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|| | | |  アイスレベルへようこそ  −3rd period−  | | | ||

 

 

 肌の上に薄紫を乗せる。氷の上にも。
 重ねるように、橙も。そして薄墨色、浅葱色。
 たちまちのうちに紙の上では色の爆発が起こり、氷上のインパクトを再現する。
 指先でぼかし、塗り込めて、またぼかす。
 マスキングテープでパステル紙を固定してある画板をイーゼルに乗せ、数歩下がって眺めながら腕を組んだ。
 ……きぃんとした冷気。
 どうしてもあの冷たさが出ない。どんなに重ねても削っても、わたしが表現できるのは炎を感じさせる熱だ。
 うーん、どうすれば冷気が伝わってくるような絵になるのかなぁ。探し続けて何枚も描き散らかしたけど、まだわからない。
 ため息がでた。
「あれ、早坂……まだ描いてるの?」
 木製のイーゼルの向こう、スタジオの入り口から、短髪にバンダナ姿の黒瀬さんが顔をのぞかせた。
 心臓がぎゅっと跳ね上がる。
「あ、はい。でもなんかイマイチだから、もう帰ります」
 イーゼルから画板を下ろし、大きな作業机の上に戻して答える。
「いいよ、続けてて。俺べつに戸締りに来たわけじゃないから」
 黒瀬さんはそう言って片手を振り、スタジオに踏み込んでくると、自分の画材棚から水張り用のパネルを抜き出した。
 擦り切れたオーバーオールにところどころ絵の具の染みがついている。彼も作業中なのだろう。
 そのまま木製のパネルを手に作業机までやってくる。
「……すごいね、早坂の絵は」
 パネルを作業机に立ててその上に両手を乗せ、わたしの絵を見下ろした。
「いつも思ってたんだけど、物のぶつかる音が聞こえるっていうか、肉厚な感じがよく表現できてる……これ、どこかに出すの?」
「いえ」
 とっさに首を振った。
 本当は県主催のビエンナーレに出すつもりで描き始めたんだけど、なぜか気後れして言えなかった。
 黒瀬さんの瞳がわたしをとらえる。くちびるだけで微笑んで、わたしは作業机の上に散らばったパステルをしまうことで気を紛らわせようとした。
 何だろう? 二人きりになるとテリトリーが狭まる感じがする。
 こんなに物静かな人なのに……何がそんなに不安なんだろう。
「あのさ」
 遠慮がちに、黒瀬さんが訊いてくる。
「俺の立場って――まだ『保留』なのかな?」
 見上げた瞳がまぶしそうに揺れた。
 ――研究科に入ってきた時から、ずっといいなと思ってた。
 みんなとカラオケに行った帰り道、二人きりになった時にそう打ち明けられた。
 絵の具やオイルパステルの染みがついたシャツやトレーナーを着て、ひっつめ髪のまま作業してる姿しか見てないはずなのに、それでもちゃんと女として見られてたことが嬉しかった。
 繊細で透き通るような黒瀬さんの水彩画が大好きで、アーティストとしてずっと憧れてもいた。
 だけど、どこか胸の中がモヤッとする。がつっと響いてこない。
 ドミの前では、『つきあってる人くらいいる』なんて口走っちゃったけど、本当のところはまだ返事もしていない状態の、"保留"だった。
「いや、ええと、んじゃそれは置いといて……今日、良かったらいっしょに帰らない?」
 あわてて黒瀬さんが片手を振る。
「……あの、今日はちょっと寄りたいところがあるんです」
 プレイオフ3戦目。ドミがホームゲームに戻ってくる今日の試合は、こっそり観戦しようと思っていた。
「じゃあ、そこまで送るよ」
 黒瀬さんの笑顔を見た瞬間に、こめかみがチリッとした。
 どっちが大事なのか、ずっと前からわかってるはずだった。

