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|| | | |  アイスレベルへようこそ  −6th period−  | | | ||

 

 

「ドミー、ドミ!」
 1階から母親の声がして薄く目をあけた。連日の祝杯のせいで、こめかみの辺りがきりきりする。
 ……酒はもう当分いらねぇ。
「起きてるのー、寝てるのー? ドミニク、返事しなさい!」
「――あー……?」
「おまえに電話」
 ……千鶴か。
 待ってろ。二日酔いが抜けたらとっととかっさらってやる。
 天井を見上げながらひとりでニヤついた。
「ケータイにかけろっつっといて」
「えー? だって国際電話よ、早く出なさい」
 国際電話……? 千鶴じゃないのか。
「どこから?」
「チェコ。あんたちゃんと会話できんの?」
 その言葉を聞いて、半分ずり落ちていたベッドから身を起こした。

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 ……幸運てのは、ある日突然ひとつが転がり込んでくると、もうひとつ、ふたつと重なって雪だるまみたいにでかくなるもんなんだな、と思った。
 リーグチャンピオン。
 実力面ではほとんど差がなくても、やっぱり注目される度合いとそこに加算される質が変わるんだろう。
 もともとチェコに地盤のある俺の場合はそれもプラスに働いた。
 母親の通訳なしで話をした後、これだけ会話ができればまずまずだ、と受話器の向こうから笑い声がした。
 電話を終えてから、俺の腕の中に転がってきたもうひとつの幸運のことを考えていた。

 

 ガラガラッと引き戸をあけて玄関に入り、あがりかまちにどっかりと荷物が入ったバッグを置く。
 KOHOとメーカー名が入ったスティックをそっと下駄箱に立てかけた時、こつ、と小さな音がした。
「あ、帰ってきたみたい。ちょっと待ってて」
 家の中からそんな声がして、立てつけの悪いガラスの引き戸のあく音がする。
 電話の子機を持った母親が顔を覗かせる。仕事の途中だったのか、縁なしのメガネをかけていた。
 オフクロは最近、チェコ語の翻訳もするようになったとかで忙しくしている。
 プレイオフの間も、原稿の納入とぶつかって家からは一歩も出ていない。
 つらつらとそんなことを考えながら、あがりかまちに腰かけてワークブーツのひもをほどいた。
「ドミ、ちずちゃんだよ」
「……ったくどいつもこいつも、電話ならなんでケータイにかけてこねえんだよ」
 右足のひもをほどいて、左足のひもに手をかけた時だった。
「何言ってんの。来てくれてるのよ、ここに!」
 ――え?
 背筋が伸びたせいで、着ているウィンドブレイカーが騒がしい音を立てる。
 家の中を振り返った俺の視線の先、黒いタートルネックとジーンズという格好の千鶴がいた。
 頭の少し高いところでひとつに結んだ髪が、馬のしっぽみたいに長く下がっている。
「……出版社の人だって。電話」
 そう言って申し訳なさそうに弁解したのは、千鶴だった。
「オフクロさー、子機片手にそういう言い方はナシにしろ。紛らわしいだろうが!」
「まー、勝手に勘違いしておいてその言い草はどうだろうねまったく。態度も体もデカイ男は目障りだよ、どっか行っといで」
 片手でしっしっと追い払う。
 困り顔でオフクロを見ていた千鶴が俺に目を向けてくる。どうしよう、と訊かれてるような気がした。
 ひとつ大きな息をつきながら靴ひもを結びなおす。もうほどけないように、しっかりと。
 あがりかまちから腰をあげ、玄関の引き戸をあけて中を振り返った。
「……コート着てこいよ、外寒いから」
 そう告げると、千鶴はほっとしたように眉を下げた。


