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エピローグ

 

 ザワザワとひとのさざめく音がした。
 20分の休憩時間も終わりに近づき、皆が座席に戻り出しているのだ。藤女は上半身をひねって入り口のほうを振り返る。
「……なあ、もう二幕が始まるぞ。間に合うのかな?」
「仕事のカタがつきしだい来るって」
 パンフレットに目を落としながら紀柾がつぶやく。二人の間に座っていた紗宗があとを繋いだ。
「来なくても、俺は構わないけどなあ」
 ぱん、と軽く彼の肩先をはたいて藤女は口を尖らせた。
 やがて照明が明度を落とし、ビロードの幕がするすると上がる。
 波葉の出演する『砂漠の果てに』の第二幕が始まった。彼女のソロの部分はもう少しあとだ。舞台をきらびやかな中東の舞姫たちが横切ってゆく。
 そこでやっと暗がりの中からかすかな足音がして、藤女は通路に目を凝らした。
「――悪い、遅れた」
 哲笙のバリトンが聞こえた。と、思う間もなく彼はどさっと藤女の左隣に身を沈める。
 仕事場から駆けつけてきたのだろう、スーツ姿のままだった。ネクタイを少しゆるめながら藤女の手元をのぞき込む。
「今どのあたりだ?」
「遅いよ、もう一幕終わったんだぞ。いいか。説明するとこれが波葉の命を狙う王妃で、こっちが恋人の近衛兵……」
 パンフレットの登場人物紹介の欄を見せながら、藤女は話しだした。
 暗くてよく見えないのか、ほとんど額をつきあわすようにして哲笙が彼女のほうへと身を寄せる。
 それに気づくなり、藤女の右側にいた紗宗がわざとらしく空咳をひとつした。何だ、というように目だけ上げて哲笙は彼を見る。
「はい、これ久下さんの分ね! 代金は俺が立て替えておいたから、あとで払ってくれればいいです」
 荒々しくパンフレットを哲笙の胸につきつけて、紗宗はにっこりほほえんだ。
 受け取って脇に退けながらぶっきらぼうに礼を言うが、しかし哲笙は依然としてその体勢から動こうとはしない。紗宗など眼中にないという態度である。
「あのね、そういう態度はよくないですよ。せっかくひとが親切にしてやってるのに」
「だから今、礼を言ったじゃないか。君は耳が聞こえないのか」
「あなたの高慢チキな台詞だけ聞こえなくなるような、そんな便利な耳ならぜひ欲しいものですね」
「おい! ゴチャゴチャうるさいぞ。黙って見てろよ」
 紗宗の右側から、紀柾が顔をのぞかせて迷惑そうに言った。藤女も人差し指を立てて二人を制する。
「……ほら、波葉の出番だよ」
 ふっと舞台のあかりが消え、中央の波葉だけにスポットライトが当たる。
 金の刺繍がほどこされた薄絹のスカートを身につけ、美しい藤色の上衣を着た波葉の頭上を飾る装飾品がゆれてかすかな音を立てた。ばら色に彩られたそのくちびるから、恋しいひとに届かぬ熱い想いを謳う歌詞が流れ出て、場内は物音ひとつない真の静寂に包まれる。
 波葉の役柄は、ある近衛兵に恋をする王宮にやってきた歌姫。しかし彼は惚れ薬を飲まされて王妃の虜になっている。
 そして王はこの歌姫に惹かれ、なんとか振り向かせたいと思うのだが、いうことをきかない彼女に次第に腹を立てるようになる。結局歌姫はその恋が叶えられないまま、王の嫉妬のために殺されてしまう――。
「かわいそうだなあ……」
 わずかに鼻をすすりながら、藤女が声を洩らした。紗宗が横からティッシュペーパーを差し出す。 
「おまえ、この舞台何度見てるんだ?」
「だって何回見ても泣けるんだよ、こういうのは」
 それだけ感情が豊かなのだろう、と考えて哲笙は少し表情を柔らかくする。
 感情表現の多彩なひとは、そのぶん他人の気持ちをくみとる術を知っているということだ。
 波葉の演じる歌姫の切ない心を難無く自分に重ね合わすことのできるこのひとを、哲笙はある種の羨望を持って見つめてしまう。
 ――2時間10分にわたる公演を終えた時、観客は総立ちで場内にはどしゃぶりの雨の音にも似た拍手がひびいていた。会場を出ると夕食もまだだという紀柾と哲笙の提案で、深夜まで営業している流行のアメリカン・バーへ場所を移し、4人は丸いテーブルを囲んだ。
 カクテルからディナーまで出すこの店には、大型のフルハイビジョンをはじめ数台の液晶テレビが取りつけられている。客はそれを見ながら、食事したり談話したりできるというわけだ。
 揃いの白いTシャツにジーンズ、というかっこうのウェイトレスが、両手に大きなピザを持ってやってくる。4人の座っているテーブルにそれを置きながら、落ちつきなく彼女の視線が追っているのは紗宗に他ならない。彼もそれを知っているので軽く笑顔を返す。
「波葉のヤツな、この前新人賞取ったおかげで、すごいとこから公演依頼が来てるらしいぞ」
 早々とピザに手を伸ばした紀柾が言った。
「ああ、なんか言ってたな。タゴールさんとかいうインド貴族だろ?」
 紗宗の言葉を確認するように藤女は訊き返す。
「インド貴族?」
「うん、その貴族さんが父親の自伝を有名な脚本家に売って、ほとんど準主役の妻の役に波葉を抜擢したとか……インドにも公演に行くかもしれないんだって」
「ええっ、ほんと?」
 藤女はこみあげてくる嬉しさに、パッと笑顔になる。
「やったあ、波葉ならいつか有名になると思ってたんだ。そうか、インドか」
「楽屋に寄って顔みてかなくていいのか」
 哲笙が訊いた。
「いや、今日は仲間と打ち合わせがあるんだって。遅くなるから先に帰ってろってさ。明日は一緒にランチの予定」
 満足そうにそう言って、彼女の黒い瞳は細くなった。
「それならさ、いつかみんなでインドまで観に行こうよ、波葉の晴れ舞台」
「ええ? 俺ヒンディー語なんて喋れねえぞ」
「バカ、インドの準公用語は英語だぞ。大都市ならおまえでも充分通じる」
 ため息と共に哲笙がつぶやいた。あ、そう、とやりすごして、紀柾は3枚目のピザにとりかかる。
 そのピザもあっと言う間になくなり、テーブルの上には勘定だけが取り残された。ピザの時と違って誰も手を伸ばす気配がないので、不本意ながら哲笙はそれを掴むことになった。
「そうだ、哲笙にあずかったものがあるんだ」
 藤女が、取っ手のついた小さな紙袋を哲笙の前に押しやる。
「今日ね、偶然モリノさんに会った」
「……モリノに?」
 訝しげに言って紙袋を見る。まるで心当たりのない哲笙は、すぐにはそれに触れなかった。
 仕方なく藤女は続ける。
「2日が、誕生日なんだって? 何で黙ってたんだ」
 はっとした。
「黙ってたんじゃない――忘れてたんだ」
 それを聞いてテーブルに頬杖をついていた紗宗が言う。
「久下さんてさあ、その調子で結婚記念日とかもやり過ごしそうなとこあるよなあ。もう二度と、妻帯者になれない可能性のほうが高いですね」
「俺は物で女を釣るような、どこかの誰かとは違うんでね」
「小道具なしでひっかけられるほど、性格がいいようには見えませんが?」
 間をおかずにガツッと音がひびいて、紀柾と藤女は飛び上がるほど驚いた。
 テーブルの下で脚を組みかえた哲笙が、紗宗の向こう脛を思いきり蹴飛ばしたのだ。とたんに紗宗の顔に言いようのない苦痛が浮かぶ。それを横目で見ながら哲笙は平然と言った。
「悪い、ぶつかったか? むやみに脚が長いのも、お互い困るよな」
「……わざとやったくせに。俺、紀柾の言ってたこと身を以て理解した気がする」
「どーでもいいけど、まだ続きがあるんだよ」
 いいか、と前置きをして、藤女は哲笙を見た。
「モリノさんね、今度新しい雑誌の副編集長になるんだって。その取材でこっちに来てて、バッタリ会えたんだ」
「へえ、大抜擢じゃないか」
「彼女から、哲笙に伝言だ。『仕事は今以上に頑張るから。そして、あなたの自慢の“別れた妻”になるから見てて』」
「モリノが、おまえにそう言ったのか?」
 うなずく彼女に、哲笙はバツの悪そうな顔になる。
「なあ、何が入ってるんだ? 開けてみようぜ」
「壊れ物だって言ってたよ」
 紀柾にせかされて彼はゆっくりと紙袋の中を開いた。
 ネイビーブルーのリボンがかけられた小箱に入っていたのは、八角形のタンブラーと小型アイスボックスのセットだった。哲笙は似たようなものを持っていたが、離婚した時に彼が引き取ったのは黒曜石のテーブルと、大きなソファだけで、あとはすべてモリノに譲ってしまっていた。
 彼女に負担をかけたくなかったけれど、一緒に買いそろえた家具のほとんどとあのマンションに残されて、別れた夫の面影を消し去ることができたのだろうか――?
「……出ようか」
 言って、哲笙はテーブルを離れた。




