。そうやって生身の俺から目をそむけて耳をふさいで、意固地なほどに理想を押しつけて」
「それはあなたが冷たすぎるからよ!」
「わかってない。モリノは結局何もわかっていない!!」
 瞳が対峙したまま一呼吸ほどの沈黙があった。先に目をそらしたのはモリノのほうだった。
 言葉を交わせば交わすほど、心はどこか手の届かないところへ行ってしまうのだと、彼女もよくわかっているはずだった。かかとを翻してドアに向かう。
 彼女の手がノブを回し、ほんの少しドアがあいた。
 すぐに哲笙が片手を伸ばし、モリノの肩越しにたたきつけるようにしてドアを閉めた。
 モリノの両肩に力が入る。彼女はぐっとくちびるを噛みながら哲笙を振り返った 。
「君は……そうやって逃げてばかりいるから、俺の冷酷な面しか知る術を持たない。愛してると言うなら、その二つの目ですべてを見極めるべきじゃないのか。見つめる強さもないのに、やってゆこうとしたのが間違いだったんだ。その誤算に気づかずに君を抱えこもうとした俺は、もっと愚かだ」
 感情のままにふるまえば、現実から逃れようとするだけで刃向かってもこないひとに、本気で怒ることなどできやしない。それがよけいな気兼ねを鬱積させた。
 外で神経を張りつめることの多い哲笙も、やはり家庭内のことに関しては理想を持っていたのかも知れない。ありのままを受け止めてくれる妻を求めて、結婚という言葉に躍らされ惑わされて。
 けれど、哲笙は「妻」を手に入れたかったわけではなかった。彼の中で、妻はモリノでしかありえなかった。なのにモリノが求めていたのは、まぎれもない「夫」だった。
 だからその夫になりきろうとした時、彼にはあっさりと底が見えてしまった。
 ――疲れたのだ。
 ひとは疲れるとこんなにも非情になれるものなのか、と自分でさえ驚いた。
 それからの二人はまるでかみ合わない二つの歯車だった。価値観の一致しなかった二人の唯一の共通点は、皮肉にも、ずれはじめた歯車を修正しなかったことだ。
「俺は、こういう男だよ。君のために変わることすらできない。理想ばかり追い求める君の前では、自分が何だったのかもわからなくなってしまう。そんな生活に戻るのは二度とごめんだ。けっきょく君は、理想の夫という枠組みに俺をはめこんで暮らしてみたかっただけなんだ。結婚なんて……そこまで自分を曲げてしなきゃならないものなのか?」
 いやな男だな、という思いが彼の胸の中でどす黒くうず巻きはじめていた。
 泣くまい、として両の瞳を見ひらく彼女を見据えたまま哲笙はつづけた。
「親に言われて、政略結婚とわりきって夫婦になれるほど、人間ができてない――俺は君をひとりの女として愛していた。だから結婚した。聡明な君のことだ、そのくらい想像がつきそうなものじゃないか」
「だからあなたは冷静すぎて話にならないのよ。本気で恋をしたらどうなるのかさえわからないんだもの……きっと誰にも恋したことがないのね」
「――したさ、もう充分」
「かわいそうなひと!」
 モリノは吐き捨てるように言った。
 哲笙はそっと彼女から目を逸らした。怒りも悲しみも、もうとっくにその胸からは洗い流されている。
「そう言えるだけ、君は俺より強いよ」
 答える声が、どんよりと沈んだ。

 

