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 とりあえずきちんと笑顔が作れたことに、モリノは安堵していた。
 美凪は気を利かせて、彼女を『お気に入りの娘さん』と紹介してくれた。和やかなその場の雰囲気に胸をなでおろしたものの、紀柾と藤女のぎこちない視線から、モリノは皆が自分と哲笙との関係を知っているらしいとさぐり出していた。
 はじめて顔をあわせた、義弟であった紀柾をキショウと発音して、モリノはすぐさま彼に正された。
「あああの、俺の名前は仲間うちではキマサになってるんで、そう改名したことにしといてください」
「まあ、そうだったの? クカ語の発音って、つくづくむずかしいのね」
 キュカリ生まれとはいえ、日常会話ではほとんど英語を使っているモリノは、真顔で考えこむ。そのせりふを聞いて、笑いを含んだ声で哲笙がつぶやいた。
「そんな大層な理由でもないだろ? おまえのは、名づけ親の親父に対するたんなるあてつけだ」
 違うのか、と冷ややかにかぶせて、彼は紀柾に視線を投げつけた。
 クカ語に堪能でないモリノを思いやっての言葉ではなく、紀柾に対する皮肉の色が濃い。モリノはあらためて哲笙の顔を見た。こんなにそばにいるのに、彼が何を考えているのかさえ判らない。
「『プレシャス』って結構売れてる雑誌よね、うちの劇団にも買ってる子は何人もいるわ」
 憤然とした顔のまま、ふいと横をむいてしまった紀柾を思いきり無視して、波葉がそう話をつなげた。兄弟ゲンカならどこかヨソでしろ、と言わんばかりの反撃である。
「わたしも『砂漠の果てに』、観せていただいたわ。ソロをやったあの魅惑的な歌姫が、目の前にいるなんて不思議な感じよ」
「魅惑的ィ? 大声だすしか能のないヤツに、そりゃちょっと褒めすぎってもんじゃ……いてーッ」
 笑いながら隣の波葉を指さしていた紗宗は、そくざに二の腕をつねられて泣き笑いの顔になる。
 毎度毎度、痛めつけられるのが判っていながらどうしてこうもちょっかいをだすのか理解しかねる、といった風情で藤女は首を振った。
 モリノが目を細めながらすこし体の向きを変える。
「清劉さん、でよかったかしら? お仕事は何をなさってるの?」
 絹をこすりあわせるような雅やかな声だった。
 紗宗は、まだつねられたTシャツの腕をさすりながら、笑顔でそれにこたえる。
「どうぞ気を使わずに、紗宗と呼んでください。クウリュン市警察の現場捜査官です」
「そう……」
 彼女はうなづいて小さく息を吸いこむと、再びおずおずと口をひらいた。
「あの、もし間違っていたらごめんなさい。あなた、もしかしてマリアン・ラウという方の――」
「ああ……はい。息子です」
 満面に笑みをたたえたまま、すらりとそんな言葉が形のいいくちびるから流れでた。空気が左右に揺れるようにどよめく。
「え?!」
「何?」
 紀柾と波葉が同時に叫んだ。モリノはゆっくりと右手で口元をおおった。
「やっぱり」
「母をごぞんじなんですか」
「ええ……4、5年ほど前かしら、うちの雑誌で外国人モデルの特集を組んだ時に、香港の代表としてインタビューさせていただいたわ。英語に堪能でとても素敵なかただった。目鼻立ちはあなたにそっくりね」 
「でもとっくにモデル界は引退してますよ。アメリカへ渡ってむこうの市民権をとってしまったので、俺はずっと顔も見てない。初対面でわかるほど似てますか……参ったなあ」
 ちらりと舌を見せて顔をしかめる紗宗に、やっとわれに返った波葉が痛憤をぶつける。
「『参ったなあ』じゃないでしょ! あんた何言い出すのよ?! 誰の話をしてるわけ? ちゃんと判るように説明してよッ」
 それはまるきり咆哮だった。つりあがった三角の目は、もどかしさと驚愕を含んだまま紗宗を見据えた。
