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楽園の反逆者



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真実は、光と同様に目をくらます。
 虚偽は反対に美しいたそがれどきであって、
すべてのものをたいしたものに見せる。
――カミュ――
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 逃げなければ。
 できるだけ遠くへ――。
 もはや背中の悪寒を防ぐ術はなかった。女がひとり、青灰色のアスファルトの上を駆けていた。
 深夜もとうに更けた午前3時すぎの街は、時々思い出したように灯る街灯だけで、ほかには人影も見当たらない。こんな時間に街のこのあたりをうろついているのは、最近増えだしたホームレスか、さもなくば犯罪に片足をつっこんだ者と相場が決まっている。
 誰でもいい、助けて。
 女は、目にとまった電話ボックスに体を押し込んで、震える手で受話器を握った。
 警察に届け出ることは、自分の身元をおおやけにすること。けれど相手が警察なら、命を狙ってきたりはしない。少なくとも、命は助かるのだ。
 考えながら、人差し指で続けざまにエマージェンシー用の赤いボタンを押す。24時間体制で、警察が応答してくれるはずだった。
 助けて助けて助けて。誰か。
 その時、ガシャ、と夜の帳を引き裂く音がして、なにかがガラスをつき破って彼女の手を掴んだ。
 ――黒い手。
 それは、黒いレザーの手袋をはめた手だった。南国には不似合いな、革の手袋。
 黒い瞳が戦慄を映しだし、めいっぱい見開かれる。
 節くれだったごつい手は、ぐい、と女の手を銀の電話に押し返そうとした。
 すさまじい力に、女は歯をくいしばる。自然にくちびるが歪んだ。
「……はなしてッ」
 受話器を押し戻そうとする黒い侵入者と必死に抵抗する女を、月明かりがひっそりと照らしだした。
 4回呼吸するほどの間があって、突然、レザーのてのひらが開いた。勢い余った彼女は右手をしたたかガラスに打ちつける。
 受話器が手を離れて落下した。
「おっと、悪い、痛かったか? 気が変わったんだ。エマージェンシー用のボタンを押したあとは、受話器を置いても逆探知できるってことを忘れてたよ」

 言いながら、男は割れたガラスから手を引きぬいた。場違いなほど穏やかなその声を聞いて、女の首筋がそそけ立つ。
 恐怖はもう目の前――手を伸ばせば触れられるところにぶら下がっていた。
 いやだいやだいやだ。死にたくない。
誰か、助けて。
 悲鳴は声にならなかった。
「狙いは外さないよ。大丈夫、すぐ楽になる」
 次の瞬間、猫の空咳のような空気音がして女の胸には赤い穴があく。体はズルリと崩れ落ち、それきり動かなくなった。
 レザーの手は念を入れてもう2発、今度はこめかみに打ち込む。弾に当たるたび女の頭が揺れた。
「悲鳴を上げる間もなく、か。今度は痛くなかっただろうさ」
 彼はそう言って、レザーの手袋をはめた手で美しく青ざめた女のまぶたを撫でた。
 受話器からやっと聞こえてくるオペレーターの声が、闇間に響いていた。


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 アジアの中から世界有数の経済大国に成長したキュカリ国は、近ごろ新しい大統領をむかえてますます活気づいていた。
 日本の約1.5倍の面積を有するこの島国は、周囲に200もの島々を持ち、沖縄、台湾、フィリピン、香港などに近く、 文化や言語の異なる民族が暮らす典型的な複合国家である。
 1945年にアメリカの統治下から独立し、現在は6つのエリアと37の州からなっており、国語であるクカ語のほかに公用語として英語が普及している。さらに、使われている地方言語の数は数言語におよぶ。
 国土のほとんどを山におおわれた日本などと違い、キュカリ国は平地が多くガスや鉱石などの天然資源も豊富なので、エレクトロニクス産業に力をいれた昨今では日本と肩をならべる東洋の近代国家と呼ばれていた。
 しかし、この先進国についてまわる深刻な問題のひとつとして、増え続ける凶悪犯罪があった。
 悩んだ政府は大統領のもとにふたつの大きな組織を設立し、多大な財政をつぎこんで、えりすぐった有能な人材を集めた。
 ひとつは国際情報調査局、いまひとつは国営捜査局と名づけられ、独立後間もなく活動を開始した。
 それが――俗にいうクリムゾンと、ザ・ストライカーズである。

 

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