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サイト開設7周年記念
き み し か い な い


第3話 「だれよりも近い場所」
side:HINAKO

 

 関東地方が梅雨入りしてから3回目にめぐってきた土曜日、映画館を出たら外は雨が降っていた。
「やっぱり降っちゃったか。この週末は大丈夫って予報だったから傘持ってこなかったのにー」
 美里がため息をつく。
「どうしようか」
「うーん……じゃさ、コーヒーでも飲んで時間つぶす? すこし待てば止むかも」
「そうだね。ちょっとお腹もすいちゃったし」 
 わたしと美里は、映画館と大型商業施設のあいだにあるアトリウムに足を踏み入れた。その一角にカフェのチェーン店があった。
 突然の雨を前に、映画を観終えた客の考えることは同じらしく、カフェの店内はほぼ満席。
 もともとが雨でも一日屋内で過ごせる複合施設という場所だから、ショッピングモールや地下の書店や、上の階のゲームセンターを目指す人の移動が一区切りつけば、アトリウムには空間的余裕ができると思った。
 注文用のカウンターの前に立ち、美里はアイス・カフェオレ、わたしはホット・チャイを頼む。
 ほどなくして空席がふたつできると、わたしは陶器のカップが乗ったトレイを持って止まり木へと移動した。正面は外が見渡せる一面ガラス張りの窓だった。
 右手にアイス・カフェオレの入ったグラス、左手にシロップとストローを持った美里がとなりのスツールに腰かける。
「しかしひどい話だったよね、ファンだからあんな映画でももちろん観るけど」
 そういいながらも美里の笑顔は幸せそうだった。
 高校時代からのこの友だちは、とある俳優の大ファンで、彼の出演する映画が上映されるときは必ず観にいく。
 わたしにしても嫌いな俳優ではないので、誘われたときはいっしょに観にいくことにしていた。
 でも今回の作品は、端正な顔立ちの彼にしてはどうしてこんな映画に出たのだろう、と首を傾げたくなるようなナンセンスなコメディで、さすがに美里も苦い笑いしかでてこなかったらしい。
「今日が月初めの割引デーでなかったらちょっと後悔したかも」
 いそいそとパンフレットをショルダーバッグにしまいながら言う。それでもパンフレットは買ったんだ、と気がついてまた可笑しくなった。
 相手はスクリーンの中の俳優だけど、こんなふうに思う気持ちってどこか恋心みたいだな、と思う。
 いままさに恋をしている女の子はかわいい。
 だから美里をかわいらしいと思うのは自然なことのように思えた。
「雛子、去年から部署変わったんだったよね。どう?」
 ストローの袋を破りながら美里が訊いた。
「うーん……はじめて扱うことばかりだから失敗も多いけど、職場環境はいいほうだと思う。こじんまりしてるしね」
 わたしは去年の春から転属になった。
 近いうちに会社が100周年を迎えるので、その記念に伴うすべてのイベントと文書を管理する担当だ。
 もっとも、わたしが関わっているのは社報や社歴など文書をまとめるのがおもな仕事で、デスクワークだけなんだけど。
「うちは相変わらず。女ばっかりだから楽だけど、そのぶん面倒なことも多いし……結婚に逃げても格好がつくのは若いうちだけだし、なんだか宙ぶらりんなんだよね」
 美里の気持ちはわかるような気がした。
 二十代も半ばをすぎると、仕事や結婚やその他の立場でどこにいてもいい反面、うまいお手本が周りにないと身の置き場もわからない気分になるときがある。
 友だちのだれかは手堅い肩書きを持つようになり、親戚のだれかは結婚したとか子どもが生まれたとかいう話を聞き、そのときあわててこれまでぼさっとしていた自分の足元に目が行く。
 職場で立派な肩書きをもらおうなんて考えたこともないけど、結婚という夢なら、いずれは叶えられたらいいなという気持ちになったことはある。
 日付の入っていない、『いずれ』としか呼べない曖昧な未来の話だけれど――。
 チャイの入った白い陶器のカップで両手を温めながらぼんやり窓の外を眺めていると、そのとき、やっと小雨になりかけた路面を横切って進んでくるひとが目に入った。
 インク色のジーンズの脚を交差させ、大きな歩みで水たまりをひらりひらりと飛びこえるしぐさが子どもみたいだ。
 後ろに連れがいるのか、わずかに振り返ったときに湿った黒い髪が揺れた。
 黒いTシャツのうしろ、右肩にプリントされた小さな赤い龍のマーク。
「あれ……?」
 カップをソーサーに戻す、かちんという音が、まるで自分の心臓からこぼれたのかと思った。
 見覚えのあるそのひとがこちらに向き直り、カフェの店構えをざっと見渡した。そこで、店内にいるわたしと目が合う。
 笑顔になると、おっ、という感じで片手をあげた。
 ――立城。
 心でいつもどおりその名前を呼んだのと、彼の右側にほっそりした女性が並んだことに気づいたのが同時だった。
 あのひとは……このあいだお店に行ったときに席まで案内してくれたひとだ。たしか黄さんという名前だったはず。
 立城が黄さんに短くなにか訊ね、彼女がそれに答える。
 わかった、というようにひとつうなずいて、立城はアトリウムに足を踏み入れた。
「知り合い?」
「……うん」
 もし美里が言葉を発してくれなかったら、わたしは倒れてしまったかもしれない。
 そのくらい胸が痛かった。
 立城はカフェのレジでなにやら注文を済ますと、すぐそばのカウンターにいるわたしたちに近づいてきた。
「めずらしいじゃん、こんなところで会うなんて」
 いつもと変わらない表情だった。
 明るくて楽しそうな声に、胸の痛みと比例してわけもなく腹が立ってくる。
 なあに。黄さんとのデートがそんなに嬉しいの?
 そう思って言ってやった。
「立城こそ……楽しそうだね、雨なのに」
「楽しくねえよ、買い出しだもん」
 なに言ってやがる、って感じで笑い飛ばす。それから美里のほうに目を向けて、こんにちは、と頭を下げた。
「高校時代の友だちの美里。こっちは大学でいっしょだった立城」
 わたしがそう言うと、美里はぺこりと頭を下げて挨拶してくれた。
「美里とわたしは映画。もう観終わったけど」
「映画って……あの顔だけは良い俳優のヘンな映画とか言わないよな?」
 となりで美里が固まるのがわかった。
 わたしはあわてて立城の腕を押し返す。
「ほら、もう注文できたんじゃない? はやく行きなよ」
「なんだよ、図星か」
 げー、と不適切な言葉を残して、立城はまだ笑いながら注文カウンターのほうへ歩いて行った。
 本当に注文がそろったようで、フタのついた紙カップを両手にひとつずつ持って、立城はカフェの前で待っていた黄さんのもとへ戻ってゆく。
 かちん、とまた胸が痛んだ。    
「大学の友だち?」
「知り合い」
「……にしては、けっこう仲良さそうだったね。リッセイって、どういう字を書くの?」
「立つ座るの立つにお城の城」
 自分で言ったその言葉に、大学で出会ったときの情景がかぶさるようによみがえった――。  
 