 彼はのけぞるようにして波葉から離れる。
「……つーか、何、おまえ知らなかったの?……聞いたとおりだよ、マリアン・ラウは俺の生みの親なんだ」
 がっ、とも、げっ、ともつかぬ奇妙な声が紀柾ののどからもれて、紗宗は思わず大丈夫か、と訊きそうになった。
 むりもない。香港出身のマリアン・ラウは本名を劉美蓮ラウ メイリンといい、10代半ばから活躍していたスーパーモデルである。180センチ近くある長身と、端正な顔立ちでたくさんのファンを魅了した。
 彼女は17歳の時に仕事でキュカリをおとずれ、カメラマンであり作家でもあるマーカス・チン氏と出会った。その後紗宗が生まれるのだが、二人の結婚生活は8年で破局をむかえることになる。
 恋多きマリアンは、妻や母というステージでは狭すぎるとでもいうようにあっさりそこから飛び出して自由になったのだ。
 マーカスと離婚してからも、たくさんの男たちとうわさになっている彼女だが、実子は元夫にあずけた紗宗ひとりである。そのかわり、香港やアメリカで親のいない孤児たちの養母になっている。
 現役時代から映画にもしばしば顔を出していた彼女は、引退してからはハリウッドへと本拠地をうつしていた。
「清劉の『清』は父方から、『劉』は彼女の本名からもらった。正真正銘の、マリアン・ラウの一人息子さ。もっとも親父はいろんな人種の混血だから、俺も生粋のアジア系じゃないけど」
 さかのぼれば、たぶん白人やヒスパニックの血もわずかながら混じっているはずだ、と紗宗はつけ加えた。アジア人ばなれした体格といい垢抜けた容貌といい、こういう理由だったのか、と哲笙は妙に納得する。
「そんなすごいひとが母親だなんて……なんで黙ってたんだよ?」
「えーと、何だっけ……そうそう、『嘘ついてたとかいうんじゃないだろ、たまたま誰も、俺があのマリアン・ラウの息子かって訊かなかっただけだろ?』――違うか?」
 愉しそうにそう言って紀柾を見る紗宗の笑みにはデカデカと、しかもこれ見よがしに、してやったりと書いてあるようだ。紀柾が盛大に舌打ちする。
「ひとの揚げ足ばっかりとりやがって。おまえ、きたねえぞ」
「そうよ、かくしてるなんてずるいじゃない。ねえ、藤女は知ってたの?」
 質問の矛先を向けられて、藤女は困苦のまなざしを紗宗に向けた。
「だって……紗宗はあたしの幼なじみだぞ」
「兄妹同然に行き来してたんだ、知っててもおかしかないだろ?」
 小さく肩をすくめてそう言う紗宗の言葉に触発されて、波葉はたまらずソファから立ち上がる。
 両手が白くなるほど握りしめ、てのひらに爪が食いこんだ痛さで眉間が険しくなった。悔しさがのどまでせり上がってくる。
「――あんたなんて大ッ嫌い! もう顔も見せないでッ!」
 まるで耳の中で特大のシンバルを打ちならされたかと思えた。くるりと紗宗に背を向けると、波葉はそれっきりリビングルームを出ていった。
 キィーン、という高周波のような耳鳴りに襲われて、その場にいた全員が軽く頭を振る。紀柾が氷嚢を頭に移しかえながら、ぽつりとこぼした。
「あいつ……自分が歩く騒音公害だって知ってんのか?」
「自分が怒鳴ってる時は、何も聞こえないような都合のいい耳がついてるんだってさ」
 たまには貸してほしいよな、と紗宗はぼやいた。
「ねえ、追いかけなくて大丈夫?」
 心配そうに美凪が問う。
「いや、気にするほどのことでもないですよ、あのお姫様の年中行事みたいなものだから。 俺なんか何度あの『大嫌い!』に罵倒されたか」
「よっぽど嫌われてるんじゃないのか」
「そんなムタイな……」
 ばっさりと斬り捨てるような藤女の口調に、彼は情けない声を出した。
 航生があわてた表情でリビングに踏みこんできたのはその時だった。

