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彼女のとなり 2

 

 

≪わぁ、すごい……キレイな字!≫
 ラウンジのテーブルでノートを開いたらエレナに言われた。
 数学のクラスで彼女のとなりになって2週間。
 授業が終わって一緒にランチを取ったことが3回。
 金曜の今日。
 午後はこのあとイブニングクラスまで時間をつぶす、という彼女につきあうことになった。
≪カリグラフィとか、習ったことあるの?≫
≪いや≫
 カリグラフィってのはこっちで言うところの習字だけど、日本の習字よりもっと実用的で、グリーティングカードに書かれた飾り文字みたいなものだ。
 習字もそんなしゃれたものも、まったく手をつけたことがない。
 俺の字がどうのっていうより、アメリカ人の書く字が読めないだけなんだきっと。
 このあいだ風邪をひいて診てもらったクリニックの医者なんか、書いてくれた処方箋の字が汚すぎて読めなくて、薬局が電話して薬の名前を確認したくらいだし。
≪ていねいにノート取ってるのね、アキラは≫
 彼女の口から自分の名前がこぼれるとドキリとする。
 アキラよりはアキュラの音に近い。
 そう。ちょうど車の名前みたいに。
 今までも、知り合いの誰かにそんなふうに呼ばれることはあったけど、軽く流してきた。
 でも今は――。
≪違う。"アキラ"≫
≪……そう言ったじゃない≫
≪言ってない。きみが言ったのは車のブランド名≫
 それじゃ困るんだ。
≪ああもう、日本語の名前ってむずかしい……≫
≪英語のほうがもっとむずかしいよ≫
≪でもスペルは簡単でしょ? E-L-E-N-A≫
 彼女の書き記した名前は、ノートから俺の頭にしっかり焼きついた。
≪あなたのはどんな字?≫
≪どれ? スペル?≫
≪そうじゃなくて、漢字≫
 鉛筆を取りあげて、ノートの白い余白に書きつける。
 『暁』
 すぐに神妙な顔で自分のノートに何やら写し、それを自信満々で俺に向けて見せてくれた。
≪できた! どう?≫
 紙の上には、マッチ棒を並べて書いたみたいな自分の名前らしき漢字が一文字。
≪……線が一本余分≫
≪えッ?!≫
 あわてて俺の書いた字と見比べる青い瞳が真剣になる。
 ……参るなあ。
 ふざけて大きな声で笑われても、ジーンズの脚で行儀悪い格好をされても、今みたいに何かに集中している時も。
 怖いぐらい気になって目が離せない。
≪これだけいっぱい線があるのに、どうしてパッと見てすぐわかるわけ?≫
 そりゃまあ……。
 パッと聞いただけで、きみがLとRやCとKを聞き分けられるのと同じようなもんだろ。
≪この字はさ、分解できるんだ。こういうふうにバラして覚えれば――≫
 へんとつくりを分けて、見やすいように書いてやる。
≪簡単だろ?≫
≪へぇ……なんかすごくシステマティック。あなたたちはそうやって習うの?≫
≪最初はね≫
≪ねえ、これ……どういう意味?≫
≪……あかつき。夜明け。サンライズって意味もあるよ≫
 そこでエレナはちょっと笑った。
≪女の子の名前みたい≫
≪英語だとそうだな≫
≪でも……きれいな響き≫
 ……不思議だ。
 彼女は日本語なんか知らない。
 俺は彼女の国の言葉がようやくわかりかけてきたところで。
 瞳も髪の色も、育ってきた国も、たぶん――宗教も違うのに。
 エレナと話していると、自分がものすごく価値のある人間に思える時がある。
 家族以外で、誰もそんなふうに思わせてくれた人はいない。
 自分の人生が、今までとは予想もしてなかった方向へシフトしているような。
 そんな気持ちになった。
「――よお、アキラ!」

 