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 哲笙や紀柾を見ている時も、正禅と会っている時も不思議なほどその存在を感じなかったが、久下邸でいちばん強烈な存在を持っているのは、通産大臣の妻であり二人の息子の母である彼女、久下美凪くげ みなぎだった。
「ただいまあ、空港ったら改装されてキレイになっちゃってるんだもん、びっくりしたわ」
 鮮やかなフューシャピンクのテーラードジャケットにショートヘア。アクセサリーはシルバーのピアスとマリッジリングだけ。凛々しげに伸びた眉が哲笙とよく似ているが、切れ長の瞳とふっくらとした顔立ちなど、全体の印象はどちらかというと紀柾に近い。
 ほほほ、と高い声で笑いながらリビングに入ってきた彼女は、予想以上にたくさんいた来客に、あら、と立ちどまって首をかしげた。
「ずいぶんと大勢お客さまがいらしてるのね、みなさんはじめまして、かしら?」
「寝ぼけたこと言ってんなよ、息子もいるんだぞ」
 母に背を向けたままソファに身をうずめて、氷嚢片手に紀柾はそう吐き捨てる。
「え、息子?」
 どこに、とつぶやきながら中央に歩みでてくる美凪の様子があまりにも滑稽で、藤女と波葉のふたりは思わず吹きだした。
「まああ、キショウじゃないの! あなた……勘当されてたんじゃなくて?」
「またどうしてそういうこと言うかなあ、仮にもおふくろでしょうが。すかさず優しい抱擁とかありませんか、こういう時」
「そうしてほしいなら素直にお言い。それに、どうしたの? その顔」
 紀柾の隣に座ると見事に遠近法の狂った顔をなでて、美凪が問う。
 心配というより驚きのその表情を見て、藤女は所帯じみていない人だな、と思った。気さくなその喋りかたといいくるくる変わる表情といい、母親らしくはないが自然な態度だというのが手にとるようにわかるひとだ。
 紀柾は正禅よりも美凪に、哲笙は美凪よりも正禅に、より似通っていた。
「哲笙が来てる」
 短く答える紀柾に、彼女は身を乗りだして目を見ひらく。
「哲笙にはたかれたの?」
「手かげんなしの、左平手打ち」
「何をやらかしたんだか……よく殺人に至らなかったわね、大丈夫なの」
「……見てわかんねえかなあ」
「あなたじゃなくて哲笙のほうよ。そんなになるほどはたいたら、手だってかなり痛いはずでしょ?」
 がく、と肘を落とす紀柾に、様子を見ていた3人が、わはははと笑いだす。
「まるで漫才だね」
「絶妙のコンビネーション」
 それを聞いて美凪は片手を口に当てた。
「ごめんなさい、私ったら自己紹介もしないで……」
 立ちあがり、きちんと背筋を伸ばして中央に向き直ると、今度は見とれるようなまろやかな笑顔を作る。気さくな母からまばたきひとつで優麗な淑女になったようだ。その変わり身の素早さには目を瞠る。
「久下美凪です、ついさっきヨーロッパから戻ったばかりなので、こんなかっこうで失礼。みなさんキショウのお友達?」
 このひとなら、歌をうたってもさぞかし上手いのではないかと思わせるほど、なめらかなアルトの声だった。
「はじめまして、仲乃藤女です。あの、ヨーロッパっていうと?」
「仕事だよ、通訳なんだ」
 答える紀柾に美凪がつけ加える。
「通訳なんて、いいように使われてる便利屋と同じなのよ……こちらは?」
「シャンカール・波葉・エリンです。ふだんは波葉と呼ばれてます」
「まあ、インドのご出身?」
「父方の祖父はインドからの移民でした」
「ええと、ふたりともお友達……?」
 藤女と波葉を見てから紀柾にたずねる。
 どちらかが息子の恋人なら知っておきたい、という考えが明白なので彼はそくざに答えた。
「タダの友達兼同居人」
「そう。で、こちらは?」
「はじめまして、清劉紗宗といいます」
「あなたハンサムね、息子にほしいわ」
「よく言われます」
 いけしゃあしゃあと切りかえす彼を見て、藤女が鼻にしわをよせた。
 このふたり、意外と相性がいいかも知れない、と紗宗と母を見くらべながら紀柾は笑顔になる。
 ジャケットを脱いでフレンチスリーブのシャツ姿になると、美凪の襟元からかすかにオレンジの香りがした。ほっそりしているが、小柄ではない。166センチの波葉とほぼ同じ背格好だ。
「まったく……勝手に家を出てったきり電話もよこさないと思ったら。こんなに素敵な友達がいたんじゃ当然よね。うちの極道息子がお世話になってます」
「だからそのゴクドーってのよせって」
「それで、仕事のほうはどうなの、キショウ?」
 航生の運んできたアイスティーにシロップを落として、美凪はたずねた。途端に紀柾は大きく息をつく。
「実は、そのことで帰って来たんだ。哲笙が調べてるけど、何か俺たち面倒なことに巻きこまれたみたいで……」
 紀柾は、哲笙がやって来てからの一部始終を美凪に話してきかせた。
 ただひとつ、正禅が病魔に冒されていることだけは黙っていた。美凪が知らないはずはなかったし、何より藤女たちの手前で話したくはなかったからだった。
 美凪はときおり眉をよせながら、久しぶりに見る次男の話を黙って聞いていた。
「……で、さっきあのバカに思いっきりはたかれたってわけ。口で言えばわかることだろうに、手まで上げるヤツがあるかってんだよ、あのバカッ!」
「誰がバカだと? 俺に言わせりゃ、殴られなきゃわからないヤツのほうがよっぽどバカだと思うが?」
 足音も立てずに近づいてきたかと思うと、突然冷ややかな声を頭上から投げかけて、哲笙がソファのうしろに仁王立ちになる。
 紗宗があきらめろ、とでもいうように小さく首を振って見せた。
 ごくりと紀柾の喉が鳴った。体が、見えない有刺鉄線に縛りあげられたようにこわばっていた。
 片手で容赦なくその髪を掴まれる。身をかがめてソファの背に片手をつくと、掴んだ頭を風鈴のごとく左右に揺すって、哲笙はささやいた。
「待てよ、殴られてもわからないヤツのほうがもっとバカか。そうだろ?」
「い、いて……痛えよ」
「やめなさいよ、いい年して弟いじめたりして……」
 たしなめようとした美凪の手がふと止まった。彼女の鳶色の瞳は、リビングの入り口にあらわれた人影に気づいてゆっくりとみひらかれる。
「モリノちゃん」
 その場にいた全員が、美凪の視線の先へ目を向けた。
 たった一人、哲笙だけがそんな声など聞こえなかったように、横を向いてソファの背に腰かけていた。
「今日は珍しいお客様が多いわね。こっちへいらっしゃいな、うちの放蕩次男とそのお友達を紹介するわ」
 美凪の言葉は流暢な英語に変わっていた。
 一瞬すがるような目をして、モリノは美凪を見た。それから思い直してゆっくりと白いサンダルの足を進めてくる。
 まるで可憐なバラの花が咲いたかと思える、華やかな風が一気にその場をつつんだ。
 銀幕のなかの女優を思わせる女性だった。明るい色をした髪も瞳も、彫りの深い顔立ちも、いちど見たら忘れられそうにない。
 このひとが哲笙の――別れた妻。
 藤女は心の中で、そうつぶやいていた。

