>>NOVELS >>TOP * 1 | 2 | 3 *


アイスブレイカーにくちづけを 第2話

 

「……すげぇ、でっけー横断幕」
 レンガ造りの県立美術館の入り口はひどく大きかった。
 2階の壁いっぱいに掲げられた、10メートルはありそうな白い横断幕を見て読み上げる。
「『第5回みなとビエンナオーレ』」
「ビエン『ナーレ』」
 俺の肘の辺りから千鶴の声がした。
 ……そんな花粉症の呪文みたいな名前、どっちだったか覚えてねーよ。
「で、どこにあんの? 俺の絵は」
「『俺の絵』じゃないでしょ、わたしの絵!」
「モデルは俺なんだから俺の絵だろ」
「だめ。絶対あげない」
「ごちゃごちゃ言ってねぇで早く来い」
 左手で小さな右手を包み、正面玄関をくぐった。
 自動ドアの先のマットを踏み、もうひとつ自動ドアを通り抜ける。空調が効いた館内は涼しかった。
 平日だけど夏休みが始まったばかりなせいか、グループを作った入場者がチケットを切ってもらっていた。
「あ、俺チケットまだ買ってねぇ」
「大丈夫、出展者は2人まで無料で招待できるから」
 千鶴が麻のカゴみたいなバッグから一枚のハガキを取り出し、『出展者受付』と紙が貼られた長い机の受付係に見せる。
 今朝慌てて押し込んだまま忘れていた白い封筒の角が覗いてぎくりとした。
 ……やべー、カゴかと思って押し込んだけど、あれってバッグだったのか。ちずに見つかる前に抜き取っておかないと。
 考えながら、もう一度視線を前に戻す。
 受付係は濃紺の制服を着た年配の女性だった。ローズピンクのメガネフレームを押し上げて名簿とハガキを照らし合わせている。
「絵画部門の早坂さんですね……はい、どうぞお入りください」
 館内に入る時、その年配の受付嬢が振り返り、メガネの向こうから俺を確かめたような気がした。
 ブルーグレイのカーペットが敷かれた館内。俺と千鶴は、右から反時計回りに進む人の流れに沿って歩きだした。
 中は壁を挟んで2つに区切られていて、向かって右側が立体製作部門、左側が絵画部門になっている。
 窓を大きく取って自然光を入れているせいで暗くはないけれど、時々ぼそぼそ話し声がするだけで動きがない。
 壁に掛けられたいくつもの立体作品と、中央付近に置かれた彫刻作品。
 あんまり静かすぎて、千鶴がいっしょでなければ5分で昼寝場所になりそうだった。
 ……でもあの固そうなソファは遠慮したいな、と、館内のところどころに置かれた軽石みたいな物体を見て考えた。
 絵画部門のスペースに踏み込もうと、壁の近くまで来た時だった。
 手をつないでいた千鶴がぴたりと立ち止まる。つられて俺も足を止めた。
「なんだよ」
 振り返って訊くと、視線が揺れた。
「そっち側は、一人で行って」
「はぁ? なに言ってんのおまえ」
「……恥ずかしいんだもん」
「いまさらもう遅ぇよ。つーか、後ろがつかえるから早く来い」
 くいっと手を引っぱる。
「だって……ドミ、怒らない?」
「あ? なに、そんなに似てねぇの? 俺もしかしてひっでぇブサイク?」
 そりゃマズイなー、と半分笑いながら答えた。
「ね、やっぱりわたし行きたくない」
「あほぅ。ちずが描いた絵だぞ。きちんと飾ってあるとこ、おまえが見なくてどうする?」
 手を引っぱりながらパーティションの向こうへと進む。みんなじっくり眺めているのか、人の流れもゆるやかだった。
 どの作品の前にも人垣ができてるけど、身長189センチの視界を遮るほどじゃない。
「ほれ、肩車してやるか? もったいねぇじゃんか、せっかく――」
 言葉はそこで途切れた。
 というか、目に飛び込んできたものを慎重に分析しようとしたら、同時にしゃべる能力にはスイッチが入らなくなった、と言うべきか。
 ガラスの額縁に入れられた、横に長い形の画。思ってたよりずっと大きかった。
 それから、なんて言うんだろう――厚みがあった。
 一見してオイルパステルとアクリル絵の具で描かれた絵だとは思えないほど。
「……あれって、俺?」
 とっくに背中を向けて反対側を見ていた千鶴に訊いた。
「もっと近くに行って見て来るけどいいよな?」
 片手でいってらっしゃいの合図をされる。
 つないでいた手を離して、絵の前に固まっている人に近づいた。
"県知事賞 『激戦区』"とタイトルがつけられたその絵は、まるで燃え立つような絵だった。
 長方形の黒いマッティングに囲まれた紙の中を、スローモーションで切り取ったように走るホッケー選手。
 黒いヘルメットと白いジャージ。どこのチームが使っているものか、俺にはすぐわかった。ジャージの袖についた番号は少しデフォルメされた8の字に見えた。
 歯を食いしばってるのはわかるけど、メットのシールドが少し反射して表情までは見えない。
 背後に何人かチームメイトがいる。手前の対戦相手からは激しいボディチェックが来そうな構え。
 飛んで来るパックと、長いスティックが弧を描いて揺れる振り子のような動きまで伝わってくる。
 足元から立ち昇ってるのは確かに雪煙だけど、オレンジや赤が混じって尾を引いているせいで冷たく感じられない。
 何度も何度も手でラインを取ったのだろうか、細い線や太い線。表面はよく見ると引っかかれたり盛り上がったりして、それが凹凸を作っているようだ。
 紫、青灰、黒、紅、生成り……刷毛で一撫でしたような荒々しい線や掠れた幾本かの輪郭の上に、様々な色が乗っていた。
「すっげぇ……」
 思わずこぼれ出た大声のせいで、前の方にいた人がチラリと俺を見上げてきた。
 くすっと笑われて初めて、自分が口を開けて絵を見ていたことに気づく。
 でもそんなことはどうでもいい。
 小さな千鶴を振り返る。所在なげな顔をして、早く出ようよ、と言いたそうに手招きされたけど、そんな要求はカンペキ無視した。
 もう一度、絵に視線を戻す。
 ……あいつが。
 これを。
 描いたのか。
 歩くことと走ることができるようになってすぐにホッケーシューズを履いたけど、あまりに関わりが深いせいか、今までアイスホッケーを第三者の目で見たことはなかった。
 だから、気がつかなかったんだ。
 口を閉じるのも忘れて見入るほど、こんなに――必死で、きれいなものだったなんて。
 ひとつひとつの線が、生きているようだ。
 息を飲む。
 目を閉じる。


 やっぱり、このままどこまでもさらってゆきたい。
 ――俺の千鶴。
 まぶたの裏に、炎にも似た激しさを持つ氷がスパークするのが見えた。

 

>>NOVELS >>TOP * 1 | 2 | 3 *