 

『ライ・リッセイです。ライは雷で、リッセイは城を立てると書きます。立てるは立つ座るの立つ』
 はじめて会ったとき、彼はそんなふうに自己紹介をした。
 日本人が話すのとまったく同じ、ごく平均的な日本語。黒い髪に黒い瞳。
 ライという苗字がその民族性を主張していなければ、なんの差もない。言いかえれば、名乗らないかぎり日本人にしか見えなかった。
『雷で城をたてろなんて、いくらなんでも両親ムチャ言うな、って感じです』
 まじめな顔をしてそう言ったせいで、あちこちから笑い声があがった。
 ……え、ほんとに外国人?
 たぶん、その場にいたほとんどが同じ衝撃を受けたんじゃないかと思う。
 その歯切れの良さのせいかよく通る大きな声のせいか、ひときわ印象に残るひとだった。
 わたしの大学ではなんでもいいから課外活動に入らなくてはいけなくて、なんとなくで入ったバドミントンの同好会で立城といっしょになった。
 課外活動と呼ぶにはあまりにもいい加減な集まりだったけれど、中に何人か筋金入りにうまい先輩たちがいて、ほどなくして立城はその先輩たちから気に入られるようになった。
 わけは立城がラケットを振る姿を見たときにわかった。
 早くて手首から先の動きが見えなかったからだ。
 たくさんのシャトルが飛びかう練習中でも、唸るような音はみんな立城から繰りだされたものだった。
 いまでも耳に残るあの音を思いだすたびに、毎日顔を合わせてすごしていた時間があることを幸運に思う。
 どんなに些細な存在でもいいから、立城の人生に関われたことを――。

 

 
 カフェからでてきた立城に紙カップを手渡されると、黄さんはわたしを見てすこし頭を下げた。
 わたしも頭を下げたつもりだったけど、うまくできたかどうか自信がない。
 立城はカフェの前を横切るときにちょっとだけ片手をあげてみせた。
 眉がすうっと伸びあがって、目じりがさがる。
 くちびるの上とあごに生やしたひげのせいか、どこか斜に構えた笑顔になった。
 心臓をつかまれた。
 立城には、銀幕の中の俳優について語る美里みたいに、恋をしているひとしかまとえない雰囲気があるような気がした。
 ……やっぱり黄さんが恋人で、デートしてるってことなんだろうな。
 ほっそりしててきれいな黄さんと立城は、お似合いのカップルに見えた。いうなれば同類項でくくれるような、タイプの似ているふたりだ。
 彼女といっしょにショッピングモールへと続く通路へ入ってゆく立城の背中を見つめながら、ひとりでぐるぐる考える。
 立城は自己紹介のときに『城をたてる』と言ったけれど、ずっとあとになってから教えてもらった。
 日本語ではお城の意味を持つ『城』だけど、広東語では『都市』という意味にもなるのだと。
 同じ漢字の文化でもすこし違う。その違いが新鮮で、でもやっぱりどこかで通じあっている安心感もあって、日本人の友だちと変わらないと思っていた。
 ずっと。
 わたしの見ている立城がすべてだと思っていた――広東語ではこういう意味だよ、と教えてもらうまで知らなかった漢字のように。
 気心の知れた友だちでも近いと思っていた存在でも、気づかない気持ちってあるんだ。
 そんなことすらわからなかったなんて、わたしってほんとうにばかだ。
 もしほんとうのことを伝えたら、立城は態度を変えるのかな。
 もうあんなふうに、わたしの心臓をつかむような笑顔を見せてくれることもなくなって。
 離れてしまうのかな。
 わたしから、離れてしまうのかな――。

 

 


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07/29/2007