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|| | | |  アイスレベルへようこそ  −5th period−  | | | ||

 

 

 ……あー、もうイヤ。
 強化ガラス越しに、リンクにいちばん近いアイスレベルで見守りながらため息をついた。
 ――あの20番、どーしていつも来てほしくないところに入ってくんのよ?!
 それだけじゃない。後ろを見もしないでバックパスを出す。パックを受けると周りを寄せつけない早さで飛び出す。
 敵とはいえ……ムカつくわ 、あのセンスの良さと瞬発力。
 繰り出すシュートがいかにみんなをヒヤッとさせているかは、ゴール前でとられたペナルティの多さを見ればよくわかる。
 1ピリと2ピリ、シュートに続いて滑り込んできたプレイヤーから黛くんを守ろうとして相手を小突き回しグローブを投げ捨て、ディフェンスの秋山くんとドミはペナルティボックスに入ったり出たり忙しかった。
 ……ゴールクリーズは聖域だ、という話をよく聞く。
 ドミはあの水色のナワバリに入ってくる対戦相手に容赦しない。
 怒りをあらわにして相手の肩を突き飛ばし、スティックで押し返す。乱闘にもつれこむのはそんな時だ。
 パックを守りきった黛くんはそんなドミたちにさっさと背を向け、マスクを押し上げると涼しい顔をしてゴールネットの裏に回りこみ滑り去る。
 ……マユくんて、氷の上と外じゃ別人かも。そう思いながら笑ってしまう。
 ゴーリーが熱くなってどうする。
 ドミならきっとそう言うだろう。後のことは俺らにまかせとけ、と。
 ダーティな役目を引き受けると、俄然カッコ良く見えてくるタイプなのかも。
 今だって、ボードを乗り越えて飛び出していき、20番を妨害する後ろ姿が嬉々としている。
 リーチの長い腕でパックハンドリングを崩し、体を使ってボードに当てる。
 20番の口元が歪んだけどホイッスルは鳴らない。がつんごつんと音をさせながらシューズとスティックの先で小さなパックを掘り出す。
 パックはまっすぐシルバーウルブズに渡った。応援席からタンバリンを振る音がする。
 ボードに押しつけられていた20番は、走り出しながらついでにドミの肩を思いきり押していった。負けずにドミもスティックで背中を押し返している。
 ペナルティを取られませんように、とドキドキする一瞬、わたしの心臓は大きく動く。
 パックがキャプテンに渡り、応援席の声援が一層大きくなる。
 1ピリで1点入れているキャプテンだから、期待も高まった。一旦フォワードにパスしておいて、自分でゴール前まで入り込んで行く。
 キャプテンのスティックが後ろに上がり、スラップショットの構えになった時。
 決まりでしょ。
 わたしは心でそうつぶやいた。だけど、あっけないほど軽い音がしてパックはポストに弾かれる。
 こぼれ落ちた黒いかたまりを、向こうのディフェンスががこんと送り出した。
 その先には――あのムカつく20番。
 胸の中がざわざわした。
 あー、とかわーとかいう声が応援席からもれ、反対に相手チームの応援席がこれまでにない盛り上がりを見せる。
 両手が祈るような形になった。やだ。やめて。ミスして。お願い。
 思ったところでどうなるもんじゃないってわかってるけど、そう考えずにはいられない。
 弾丸みたいなスピードで滑り出す20番の前方を後ろ向きに滑りながら、ドミが防御の構えに出る。
 大きく氷の削れる音。
 ドミのバックスケーティングを見ているといつも思う。
 ……もしかして、後ろにも目がついてるんじゃないの?
 あんなふうに氷の上を滑れたら……そう思わせる人をたくさん見たけれど、わたしの心臓を止めるくらいドキドキさせてくれるのはドミしかいない。
 ドミが上がり、秋山くんが下がる。ふたりの間には20番。
 シュートを止めようと、秋山くんが必死にスティックを伸ばすそのブレイドの先が翻る。
 20番がスティックを振り上げた瞬間。
 ドミのシューズの下から、ジャッという氷を切るような音がした。
 観客の中から悲鳴みたいな声も上がった。
 一瞬、両足が氷から浮いて、189センチの体がパックの前に踊り出る。
 ――息を止めて見ていた。
 身を挺してパックを阻止するドミの姿を。
 小さなパックがわき腹の辺りにぶつかり、氷の上でくるくると回る。
 その時には、氷上でうつ伏せの状態になっていた。
 歓声の中、シルバーウルブズのキャプテンがパックをクリアする。
 つーっと滑ったそれがブルーラインを超えた辺りで、館内に試合終了のブザーが響き渡った。
 リンクに起き上がったドミは両手を挙げてそのままボードに近づき、観客席の最前列にいた若い男性と強化ガラスを挟んでがあんとハイタッチした。
 吼えるように雄々しげなドミの声と、ボードの揺れる音が耳に届く。
 秋山くんが、次いでキャプテンと他のみんなが流れるように寄ってくる。
 グローブもヘルメットもスティックもその場に放り出す。くしゃくしゃになった。みんなすごく嬉しそうだった。
 いつの間にか立ち上がっていたわたしは、その様子をアイスレベルから見つめた。
 鼻の奥が痛い。寒くなんかないのに手が震え出して、体を抱えるようにして立っていた。
 ひとしきり確認しあうように優勝を分け合って、赤いカーペットが用意され始めたところでドミの姿がベンチの近くに舞い戻ってくる。
 きつく伸び上がった眉の下の瞳がわたしを見た。
 視界が涙でにじみ始め、また鼻が痛くなってきた。
 ドミは一瞬、しょうがねえな、って顔をして、わたしに向かってすっと右手を掲げた。
 手の甲を外側にして人さし指で作ったのは、数字の1。
 一位ってことかな、と思っていたら、続けてわたしの方を指さした。
 ……とっさに、響子さんはこっち側にいないよね、と考えてしまった。
 彼女は確か反対側にいたはずだ。妹さんたちといっしょに、マユくんを応援してたはず――。
 指はしっかりわたしを指していた。
 そのまま、 こっちへ来い、というように頭を傾け、大きく腕で引き寄せるような、手招きするような動きを見せる。
 苦笑いみたいなドミの顔が、すぐにわたしの視界からにじんで溶けた。