 ――家から坂を下ったところに新興住宅街があって、その入り口にちょっとしたコンサートができる公園が隣接している。
 蕾もついていないサクラの木々の下、野外舞台に向かって半すり鉢状になっている観客席の脇の階段をゆっくりと降りた。
 近郊大学のサークルだろうか。舞台ではトレーニングウェアを着た男女が何人か集まって、談笑したり立ち稽古をしている。
 最初のうちだけ舞台を珍しそうに見つめていた千鶴は、学生たちの声が聞きとれそうで聞きとれない位置を選んでコンクリートの観客席に腰を降ろした。
 舞台とは反対のほうを向きながら、たっぷり間を空けてとなりに腰かける。
「なんでそんな遠くに座るの?」
「……またぶっ倒れられたら困るから。次は倒れる前にちゃんと返事しろ」
 正直に答えてやったら千鶴の頬にさっと赤みが差した。
 あんなふうに倒れられちゃ、うっかり抱きしめることもできない、小さな千鶴。
 もし俺が、この世界でいちばん幸運だと思えるようになったら――こいつにも少しはそれを、分けてやることができるだろうか。
「……したもん、返事」
「へー? 俺は聞いてないけど」
「ちゃんと言った」
「もういっぺん言って」
「やだ!」
「なんで? 減るもんじゃなし……俺のこと好きなんだろ?」
「そそそそうやって、わたしにばっかり言わせるのって卑怯」
「卑怯? あ、わかった。俺に好きだって言ってほしいんだな? だったら今ここで、いくらでも言ってやる。いいのか? いいんだな? ちゃんと覚悟しろよ?」
 片手を口の横に当てて空を見上げ、すっと息を吸い込む。
「ややややめてやめて!!」
 野外舞台で練習していた学生が一瞬沈黙し、やがてくすくす笑いが聞こえた。
「ちず、おまえすっげぇ可愛いわ」
「……サイテー。ドミのばか! こんな話がしたいんじゃないのに、どうしていつもイジワルばっかり言うのっ!」
 それは、きっと。
 意地っぱりでもはねっかえりでも、肘掛けにぴったりなくらいちっちゃいところも、俺を見つけて泣きそうになるところも全部――。
「やっぱり俺のものだって確かめたいくらい、好きだから」
 赤いダッフルコートの襟に埋もれるようにしてうつむいていた千鶴が、顎を持ち上げて正面を見る。
 横を向いて、そこで初めて、となりに座っている俺の顔を見た。
「ずっと、響子さんのことが好きなのかと思ってた……きれいな人だし」
「あー、だよなぁ」
「は?!」
「でも俺が今好きなのは千鶴。それで誰かに迷惑がかかったとしても、俺の知ったことじゃない」
 当たり前のことだから、きっぱり言い切ってやる。
「……ドミは、誤解してるよね。ううん、どっちにもはっきり言わなかったわたしが悪いんだけど」
 困ったように微笑んで、後を続けた。
「黒瀬さんとは、つきあってなんかない。もったいなかったけどちゃんと断った」
「もったいなかったって何だ」
「好きなのは、最初から――ドミだけ」
 そこで、怒ったりニヤけたりしてる忙しい自分の顔を想像したら吹き出したくなった。
 ……何だよ。勝手に誤解してリキんでた俺ってものすごく滑稽じゃん。
 でも反面、こんなにいっぺんに幸せがくるなんて俺の人生もう今日で終わるんじゃねえのか、とも思った。
「わたし、諦めたりなんかしないんだからね……ドミがチェコに行っちゃっても」
 考え込むような強い瞳で指先を見つめながら、千鶴はそれだけ言った。
 何だか人生で最大の告白を聞かされてるみたいだった。
 面食らったというよりは、ああ、そこまで気にかけてくれてたのか、と思ってまた嬉しくなる。
「それでムクレてんのか」
 オフクロから聞いたのかな。グレイシーかも知れない。
 チェコのエクストラリーグからのオファー。
 チャンスを結果や実績につなげられる人間は限られている。
 そういうプレイヤーになりなさい、と電話口で言ってくれたコーチの言葉を思い出した。
「ずるいよね、いくら向こうにおじいさんたちがいるからって……簡単に海を越えちゃうなんて」
「ばぁか、たかがトライアルだろ。まだ決まってもねえじゃん。その前に世界選手権もあるし、べつに一生の別れってわけじゃ――あれ? 何だよ泣いてんのかオイ?!」