 

 

 久下邸にやってきて、おそらく20年にもなるだろうこの執事長は、額にうっすらと汗を浮かべて、まず美凪を見た。それからたすけを請うように哲笙に視線を移す。
「あの、たった今……市警察からお電話が入ったのですが」
「市警察?」
 美凪が訊き返す。哲笙が椅子から立ちあがった。
「俺宛か?」
 左手はすでに部屋のすみのサイドテーブルへと伸びている。
「いえ、あの、久下家の者に代われとおおせつかりまして……」
 航生にしては珍しく歯切れが悪いと思いつつ、哲笙は受話器をとった。
「もしもし、久下ですが――」
 とたんに怒鳴るような言葉がとんでくる。
 怒鳴っているのは、そうしないと相手に聞こえないほどあたりが騒がしいのを承知しているからだ。その様子から緊急事態だというのはすぐのみこめた。
 思わず受話器を握る手に力が入る。嫌な予感が哲笙の胸を針でつつくように広がった。自分の耳を疑うような、予想もしなかったニュースが飛びこんできたのは、その直後だった。
「何だって?」
 内容を聞いて愕然とした。しばらく黙って聞いていた哲笙の瞳がみるみる見開かれてゆく。
「……わかった、すぐに行く」
 口調がガラリと変わっていた。
「航生、俺の車を回してくれ」
 哲笙が言うと、航生はうなずいてすぐにリビングを出ていった。
 ソファの背もたれに放りだしたままのジャケットを掴み、哲笙は無言で母を見下ろす。ただならぬ緊迫感を感じとって、美凪が身を起こした。
「……哲笙?」
「これから、すぐ国立カムナギ病院に向かう。母さんとキショウも来てくれ」
「病院? どういうこと?」
 哲笙はすぐに答えなかった。思いつめたその表情はどう説明していいか考えあぐねているようだった。
 冷徹であるはずの兄の、その沈黙が理由もなく紀柾の胸をざわつかせる。
 そして。
「――親父の乗ってた車が襲われて、運転手と麻名城が射殺された」
 ガシャ、とグラスの割れる音がした。弾かれたように立ちあがった紀柾の膝がテーブルに当たってグラスが倒れたのだ。
 哲笙の言葉をひきがねに、一瞬にして空気を氷点下までつき落とす幕が降りてくる。悲痛な面差しのままモリノが哲笙を見上げていた。
「親父は……?」
 乾いた声で紀柾が訊いた。
「3発撃たれてる。ひどく危ない状態だそうだ」
 青ざめた顔色の美凪を抱えるようにして支えながら答えた哲笙の声が、その場に重く沈んだ。

 

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 久下正禅は危ういところでどうにか一命をとり留めた。
 襲撃の直前に麻名城が呼んだ市警察の車が思ったより早く駆けつけたからだった。パンクしたリムジンを前に、タクシーを呼ぶより警察の車で空港まで運んでもらうほうが早いと悟った秘書の機転が、結果として大臣の命を救ったことになった。
 けれども正禅の容体は危篤状態とほとんど変わりなく、美凪をはじめ肉親すら面会は許されなかった。
 集中治療室のドアに掲げられた面会謝絶の札を前に、哲笙はたまらず白い天井を仰ぐ。すぐに主治医がやって来て3人を別室へと通した。
 そこは正禅の病室の隣で、壁にはめこまれた大きなガラスから集中治療室の様子が見えるようになっていた。ビニールの天蓋をとりつけられ、酸素マスクで鼻と口をおおわれた正禅の顔にはくっきりと隈があらわれていた。
 ベッドの脇をいくつもの生命維持装置がとりまき、モニターは緑のラインでその呼吸や脳波を描き出してゆく。跳ねたように鳴っているその電子音だけが、辛うじて彼の命を確固たるものにしている。
 不意に美凪がしゃくり上げた。
 二人の息子は彼女をかばうしぐさでその両脇に立ちならぶ。美凪は彼らの手を握りしめた。そうしなければ、泣きくずれてもおかしくないほど胸には疼痛があふれていた。
「肺に、銃弾がひとつ当たっていました」
 背後で医師が口火を切った。
「弾は他の2発も含めてすべて摘出したのですが――ちょっとこちらをご覧になっていただけますか」
 そこで医師は部屋の壁にかけられているホワイトボードに歩みより、なれた様子で肺の断面図を描くと簡単に容体を説明する。
 ガン細胞はすでに肺の外へも移転し始めていること。その肺を弱めるかのごとく銃弾は細胞組織に食いこみ――摘出手術は凶弾から正禅の命を救ったものの、肺の状況を悪化させることにならざるを得なかったこと。
 途中で、美凪が声もたてずにぱたぱたと涙をこぼし始めた。
 感情的な彼女はもとより、顔にはっきりと狼狽の色を浮かべるキショウも、医師の事務的な説明を把握できているとは思えなかった。
 彼らの頭には、まさかという思いばかりがうずまいているのは想像に難くない。そこまで考えをめぐらせて、哲笙は思わず瞳をふせた。
 まるで、頭のどこかに別の人格が入りこんだようじゃないか。
 けれどそいつも間違いなく自分自身なのだ。ひっそりと、息を殺しながらいつもどこかで俺を見ている。そいつに助けてもらったことが何度もある。
 そして抹消したいと思ったことも――。
 自分の父親が生死の境をさまよっているというのに、感情におぼれもせず状況を理解し、しかもうろたえる家族のことまで思案しているこの冷徹さは、いったいどこで身につけたのだろう。
 正禅の身を案じる気持ちより、このあとカムナギ市警察の指揮をとり、いかにして狙撃者の検挙を手中に収めるかを考えている自分に、吐き気さえこみあげてくる。
 それでも哲笙は、今この場でいちばん必要とされているのはまぎれもないこの自分だと、いやというほど判っていた。
「摘出した弾丸は全てこちらであずかります。捜査局の方から何人か護衛を呼びますが、この病棟だけでなく病院全体に警備が敷かれることになると思います。面会謝絶が解けても、父の意識が戻ったあとも、俺の許可なしには誰も通させないでください」
 ポケットからIDカードを取りだして見せる。硬いはがねを思わせるその口調に、医師はすっと息を吸いこんでゆっくりとうなずいた。
 その瞬間から哲笙は久下正禅の息子ではなく、捜査局に属するひとりのトラブルシューターとしてその存在を確立した。