 

 優勝杯の授与や記念撮影の間も、ずっと見つめ続けた。
 クセのある黒い髪。触れてみてわかった。考えていたより柔らかかった。
 今日は結んでないから、肩まで落ちた髪が時折揺れて汗に光っている。
 背中に大きく8と縫い取られた白いジャージ。
 黙って見つめていたら、数字が翻ってこちらに近づいてきた。
 靴のままでリンクに降りたわたしのそばへ軽い音を立ててやってくる。
 しびれるような熱を持ったまぶたを見られたくなくて、前髪を直すふりで目元を隠した。
「まだ痛いか、手首?」
「もうヘーキ……」
「あれ? おまえ、今日化粧してる?」
 予想もしてない質問が飛んできた。
 だけどそんなことより、まっすぐ顔を見られたことが照れくさくてリンクに視線を落としてしまう。
「……してない、リップクリームしか」
「あぁ?」
 長身を屈めると、いきなりダッフルコートの上から背中を引き寄せられた。
「何? 聞こえねぇよ」
 たぶんドミは、周りのざわめきからわたしの声を聞きとろうと耳を近づけたつもりだったんだろう。
 氷の上は靴でも遥かに滑りがよくて、引き寄せられて、ドミの喉元がすぐ目の前にきた。
 しっかりした顎の線と、わたしとは違う生き物みたいな喉仏。
 き。
 ゃ……と、声を上げる余裕もなかった。
 右腕で髪の毛ごとぐっと胸に抱きしめられ、頭頂部にくちびるが触れた。ぶつかったみたいに。
 不安定な氷の上でバランスを取ろうとしたら、押し返すつもりのわたしの両手はとっさにドミのジャージの胸をひっぱってしまった。
 もう一度、くちびるが髪に触れる。今度は明らかな意思を持って、両手でわたしの髪を押さえる。
 心臓が、これ以上は無理ってぐらいのスピードで鼓動をかき鳴らしている。
「あのヘンな男とはつきあうな」
 ……え?
 へ、ヘンな男って誰?
 顔を上げて訊き返そうとしたら、うなじの辺りを引き寄せられた。わたしとドミの間に隙間がなくなる。
 髪も腕も指先も、触れたところから痛いほどの熱が広がってゆく。
「好きだって言うなら俺にしろ」
 抱きしめられてるっていうか抱え込まれてるっていうか、つかまるものがドミの体しかなかった。
 自分の心臓の音と、彼の声しか聞こえなくなる。うまく息ができない。
 さっきからざりざりした無精ひげがオデコに当たるし目の前はちかちかするしもう何が何だかわからない。
 ――このひと、わたしを殺す気ですか。
 泣きそう。
 いくら優勝直後で気持ちが高揚してるからって、この状態で平然としてられるほど神経図太くできてない。
 がくがくした膝のまま、目の前のジャージにしがみついた。
「聞いてんのか、千鶴? ちゃんと好きだって――俺が好きだって聞かせろ」
 そんな声が届いた直後、体が宙に浮いた。
 世界がすうっと下がった。触れていた氷が遠ざかる。
 両腕で膝の辺りから抱き上げられたんだ、と気づいて火がついたように頬が熱くなった。
 めまいがするような熱の中、ドミの肩と首に手を回し、返事をしたのかしないのかわからないうちに。
 わたしの意識は掠れるように遠のいた――。