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 冷たいリンクを我が物顔で駆け回る、日本リーグ屈指の大型ディフェンス。
 そんなふうに呼ばれることもある8番を、わたしは飽きることなく見つめる。
 広い肩で敵のオフェンスを止め、リーチの長い腕でスティックを伸ばしてパックを弾く。
 相手を見据える時の双眸が獰猛な野生の生き物を思い起こさせるせいか、誰が言い出したのか氷上のアリゲーターというあだ名がついた。
 彼は、きっとここで光を浴びるために世に出てきたんだろう。
 そう思わずにいられない。
 夢だよと笑われてもいい。
 勝ち続けて。
 いつかあの銀の杯に名前を刻む時がくるまで、目なんか逸らさない。
 ゲーム終了のブザーが鳴り響き、勝利にスティックを天井めがけて突き上げるドミの姿を見ながらそう思った。
 ずっとここで見ていてあげる。
 その瞳が、どこを見つめていようとも――。


 結局、黒瀬さんは試合終了までわたしにつきあってくれた。
 でもそれで気持ちがはっきり決まった。期待を持たせるのも彼に失礼になる、と。
 ぱらぱらとした観客に混じって外へ出たところで、横顔を見ながら告げた。
「ごめんなさい、黒瀬さん。わたし――二人きりではもう会えない」
 黒瀬さんの眉がすっと下がる。
「……悪い。俺、急かした?」
「いえ、そうじゃないんです。わたしの、気持ちの問題」
 首を振ったら、彼の嘆息が耳に届いた。
「構わなかったのに。保留でも」
 絞りだすように言う。
 ごめんなさい。わたしはもう一度くりかえした。
 あんなどうしようもない男のためにこんないい人を断るなんて、やな女……どうせ片思いなのに。
 ついこの間、衝動的にくちびるを落としてしまった傷のある耳を思い出してまた胸が痛くなる。あんなに驚くなんて……そんなにイヤだったのかな。
 だけど勝手なわたしは、きちんと言葉にできたことに安心した。もうこれ以上テリトリーが狭くならないことにほっとしていた。
 だから、周りにまで神経が行き届かなくて。
 興奮した様子で階段を駆け下りて来た数人の集団に追い越されて、初めて自分が階段を降りきったところで立ち止まっていることに気づいた。
 わ、と大きな声がしてわたしをよけ損なった人が背中にぶつかる。
 ばしゃ、と肩先に冷たいものがかかり、びっくりして振り向こうとしたら押し飛ばされた。
 かかとが何かに当たる。車が入り込むのを禁止する鉄製のポールだと認識した時には、もう路上に手をついていた。
 そんなものがあることすら気づかなかったわたしは、本当に最大級のまぬけだ。