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 日本語が聞こえた。
 カーペンターパンツにTシャツ姿の日に灼けた男が、バックパックを重そうに上げながらテーブルの間を縫ってやってくる。
 セイジだった。
「あ、ゴメン、連れがいたのか」
 一応遠慮がちな声音だけど、目が笑っていた。
 ボックス席になってるので、彼の来た方向からは小柄なエレナが見えなかったらしい。
≪ええと……勉強中?≫
 セイジの言葉が英語に変わった。
≪いいえ、大丈夫。続けて≫
 エレナが笑みを見せてくれる。
 少し間があいた。じっと俺を見返してくるセイジが、ホレ、というようにわずかに顎をしゃくる。
 そこでようやく気づいた。
≪……こいつはセイジ。彼女は代数のクラスで一緒のエレナ≫
 必要最低限の紹介をする。
≪ああ! 代数の……どう、あの教授?≫
≪悪くないわよ。講義はわかりやすいし、夏は続けて上級クラスも取る予定≫
≪けっこう面白い人だよね。アタマは髪型がスゴイけど≫
 ふたりは一緒にくすくす笑いだした。
 確かにあの教授はちりちりのねじれっ毛で、そのせいで頭がすごく大きく見えるんだ。
 ……セイジのやつ、最近どんどんスペイン語なまりの発音になってきたな。
 肌も髪も茶色いから地元の学生とよく間違われるらしい。
 ガールフレンドのアライアと一緒にいる時なんか、まるで兄妹みたいに見える。
『セイジはぜったい現地就職組だぜ』
 日本人の仲間内ではよくそう言ってからかうけど、半分はやっかみだってことをコイツは充分承知している。
 それがまた口惜しいんだよな……。
「アキラ、明日なんか予定入ってる?」
「……いや、特にないけど」
 壁にもたれたまま、日本語で答えた。
「アイスホッケーの試合、チケットあるんだけど行く気ない?」
「アイスホッケー? うちの大学の?」
「そうそう。夜のゲームなんだ。2枚あるからさ……あのー、一緒にどうよ?」
 セイジが目線で緩やかにエレナを指す。彼女は膝の上の教科書に視線を落としていた。
 思わず押し黙った。
 彼女はもちろん俺たちの言葉なんかわからない。
 わからないんだ――だから落ち着けって。
「どうせなら、その、意味のある人らに使ってもらおうと思ったんだけど……」
「なんだよ。おまえはアライア誘って行かないの?」
「だからそれができないんだって。俺ら明日からトゥーソンまで行くんだ」
 トゥーソンはここから2時間ぐらいのところにある街だ。
「ボランティアのコンサートがあるんだけど、マリンバの演奏者が風邪で出られなくなったんだって。クルマ出すついでにちょっと観光してくる」
 音楽専攻のアライアは、マリンバの演奏者だ。
 ストリート系の代表みたいな彼女からどうやったらこんな音が?っていうくらい、癒し系の美しい音色を奏でる。
「……わかった。もらうよ、そのチケット」
「あ、ほんと? 5割引でいいよ」
 セイジはぱっと笑顔になり、バックパックをテーブルに置いて中を探り出す。
「え?! カネ取んのかよ、あこぎだなー」
「毎度! これでもCPA目指してますから」
 バックパックから会計学の重い教科書が見えた。
「じゃ、ハイこれ。有意義に使えよ有意義に」
 ……なんだよその『有意義』って。
 苦笑いしながら財布を出してドル紙幣を渡す。
≪オーケイ、俺行かなきゃ。またな!≫
≪話せて良かったわ。じゃあね、セイジ≫
 エレナが笑顔になる。
 片手を振って彼を見送った。
≪……みんなあんなふうに静かにしゃべるの?≫
≪え? 日本語のこと?≫
≪そう。なんだか呪文を唱えてるみたい。魔法の呪文≫
 ふうん……そんなふうに聞こえるんだ。
≪なにかもらったの?≫
≪ああ、明日のホッケーのチケット≫
 そこまで口にしただけで、ちょっと笑えるくらい鼓動が早くなった。
 手まで震えそうな気がする。
≪興味ある……?≫
 エレナは肩をすくめて見せた。
≪うーん、あんまり≫
 ……がーん。
 玉砕ってヤツかよ?
≪わたしの興味は、もっと近いとこにあるの。となりの席くらい近いところ≫
 ――え?
 すごい早口だったからもう少しで聞き逃しそうになった。
 手元から視線を上げて彼女を見る。
≪その彼と一緒なら、行ってもいいかな≫
 ネコみたいな目がそうっとしなる。
 テーブル越しに俺を見つめたまま。
 彼女はなかなか目を逸らそうとしない。
 挑戦的だけど、どこか楽しそうな青い瞳がすごくきれいだ。
 ……訊かなくてもわかった。
 教室で解いたどんな数式よりもはっきりとした答えが目の前にある。
 それでも。
 訊かずにいられなかった。
≪どんなヤツだよそいつ≫
 彼女の顔に満面の笑みが広がったのは。
 あっさり気持ちを悟られたからか。
 それとも――俺の声が震えたからか。

 

 

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