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「……で、そのあと医務室のお世話になったわけね、ちずは」
 新婚旅行帰りのグレイスが、カプチーノの入ったカップをスプーンでくるくるかき混ぜながらため息まじりに言った。
 午後も早い時間のコーヒー専門店にさしこむ陽射しに、日に灼けた頬が光っている。
「どうりで家に帰ったら煮え切らない顔してたはずだわ、ドミのやつ。優勝したのに何でかなぁって思ってたのよ」
 返す言葉もなかった。
 のぼせて倒れたわたしは、あの後の祝賀パーティにも行けず一人アパートに帰って寝込むはめになった。
 せっかく初めての優勝だったのに、情けないっていうか救いようがないっていうか……さぞかし呆れてるだろうなと思ったら気後れして、まだドミには電話もしていない。
「確かにあいつは熱くなると周りが見えなくなるしょーもない男だけど……あたしが新婚旅行に行ってる間にそんなことがあったなんて」
「ご、ごめんね」
 お土産にもらったミニチュアのウクレレをお守りみたいにぎゅっと抱きしめて、下を向いた。
 爪が当たったのか、ぽろん、と陽気な音がする。
「やだちょっと、なんで謝るの」
「だって……グレイスの大事な弟なのに」
「いーのよあんな弟! 押し倒してキスでも何でもしてとっとと食っちゃっても! あげる、ちずになら特大のノシつけてあげるわ」
 ……そそそそんな。
 恥ずかしくなってますますうつむいた。
「なんだ……なぁんだ」
 わたしのいちばん大事な友だちの、笑うような声が聞こえる。ちらっと目を上げて確かめた。
「こんなことなら、お揃いのウクレレじゃなくてペアリングでも買ってくればよかった」
 くちびるを尖らせるグレイスが可笑しくて可愛くて、わたしはふっと笑い出してしまう。
 グレイスも笑顔になった。
 子供の頃からずっとそうしてきたように、わたしたちは声を立てて笑った。
 ほんのりコーヒーの香りが漂う明るい陽射しの中、この空間を共有できることが嬉しかった。
 大切な友だちが、わたしとは違う立場で大好きなひとを支えてくれている。慈しんでいる。
 こんな幸せって、誰にでも落っこちてくるものじゃない。
 そう教えたら、ドミは何て言うだろう?
「ね、ちず」
 柔らかい笑みが消えた後で、スプーンを置きながらグレイスが言う。
「ん?」
「ごめん、ここからは姉としてじゃなく言うから聞いて」
 ……ごめん?
 ごめんて何?
 そう訊き返すつもりでグレイスを見たら、今まででいちばん真剣なまなざしとぶつかった。
「お願い、あいつのこと離さないで。そばから離れないで、どうなっても――どうなっても、よ」
 ハシバミ色の瞳がわたしを映して潤むように揺れるのを、黙って見つめる。
 グレイスの放った最後の一言が、店内のざわめきにかき消されることもなく、波紋のように広がってゆく。
 ――喉いっぱいに、氷のかけらを流し込まれたような気持ちになった。

 

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