 

 

 キュカリ国の首都・カムナギシティの目抜き通りを東に向かって走らせると、キュカリ477号線につきあたる。
 そのまま南にゆくと、15分で左手奥深くに白い大きな建物を含んだうっそうとした林があらわれる。建物はかなり大きいが、木々にさえぎられて道路からはまるで見えない。
 林の奥に高々とそびえ立つその建物、キュカリ国際情報調査局・通称クリムゾンの名称は誰もが知っているが、高速道路にその表示は見られないので正確な場所を知る者は少ない。
 477号線をおりて林を抜け、建物に近づくと高さ3メートル程もある鉄扉のついた正面ゲートが姿をあらわす。
 左側にガードマンの小さな詰め所があり、モニターで周囲を監視できるようになっている。局に勤める者はすべて、第二ゲートのほうからIDカードと暗証番号、声紋、指紋を確認して入るので、ここはビジター専門の通用口である。
 しかしよほどのことがない限り、職員以外はこのゲートをくぐれない。たとえ肉親でも敷地内に入るのは固く禁じられている。
 護衛部1600人、作戦部2500人、情報部1200人、技術管理部600人。
 そのうちの約4500人が地下2階、地上5階建てのここ本部に勤めている。残りはすべて海外支局勤務だ。
 情報調査局というと国民からは、スパイを使ったり秘密兵器を使って外国の諜報部員とあらそったりする派手な場所のように思われがちだが、実際はその活動のほとんどが地味で単調なものである。
 簡単に言ってしまえば、海外支局を通じて世界の情勢を細かく掴み、それをキュカリ大統領のもとへ報告書にして送るのが彼らのおもな仕事だ。
 大統領や国内・海外要人の警護にあたる部署を護衛部という。事務職員以外は体力と知力に著しく重きをおかれる、言ってみればボディガードだ。彼らは国または世界の中枢をささえる人物の生命を守るため、とっさに的確な判断をくだしその頭脳と体を使えるよう厳しい鍛練をつんでいる。
 その護衛部に勝るとも劣らぬ体力と、科学技術を駆使して開発された機器を使って情報を集めるのが作戦部である。彼らはスパイを動かして海外から秘密情報を入手したり、アンダーカバーと呼ばれるおとり捜査を行ったりする。海外ではキュカリ国大使館の一等書記官などの外交官の肩書で勤務し、その身元は厳重にかくされている。
 情報部は作戦部の集めた情報を分析し、大統領や国の幹部たちに報告する。また、各国の綿密な情報をファイルして必要に応じてとりだす役目もする。
 技術管理部はおもてだった行動はしない、縁の下の力持ちである。経費配分を担当し、通信機などの電子機器を開発・調達して職員をささえる。また人事管理、トレーニング、医療管理などもまかされている。
 この4部門の頂点に立っているオフィスを局長官房室という。局長のスケジュールを調整したり、マスコミの対応その他すべての事務を受け持つ、いわば秘書室か総務部のような役目をしている。
 キュカリ国が独立して間もなく海外の情報局をモデルに設立されてから、クリムゾンはこうした活動をつづけていた。

