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洞窟


――彼を好きになった時、洞窟みたいだ、と思った。

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「大沢ー、なんだこれ?」
 金曜日の夜。
 わたしは作業をしていた机から顔を上げた。
 ボードをつき返してくるメガネの男。
 江崎先生だ。
 顎にごちゃっとヒゲが生えてるせいで怖く見えるんだけど、笑うとけっこう優しげだってことに最近気づいた。
 ぺなぺなしたボードを受けとりながら答える。
「……課題です」
「課題はわかってんだよ。これはなんだって訊いてんの」
 ……なにって。
 平面構成でしょ。
 わたしは手渡されたうすいボードを見た。
 クリップとアルミホイル、MDディスク、それに花を一輪使って温度差を表現せよ。
 ――とかなんとかいう課題内容だったはず。
 ボードを左右に区切って、右が暖かいイメージで左は寒いイメージ。
 指定されたアイテムもちゃんと入っている。
 1週間かけて描いた、わたしの絵だ。
 見ていると、とんとん、と人さし指でボードの上を叩かれた。
 意外にきれいな形の指をしてるのに、木炭のせいで少し爪が黒くなっている。
 今日もずっと描いてたんだな、と思って笑ってしまった。
「あ! お前はまたなんかヘンなこと思い出して……やらしーぞ、そういうの」
「やらしーのは先生のほうでしょ。やめてくださいよ、誤解されるような言い方」
「じゃあ俺を見てニヤニヤすんな」
「してません。何が言いたいの?」
「そうだ、お前なんだよこの絵は! 線ガッタガタ」
 ……うわあ。
 言われちゃった。
 ボードに見入ったまま、返す言葉がなくなった。
 そう。
 わたしは直線を描くのが大の苦手なのだ。
 美大のデザイン科に進学希望のくせをして、溝引きが下手なのは致命的。
 それでも1、2本ならいいかと思って引いてみたら、ボタついちゃってさすがにヤバイと思い、ごまかしてはみたんだけど。
「この『わざと掠れたデザインにしてみました』、みたいな往生際の悪さが気に食わねえ」
 ……思いっきりバレてるし。
 やっぱ現役美大生の目はあなどれないか。
「ちょっと、出してみろ」
「え? なにを?」
「カラス口。溝引きのしかた、教えてやる」
 教室のずっと前のほうにいた金森さんが、ちょっと首を動かすのがわかった。
 ……えっと、今のはわたしから言ったわけじゃないんだからね?
 誰に言うでもなく心でつぶやいて、のろのろと道具箱を出した。
 ほんとはつり道具を入れるやつだけど、中にいっぱい仕切りがついていて整理しやすいから、生徒はみんなこういう箱を道具箱として使っている。
「あー、やっぱりな」
 先生は勝手にわたしの道具箱をあけ、上のトレイに乗っていたカラス口をつかんだ。
「安いカラス口使ってるだろう?」
「でも下の売店で買ったやつですよ」
「……悪いことは言わんから、フンパツして世界堂のにしとけ」
 ちょっと笑ってしまった。
 先生は、正直だ。
 だから危なっかしいところもあって、目が離せない。
「いいか、ちょっと見てろ」
 こんなふうに三白眼で挑戦的な目つきをされると、心臓がばくばくする。
 わたしの気持ちは……もしかしたら見透かされてるのかな。
 そう思いながら、絵筆をとってパレットから一色選んで溶くのを見ていた。
 先生が選んだのはクリムゾンレッドだった。
 一瞬にしてクリムゾンは、わたしの気になる色リストのトップになった。
「口のここんとこから絵の具がはみださないように。ボタつくのは絵の具の入れすぎが原因」
 万年筆の先がくちばしみたいに二重になった、カラス口。
 その二枚の口の間に絵筆で絵の具を塗りつける。
「定規に右手をつくな。力は均等に」
 溝のついた定規に絵筆と支え棒を一緒に滑らせ、まっすぐな線を引く。
 たったこれだけのことなのに、先生の引いた一本の線はどきりとするぐらい鮮やかだった。
「わ……キレイ」
 まるでプリントされたように均等な赤い線。
 わたしの真っ白なスケッチブックは上下にぱっきりと分割された。
「な? 安物でも、鍛えればここまで使いこなせるようになる」
「うん、すごい」
「じゃ、お前、溝引き100本な」
「――へ?!」
「溝引き100本。日曜に持って来い」
 金森さんが、今度は間違いなく振り向いてわたしを見た。
「に……日曜? だってわたしクラスとってない……」
「俺は日曜もここに来てんだよ。だから俺に合わせろ」
「ええ?……先生、横暴」
 言いながら口が笑ってしまった。
「なにが横暴だ、これは課題だぞ? 大沢があんまり溝引き下手だから。少しは危機感を持てっての」
「はぁ……」
 先生が引いた、クリムゾンの線を見下ろした。
 どうしよう。
 金森さんが睨んでる。
 でも。
 ……すごく嬉しい。
「――おい、大沢! 聞いてんのか?」
「あ、はい」
「じゃ、これ。日曜までに溝引き30センチを100本。俺のとこに持って来い。ちゃんと100本あるかどうか数えるからな。足りなかったらその場でやり直し」
 いつのまにか、スケッチブックの1ページに課題内容が箇条書きされていた。
 わたしの机から離れた先生の姿を追って、金森さんがくやしそうに前を向く。
 構図のとり方が抜群にセンス良くて、いつも先生たちから褒められる金森さん。
 ……浪人生の彼女が、江崎先生をデートに誘って断られたのは有名な話だ。
 まるで洞窟。
 そう思った。
 だって、誰かを好きになると、先が見えなくて。
 時々、意外なところに横道があってびっくりしたり。
 進んだらきっともう戻れないってわかってるのに。
 それでもやっぱり。
 洞窟の中を進んでゆくみたいに。
 その先へと進まずにはいられない。

 

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≪管理人のつぶやき≫
溝引き100本。 美大予備校に通ってた時、ワタシも言いつけられました。
……ええ、あまりにヘタで(笑)。