 しかも、転んだ瞬間反射的に右手をついたのがまずかった。体をかばおうとした手首がおかしな方向にねじれ、鋭い痛みが右腕に走る。
「いたっ」
「早坂!」
 黒瀬さんが間に入って
くれてなかったら、わたしは踏みつけられてたかもしれない。
「危ないなー、いきなり突っ立ってんなよ」
 ビールの入ったカップを手にしたままそうぼやく人に黒瀬さんが刺すような視線を投げた。
「何を……よそ見してたのはそっちだろうが」
「はぁ?!……あんた何様?」
 相手の声色が変わる。焦げつくような空気が流れたのが誰の目にも明らかだった。
 どうしよう……膝から下に力が入らない。走って逃げることもできそうになかった。
 怖い痛い怖い痛い。もう何が何だかわからない。不安に押しつぶされるようにうつむいた。
「あーあ、何へたってんだよ、そんなとこで」
 リンクの出口から聞こえてきたその声に、はっとした。
 顔を上げる。
 はるか頭上から、さっきまで氷の上を駆け回っていた男が仁王立ちになってわたしを見ていた。
 くせ毛の黒髪。今日はベッカムみたいなスタイルで上半分だけ結んでいる。顎とくちびるの上には、ぱらぱらした無精ひげ。
 背負った大きなバッグの後ろから黛くんの姿も見えた。心配そうなゴーリーの表情と、気の抜けたドミの顔が対照的だった。
「スッ転んだのか? ったく、だからおまえは危なっかしいんだっつーのに」
「う」
 うるさいな、と叱り飛ばそうとして口元がひきつった。涙が喉に広がってしょっぱい味がした。
 ……わたしって本当にいやな女だ。こんな時なのに、わかってしまった。
 どうして黒瀬さんのテリトリーじゃ安心できなかったのか――。
「あれ、あんた……佐藤ドミニク?」
 カップを手に持っていた人が訊く。
「あ、黛さんもいる」
 おお、と周りの集団からも声がして、その場の雰囲気が一変した。
「俺ら今日のゲーム見てたんだよ、ちょっとサインして、ここ、ここに!」
「俺も俺も」
「はいはい、並んで並んでー。マユマユのサインが欲しい人はこちらへどうぞー」
 仕切りたがりのドミがおどけて言い、焦げついた空気が音を立てて吹き飛んだ気がした。
 立ち上がって、脇に寄り、右手首を確かめる。にぶく広がるいやな痛みにくちびるを噛んだ。
「大丈夫?」
 黒瀬さんがわたしの顔を覗きこんでくる。
「平気です、ちょっとひねっただけ」
「でも病院で診てもらったほうが」
 黒瀬さんの言葉が終わらないうちだった。シャツの裾がひるがえったかと思うと、誰かが道路に出てタクシーを急停車させた。
「ちず、乗れ!」
 有無を言わさないその態度のせいで、みんなの視線がわたしに集中する。
 ものすごく恥ずかしくて、タクシーに乗り込むしか逃げる方法がなくなった。ふらふらと後部座席に座り込む。 
「俺もいっしょに行くよ、早坂」
 ドアに手をかけてそう言ってくれた黒瀬さんの肩を片手でちょっと押し止めるようにして、ドミが彼の顔を覗きこむ。
「千鶴と同じ大学院の人?」
「はい」
「あんた、いったい何してたわけ?」
 え、と思った。
 凍りついたような表情の黒瀬さんと、まっすぐ彼を見つめるドミの視線の間には隙がない。
「どこ見てたんだよ、なんでちゃんとつかまえててやんなかったんだよ。大ケガしたらどうするつもり? なあ?」
「や……やめてドミ。ぼんやりしてたわたしが悪いの」
 矢継ぎ早の鋭い声に、思わずドミのシャツをひっぱる。足が震え出した。
 黒瀬さんが息をのむ音が聞こえた。
「……こいつちいせーんだからさ、頼むよ」
 ドミはそれだけ吐き出すと、わたしの声なんか聞こえなかったように軽々とタクシーに乗り込んできた。荷物もいっしょなので狭い車内がぎゅうぎゅうになる。
 運転手さんが遠慮がちに後ろのドアを閉め、黒瀬さんとわたしたちを遮った。
「大丈夫かな……あのまま残してきちゃって」
 ドミが近くのクリニックの名を告げて走り出したタクシーの中、まだ痛む手首を撫でながら言った。
「マユに任せとけばヘーキ」
 わたしが訊いたのは黒瀬さんのことだったんだけど。そう思いつつ、窓の外を眺めて口ごもる。
 しばらく街灯を数えてからまた口をひらいた。
「あんな言い方しなくたって……一人で大丈夫なのに」
「つきあってる男ってあいつのことか」
「ドミには言いたくない」
「じゃあ言わなくてもいいけど。俺のこと好きなら、今だけ黙って可愛くしてろ」
「――す」
 ……何言い出すのよこの男は。
「好きだなんて言ってないもん」
「それならなんでキスなんかしてきたのか俺にはよくわかんないけど」
 バックミラーを見たら、ぎょっとしたような顔の運転手さんと目が合ってしまった。心臓の動くスピードが格段に早くなる。
「べべべつにキスなんかじゃなくて……傷が良くなるといいなって、そう思っただけでしょ」
「キスじゃない? へーえ? あーそう。キスじゃないんだ? ふーん」
 ひとりごとみたいに繰り返し、運転手さんから視界を遮るように、運転席のヘッドレストに左腕を伸ばしてくる。
 ぐうっと体が近づいた。触れそうで触れない距離。
 やだ、心臓の音まで聞こえちゃいそう。
「だったら」
 街灯の明かりに照らされて、上目遣いの訳知り顔が見えた。きっとわたしの顔が赤くなってるのもわかってるはずだ。
「どんなのがおまえの言う『キス』なわけ?」
 瞳の中まで覗きこまれて、かあっと頬が熱くなる。
 ……サイアク。
 なんでこんなやつ好きになっちゃったんだろうと思って泣きたくなった。
「なあ? 聞いてんのか、千鶴――」
 顔が近づき、後部座席の背もたれにあったドミの右手がわたしの髪に触れた。指先にからめるようにして一房すくいとる。
「……や」
 思わず身がすくんだ。
 そこでゆうるりとタクシーが動きを止め、ドアが開いた。
「着きましたよー、お客さぁん」
 にやにや笑いを含んだような運転手の声。
 ドミが目を細めて体を離すと、わたしはやっと、めまいがしそうなほど息詰まる空間から開放された。