 言葉の途中で光る粒が落ちた。
 思わず千鶴の額に伸ばそうとした手をあわててひっこめる。
 こんなことしてまた倒れられたらマズイ。そう考える俺の目の前でまた、ぱたりと涙の粒が落ちた。
 耳の後ろをこすりながら空を仰いだ。どうも今までと感覚が狂う。
 ……こいつには敵わない。
 なんてあっさり俺を打ち負かすんだろう、と思った。
「ごめん。こういう顔、見せたくない」
 落ち着きのなくなった俺のとなりから立ち上がり、千鶴が階段へと向かう。
 1段、2段。階段をのぼるたびに、結んだ髪が揺れた。
「ちょっと待てよ」
 座ったまま右手を伸ばして千鶴の左手首をつかみ、やんわりと引き止める。
「そんなさぁ、泣くことないでしょー。ずるいのはどっちだよ? 笑っていってらっしゃーいとかって送り出してくれないわけ?」
 はらはらする俺の気持ちと重なるように、千鶴の肩が揺れた。呼吸を無理やり止めようとするような、落ち着かせようとするような息の音。
 ……俺のほうが泣きそうだぞこれ。
 手首をつかんだまま、ベンチから立ち上がる。
「泣きやんで。なあ、機嫌なおして」
「ドミはずるい。わたし……わたしなんか、がんばっても全然うまくいかないのに」
 すっと息を吸い込んで、千鶴が言った。
「うまくいかない? 何が?」
「ビエンナーレ」
「……あ?」
 何だって?
 いきなり魔法の呪文みたいな言葉が飛び出したせいで思考が止まる。手が離れた。
「2年に1度開かれる、県主催の美術展……今回は、どうしても出展したいの」
 また息を吸う音。千鶴はポケットからハンカチを出して、それをまぶたに当てながら俺のほうを向いた。
「もし入賞したら研修旅行がつくことになってて、それで……行けるから」
「……どこに?」
「ヨーロッパ5カ国――チェコのプラハも入ってる」
 2段高いところに立っている千鶴に近づき、ハンカチを押し当てている小さな片手を頬から外した。
 言葉が何も出てこないまま、見つめていた。
 夕暮れの陽射しをたずさえて、わずかに潤む、深い色の瞳を。
「プラハにいられるのは3日くらいらしいけど……少しでも、ドミに近づけるかなって思って。そうしたら強くなれるかなって――だから」
 しゃくりあげるような声は止まり、まだぬれたままのまつげが俺のほうを向く。
「だから。わたし、ドミを離さないし、会えなくても諦めないよ」
 千鶴の声が、まっすぐ胸に収まるように落ちてきた。
 151センチの千鶴。なのに、ずっと大きく見えた。
 丸くカーブを描く額の下、意志の強さを見せつける瞳に射すくめられる。
 いま触れることができたなら、これまで考えていた幸せなんか全部間違いだったと吹き飛ばせそうだった。
 ケタ違いだ。
 千鶴をこの腕に抱きしめられるなら――。
「頼むから、ぶっ倒れるな。今だけは」
 弱々しい俺の警告は語尾がかき消えた。
 段差のせいで、真正面から向き合うといつもよりずっと近い目線になる。
 両腕で赤いコートを囲うように引き寄せる。ぐっと距離が縮まっただけで目の前がちかちかした。
「ぜったい入賞して、ちゃんと俺にわからせて」
「……何を?」
「今よりデカイ幸せもあるんだってこと」
 小柄な体を俺に傾けてくる。
 首に回してきた両手で髪を梳き、ウィンドブレイカーの襟をかさりと引き寄せられた。
 下を向いたまつげが丸く持ち上がった頬に影を落とし、見ていた俺の鼓動に加速をつける。
 大きな額の横に垂らした前髪を耳にかけてやると、どちらからともなく額を寄せあって。
 すくいあげるようなキスをした。
 一度、二度。その間を縫って、うわごとのように好きだと告げる。
「……ドミニク」
 千鶴のささやきに応えるようにまたくちづけた。
 俺の名前を呼ぶ、熱いくちびる。
 もういちどキスをかわして、お互いのまつげが頬に触れあったその瞬間。
 倒れるならきっと、俺のほうが先だ、と思った――。

 

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