 

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 交差点では、一台の黒塗りのリムジンがゆるやかにスピードを落としたところだった。運転手はサングラスの下で眉根をよせて、小さく舌を打つ。
「どうした?」
 タブレット端末に目を通していた助手席の麻名城が、完全に止まったタイヤに気づいて顔を上げた。
「この先、通行止めになってます。迂回したほうがいいですか」
 見ると制服にトランシーバーを持った男が、プラスティックの赤い指示筒を振っている。
「そうだな、ボーディングまでまだ間がある。迂回しよう」
 運転手はうなずいて指示筒のしめす先に右折した。他に車はなかった。




 正禅は後部席に身をうずめながら、ぼんやりと虚空に目を泳がせていた。耳にはまだ怒号がこびりついている。
『――俺はただの久下紀柾でいい。久下通産大臣の手垢のついたものなんて何ひとついらない』
 考えてみると、昔からそうだった。幼少の頃から、父や兄と同じ道を歩むのは嫌だと勝手に絵を習いだしたり、エンジニアになるのだと言って整備工場でアルバイトをしたこともあった。
 当時は、ただ単に政治家の父に対する当てつけだと思っていた。
 結局父の言うことをきいて国務めをしなければならぬ日が来るのを知っているから、わざとああして好き勝手をしているのだと。同じ理屈を背負いながら、親の期待をはるかに凌ぐ者に成長した長男の哲笙とは両極端だと思っていた。
 だから高校卒業を目前に、キショウが秘書室ではなく我が師と仰いでいた周紺良のもとへ入ると聞いて、はらわたが煮えくりかえる思いで次男を見つめた。
 さんざん甘やかせ好きなことをさせてやった見返りがこれか? 兄は希望どおりクリムゾン配属になったというのに。
 そう考えると身体中の血が音を立てて沸点に達したような気がした。
 売り言葉に買い言葉で言いわたした勘当も、余命いくばくもないこの身を持って初めて後悔する。7年後に肺ガンを告げられると知っていたら、あんな諍いなどしなかっただろうに――。
 唐突にがくん、と車体が揺れリムジンがゆるゆると停まった。運転席と後部を仕切っていた薄い合成樹脂の窓が下がって、すぐに麻名城が顔を出す。
「申し訳ありません、どうもパンクしたようでして……すぐに直しますのでそのまましばらくお待ち願います」
「ああ、急いでくれ」
 麻名城は恐縮した表情のまま、窓を上げて運転手と共に外へ出てゆく。