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 近づかれるとどうしていいかわからないくらいめまいがするのに、診察が終わった後、待合室の長椅子にどっかり座っているドミを見たらほっとした。
 雑誌から目を上げ、右手首にシップと包帯を巻いたわたしの姿を見つけて、どうだ、と訊きたそうに顎をしゃくる。
「……捻挫だって」
 少し距離をあけてとなりに腰かけた。
「あの……ごめんね」
「あぁ?」
「プレイオフ。せっかく試合勝ったのに……みんなとお祝い、したかったでしょ」
「なに気ィ使ってんだよ、いーよそんなこと」
 ばさ、とドミの指先が雑誌をめくる。
「だって……」
 声が消え入りそうになってしまった。怒られてるのかと思った。
「プレイオフなんて今日だけじゃねぇだろ。見てろ、あと1試合でとっとと今シーズンのカタつけてやる」
 見上げたドミのくちびるの端、片方だけが、ぐにん、と伸びて持ち上がった。
 隠したくても隠せないような、なんだか悪巧みしている男の子みたいな横顔。
 ずっと見ていたかったのに、あっさりかき消えてわたしを見下ろしてくる。
「おまえこそ、いま大丈夫なのか? 何か描いてたんじゃないのか?」
 訊かれて、完成間近のパステル画がわたしの脳裏にひるがえった。
 ……そうだ。だいたいのイメージは固まっていても、右手が使えないとかなり不便だ。
「うん。でも、何とか頑張ってみる」
 受付から、早坂さーん、と呼ばれた。
 処方箋を手渡してくれた看護婦さんにお礼を言って会計を済ませ、ふたりで並びながら出口に向かう。
「……昔さー、見せてくれたじゃん。何とかいう石膏像のデッサン」
 大きなバッグを軽々と背負いながら、ドミが話し出した。
「ああ……"あばたのビーナス"?」
「そう、それ。俺あれ見た時、おまえアホじゃないかと思った」
「アホって何?!」
「だってそうじゃん。何枚も何枚も同じ絵ばっかり、ちょっとずつ角度ずらして横から描いたり後ろから描いたりさー。何が楽しいのかと思った」
「失礼ね、美大受験者はそうやって練習すんのよ! あんただってするでしょ、シュート練習!」
「そうなんだよなー、それで気づいちゃったんだよ」
「何が」
 まだ怒りながら訊くと、ふっと笑われた。
「描き終わった日に日付入れてたろ? 何枚も見ながら日にちを追ってくと、おんなじ石膏像の絵でも黒いとこはちゃんと黒くなってたの。おまえのビーナス」
 思わず足を止めてドミを見上げた。
「黒くなってるってことはさー、白黒コントラストがついて塗りこんでるってことだよな? 形が見え出したってことだろ?」
 ……そうだね。シュート練習で、弾かれるばかりだったパックがゴールネットを揺らすようになるのと、ちょっと似てるかも。
「何の賞めざしてんのか知らないけど……描けよ。描いてる限りは、きっと上手くなってんだからさ」
 前を歩かれると肘のあたりが目の前にくる。ずかずかと歩きながら、ぜんぜん違うほうを向いて彼が言った。
 ……このひと、今わたしをどれぐらいドキドキさせてるかわかってるんだろうか。
 表情なんか見えないから、どんな顔をして言ってくれたのか見えやしない。追いかけて、視界をふさぐ壁みたいなシャツを見つめた。
「病院までついて来てくれて……ありがと」
「おう」
 ぶっきらぼうな低い声を聞きながら、心の中でささやく。
 優しいドミニク。
 ――大好き。

 

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