 

 

 指紋照合が終わると、比嘉田霞月ひかた かげつはスリットからIDカードを抜きとってガードマンの脇を通りすぎ、観音開きのドアをくぐり抜けた。とたんにすべてが青味がかったグレイ一色の世界にふみこんだ錯覚に陥る。
 ここへは何百回と足を運んでいるはずなのに、いつも同じ思いがつきまとう。平面的な壁も床も天井でさえも、行き交うたくさんの足音をはねかえして無表情にたたずんでいる。
 どこかのドアがひらくたびに、中から気ぜわしい電話の呼び出し音が聞こえた。
 少し前に全建物が禁煙態勢になったので煙草の煙りはあとかたもなく消え、かわりに濃厚なコーヒーの香りが漂うようになった。ここでは、いかにしてストレスとうまくやってゆくかが永遠の課題なのである。
 角を曲がると歩いてくる高遠が目に入った。見たこともない誰かと話しながらやってくる。
 護衛部の鬼将軍。
 総元締めの高遠史城たかとう しじょうは、護衛部職員からひそかにそう呼ばれていた。
 クリムゾンの訓練校では、その厳しさにおいて右にでる教官はいないとまで言われ恐れられていたが、比嘉田の卒業とどうじに本局務めに昇格した。幸いにして比嘉田は護衛部配属にはならなかったが、訓練生時代は厳格な高遠に泣かされたものである。
 きちんと櫛を通した黒髪と高い頬骨。厚い胸板とたくましい四肢は、一見して武道家を連想させる。その連想通り日本武将の血をひく高遠は、居合道をはじめ剣の道を極めた男でもあった。
 となりの男の話に何度もうなずきながら、高遠は彼の横を通り過ぎてゆく。比嘉田は視線を落としてそのままやり過ごそうとした。
「――おい、比嘉田」
 突然そう声をかけられた。あわてて顔を上げる。
「はい」
「元教官に会ってあいさつもなしか、いい態度だな」
 一瞬、血も凍りつきそうになった。二人の間にはさまった男がなにごとかという顔で見ている。比嘉田はごくりと息をのんで答えた。
「申し訳ありませんでした。声をかけて、お話を邪魔したくなかったもので……失礼しました」
 とっさにすらすらとそんな言葉がでた。高遠は値踏みするように彼を見て、やがて表情を和らげた。
「真偽のほどはどうか知らんが、うまいことが言えるようになったじゃないか。気を使うな、こいつは俺の後輩だ。今度技管に入った」
 技管というのは技術管理部の略である。比嘉田は簡単に自己紹介すると、笑顔で右手をさしだした。白衣を着ていて見るからに技術系の男だった。
「おまえは部署を変わったんだったな、今はどこにいるんだ?」
「官房室です」
「それじゃ腕がなまるだろう……こいつは、射撃だけは俺の教え子の中でもトップクラスだったんだ」
 高遠が後輩の男にささやく。
「おまえと久下と、俺は両方護衛部に欲しかったんだがな……あいつはどうしてる?」
「ストライカーズ勤務になってから忙しいようで、長いこと連絡もとれずにいます」
「そうか」
 そこで高遠は考えこむようにおし黙る。久下通産大臣襲撃のニュースを思いだしているのはその表情から判った。
 やがて高遠は言った。
「おまえも官房室でひまをもらったら護衛部に来いよ、いつでも歓迎だぞ」
 冗談ではない、と思いつつ比嘉田は微笑んで答える。
「はい、ありがとうございます」
 高遠はきびすを返してその場をあとにした。彼のあとを後輩がつづいた。
 比嘉田は再び長い廊下を歩き出したが、二、三歩進んで立ちどまり振りかえる。そのまましばらく目を細めて、高遠が離れてゆくのを興味深そうに見送った。

 

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