「参ったなあ。麻名城さん、二つもやられてますよ」
 困ったなあ、と運転手はまたつぶやいた。身をかがめて車輪を点検した麻名城は、大きなため息を吐く。
 とりあえず空港のカウンターに遅れるかも知れないことを伝えておこう。どうせキュカリ国の旅客機なのだ、多少の遅れは待ってもらえる。
 冷静に頭で考えて、彼は上着のポケットからスマートフォンを取り出した。なれた様子でキュカリ国際空港へ遅れる旨を告げるといったん電話を切る。
 すぐに思い直してもう一度通話ボタンをタップし、カムナギ市警察の警部補につないだ。久下正禅が相手ならタクシーを使うよりこちらのほうが早いはずだった。
 電話口で警部補に直接言いつけて、麻名城は再び通話を切った。
「しかし、何だってこんなところでパンクなんて……ッ!」
 運転手が言い終えぬうちだった。
 かすかな空気音が麻名城の脇をかすってゆき、運転手は重い音と共に顔から地面に倒れ込んだ。
 麻名城はとっさに身をしずめ内ポケットの銃に右手を伸ばす。
「誰だ?!」
 振り返りながら怒鳴る。
 ひとけのない裏通り。突き当たりにはごみ置き場。喬木のおかげで近くのアパートからも死角になっている。
 ……なぜこんなところに入り込んだ? そう思った時だった。
 木陰から一人の男が姿をあらわした。青い制服にサングラス。
 ほんの数分前までその右手にはプラスティックの指示筒が握られていたのに、今は消音器つきの拳銃に変わっていた。
 意図的に導かれたのだ。そう気づいた時には遅すぎた。
「誰だと訊かれてもね……自己紹介してるヒマはないんですよ、麻名城さん」
 からかうようにそう言って、男は革の手袋をはめた左手でサングラスを外す。
 切れ長の黒い瞳がそこにあった。その顔に覚えはなかった。
 戦慄が背筋をはいあがってきて、麻名城の両手は発作がおきたように震えだした。揺れを止めようと必死になりながら人差し指をひきがねにかける。
 けれどもその指を引くよりも早く、男の拳銃から再び空気音がした。
 瞬時にして麻名城の胸から赤い飛沫が飛び散った。とたんに息ができなくなる。麻名城は背中を下にして路上にぐったりと横たわった。
 どうしてこんなことに――。
 ブレるような意識の中で、そんな言葉がうず巻いた。それで最期だった。
「さてと、本命にとりかかるとするか」
 息絶えた有能な秘書には目もくれずに再びサングラスをかけ、ずかずかと歩みよると男はリムジンのドアへ手をかけた。
 ドアは簡単にひらいた。彼は片足をドアのへりにかけ、まっすぐ伸ばした両手で銃を構える。
「なに……?」
 突きつけられた銃口を見て正禅の顔がこわばる。思い当たる節ならいくつもあった。
 はっとしたその瞳に、怒涛のように恐怖が押しよせていた。
「反逆者めが」
 訊き返すひまもなかった。
 3発の銃弾が正禅の胸をつらぬく。
 肺の中をかけめぐる激しい痛みに顔をしかめながら、正禅は意識が朦朧としてゆくのを感じていた――。

 

 

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