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月夜の晩に


それは、満月の晩に起こったできごとだった。

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「……はい、ええ……そうなんですよ、ご迷惑をおかけして申し訳ないんですけど」
 灰色の地下道への入り口で、携帯電話から聞こえてくる先方の声が大きくなった。
「まったく、そのとおりでして……はい。申し訳ありません、申し訳ありません」
 階段をおりながら、見えもしない相手に頭を下げ続ける。
「そこをなんとか」
 何度となく使い続けた文句。
 わかってる。こんなことを言っても、どうにもならないってことぐらい。
 でも言っておかないと、明日また上司に向かって同じセリフを吐かなきゃならない。
 階段をおりて地下道の通路の角を曲がると、人影が見えた。
「ええ……そりゃあもう、わかってます」
 少し声のトーンを落とした。人の話し声と笑い声が向かってくる。
 ぎゅっぎゅっと地下道のタイルを踏むスニーカーの音。ちゃらっと鳴るのはウォレットチェーンか。
 ろくにそちらも見ようとしなかった。
「本当に申し訳ありません」
 通路の壁に人影が交差する。
「ええ、聞いてます。すみま」
 言い終わる前だった。
 いきなり後ろから背骨の上に衝撃が来た。
 突き飛ばされ通路に四つんばいになる。タイルの上を携帯電話が軽い音を立てて滑っていった。
「痛っ……」
 背中に激痛が走る。
 何が起きたのかわからなかった。
「立てよ」
「おい、おっさん! おまえのことだよ」
 そこで初めて顔を上げた。若い男たちに囲まれていた。
「……カネ持ってんだろ。出せよ」
 全部で5人。申し合わせたように嘲笑を浮かべている。
 自分に言われたことだと理解するのに時間がかかった。
 状況を理解しても、まだ体がいうことをきかない。
「おせーよ、オイ、言ってることわかってんのかぁ?」
「カネだよカネ! 俺らに持ってるだけカネ出しなって」
 ――まずい。
 今夜は付き合いで寄った店があって、現金はそこでほとんど使い果たした。
 この時間ならもう寝入ってる家族を起こすのも気がひけて、タクシーを諦めたらこのザマだ。
「出せっつってんだろ!」
 横から痛烈な蹴りが入った。その一足で体から冷や汗が吹きだす。
「……待て、今日は持ってないんだ! こ、この財布に入ってるだけで……」
 通路で丸くなったままコートの内ポケットから財布を抜き取る。
 差し出す手が震えた。
 ニットの帽子をかぶった青年がそれをひったくり、反対側からまた蹴りが飛んできた。
「嘘言うんじゃねえよ!」
「う、嘘じゃない」
「身ぐるみはがせ」
 大きな手が伸びてきてコートの襟をつかまれる。
「待てよ、カード入ってる。これで引き出させようぜ」
 帽子の青年がそう言い、でかい手の男にコートを引き上げられた。
「……だとよ。じゃあおっさん、上にクルマあるから一緒にドライブ、ドライブ」
「な、よせ……離せっ」
 言い知れない恐怖が体を駆け抜ける。とっさに手を振り払おうと肩を揺らした。
 それがまずかったらしい。
 ヒザ蹴りがまともに腹部に入った。息ができなくなる。
「いいから黙って言うとおりにしろ!」
「早くしろ、人が来る」
「こんな遅くに誰も来ねーよ。ちょっと動けなくしてから運んだほうが良くねぇ?」
「……そうだな」
「パッとやれよパッと」
「大丈夫だって、誰も来ねぇから」
 でかい手が拳を握るのが見えた。
 反射的に目を閉じる。
 ああもう俺は終わりだ。家族の顔が浮かんだ。明日の新聞の見出しも見えた。
「――いやー、それが来るんだよねぇ……通行人A」
 笑いを含んだ明るい声が真夜中の地下道に轟いて、目を開ける。
「だっ……だだだ誰だよあんた?!」
「あたし? 名乗るほどの者じゃないんだけどさあ」
 いつの間に来たんだろう。
 20代後半くらいの女性が、左手で青年のでかい手をつかんでいた。
 ヴィンテージ色のジーンズと生成り色のセーター。赤いマフラー。
 髪はくるくるまとめて頭の後ろで留めてある。コンビニ帰りなのか、片手に白い袋を下げていた。
「だっせェ。何やってんの、いい若いもんが……だいたい、この人あんまりカネ持ってそうにないじゃん? キミらのその有り余る体力でまっとうに稼いだほうが早そう」
 ……何となくむっとした。
「んだとコラ、てめえも一緒に殴られてえのか?!」
 激昂した青年が怒鳴る。
「ううん。殴られんのは、あ・ん・た」
「あァ? なんだと?」
「あ、違った。『のされる』だった」
「ふざっ――」
 男が、つかまれてないほうの手を振り上げた。
 ……その後のことがどうもよくわからない。
 でかい手の青年は一瞬前かがみになったかと思うと、今度はぐいっと背中を反らせ、女性がさあっと首のあたりを触ったらもうタイルに後頭部を打ちつけて伸びていた。
 一瞬にしてその場の温度が変化した。
「てめえッ!!」
 ウォレットチェーンをつけていた青年が彼女にとびかかる。
 生成り色のセーターがさっとひるがえり、青年の両手は空をつかんだ。
「このや」
 振り返った青年がふたたび殴りかかる。
 けれども男の手がセーターをつかむ前にコンビニの袋が飛んできて鼻を直撃し、辺りに赤い血が飛び散った。
 悲鳴がこだまする。
「くそォ」