 外に出ると天には星が瞬いていた。
 夜も更けてだいぶたっているというのに、街は車とひとでまだ賑わっている。それを見ながら哲笙は思う。
 楽園なら、ここにある。
 習慣も言語も違うけれど、たくさんの人間が関わり合って暮らしている。
 統一することが不可能でも、それで幸せでないと誰が言い切れるだろう。
 大きな歓声がして若者のグループが脇を通り過ぎてゆく。哲笙は天を見上げた。
 誰よりも強くなろうとするのなら、まず自分が弱いものを知らなければならない。
 ひとの弱さがどんなものか判らない者は、一生かかっても真の強さに触れることはできないのだ。
 できることなら強くありたい。
 けれど弱いと認めることは、自分に負けることとは違う。掴んでも掴みきれない願いなら……せめて弱さを真っ向から認めよう。そこからまた新しい自分を見つけてゆけばいい。
 俺を見捨てないひとなら、ここにいるのかもしれない。考えながら、哲笙はその名を声に出してみる。
「――藤女」
 振り返ったその人の肩越しに、街灯が人波ににじんで揺れていた。
 ほほえんだ彼女の瞳が三日月のようにしなるのを、哲笙は薄い敗北感を抱きながら見つめていた。
 

〈END〉

メエルフォーム

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