 見ていた別の一人が細い肩をつかんだ。
 彼女の体が反転したと思うと、ものすごい早さの拳が相手の顎を斜めに叩きつぶしていた。
 顎を砕かれた青年はその場に倒れこむ。
 4人目は踏み込んだとたんにのけぞって背中からタイルに叩きつけられた。
 彼女の拳が正確にそのみぞおちに入る。青年は胃の中の物を全部吐き出した。
 通路内は苦しげなうめき声でいっぱいになった。
 すべての動作を終えるのに1分とかかっていない。
 唖然とした。
 まるでよくできた舞台演技を見ているようだ。
「このくそ女ッ……何しやがった?!」
 帽子の青年が声を上げる。ほとんど泣き叫んでいた。
「何もしてねえだろ?!」
 いきなり彼女の口調が変わる。
「手を出してきたのはおまえらのほうだろうが? あたしは自分の身を守っただけだ。違うか?」
 眼差しだけで相手の眉間をスラリと切り裂く。
 気迫、という言葉が頭に浮かんだ。
 帽子の青年がズボンのポケットから銀色にきらめく物を取り出して身構える。
 あれは、新聞で見たことがある――バタフライナイフだ。
「あーあ、お子サマのくせにおもちゃの使い方も知らねえから参るよー」
 彼女がフッとあざ笑った。格好だけの嘲笑じゃなかった。
「うるせえな!」
「それになんか、古くない? そういうナイフはもう流行らないって」
 言いながらマフラーを外す。
「てめえ……ぶっ殺してやる」
「出たッ! 脅迫かよオイ。うーん、イマイチ普通っていうか無難っていうか……もっとこう、『地獄へたたっ込んでやる!』とか『このくそアマ容赦しねえ!』とかは?」
 ――はい?
 自分で要求するかそんなこと?
 思わず自分のおかれている立場を忘れた。
「いや、やっぱシンプルで定番なやつがそそるかな?」
 赤いマフラーを左腕に巻きつけて首をかしげる。
 ……この人、ちゃんと状況わかってんのかな。
 多分、帽子男もそう思ったんだろう。
 一瞬ぽかんとした表情になったのだけが可笑しかった。
「ゴチャゴチャうるせえぞ! どうでもいいってんだよそんなこと!!」
「オッケー、んじゃそれで決まり」
 口紅もつけていないくちびるがニヤリとした。両足を開いてわずかに身を沈める。
「こっちももうちょっとマジにやらせてもらうってことで」
 右手で手招きする仕草が嬉々としていた。
 帽子男は目をつり上げてナイフを彼女の懐へ差し込む――かのように見えた。
 その時。
 マフラーを巻いた左腕でナイフをブロックし、拳が逆に男の腹にめりこんだ。
 彼女の体が反転し、ナイフを持っていた男の手首をつかんでぐるっとひねる。
「あああい!」
「悪ィ、少年。愛の告白ならあとにして」
 ……なんだかすごく楽しそうだ。
 返す手で男の肩を回し、背中にねじり上げる。
 見た目にもあっさりと銀色のナイフが男の手から外れた。
 ちゃりちゃりちゃりっ。
 かちゃん。
 男の腕を背中に回して肩を押し下げた体勢のまま、彼女が鮮やかにナイフを回転させ刃を閉じる。
 それで終わりだった。
 帽子男が目を見開いた。驚愕と怯え、それから畏怖があらわれていた。
「は……離せよッ」
「ああ? 何だって?」
 ぞんざいな口のききかたで、女性が彼の肩に少し体重をかけた。
「いて、痛えええッ!!」
 すぐに、ごきっという音がした。
「あ! やっべえ、肩外しちゃったよ」
 初めて女性の顔に焦りが浮かんだ。
「ごめんごめん、大丈夫? 手荒なことするつもりはなかったんだけど――」
 手を離して彼を自由にしてやる。
「さ、触んなッ!!!」
「は?……そんなさー、何も泣くことないでしょキミ。肩くらいはめてやるって」
「うるせえッ、そばに来んな! この野蛮人!」
 帽子男は泣いていた。
「や……野蛮人? 誰? あたしか?」
 畳んだバタフライナイフを持ったままの手で自分を指さし、きょろきょろ周りを確かめる。
 帽子の青年はやっと気がついたらしい仲間一人を片手でひっぱりあげ、よだれだらけ血だらけゲロまみれの仲間三人と連れ立って泣きながら地下道を出て行った。
「……イマドキ野蛮人てのはないでしょーよ」
 まだぶつぶつ言いながら落としたコンビニの袋を拾いあげる。
 振り返った彼女と目が合った。
「どっちが野蛮人なのよ? ねえ?」
 この状況で訊かれて、ハイあなたですと言える人はきっといない。
「おじさんも、早く帰んなさいよ。この地下道、夜遅くなってからはヤバイんだからさ、もう通んのやめときなよ」
 赤いマフラーを首に巻きながら彼女が言った。
 左手の薬指に指輪が光っているのにやっと気づいた――結婚してるのか。
 すごいダンナだ。あらゆる意味で。
 彼女は血まみれになったコンビニの袋に目をやって顔をしかめ、中からペプシの1.5リットルボトルを取り出すと脇にあったゴミ箱に袋だけ投げ入れる。
 片手にペプシをぶら下げたまま、その奥さんは気分良さそうに鼻歌で『A Hard Day's Night』を歌いながら地下道の階段を上がって行った。
「……しまった。名前聞くの忘れた」
 タイルの上でしばらく腰を抜かしたまま、そんなつぶやきが口からこぼれたのはだいぶ後のことだった。
「礼も言ってないよ……」
 まったく。
 これだから。
 満月の晩は気をつけないといけない。

 

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≪管理人のつぶやき≫
地下道は怖いッスよねぇまったく。