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ラッキー・スパイラルU 第1話

 

解けない魔法のかかり方、
教えます。

 

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「響子ー、おい、響子!」
 1階からお父さんの大きな声がした。
 読んでいた雑誌から顔を上げて、部屋のドアを開ける。
「はーい、なぁにー?」
「今日の夕飯てどこだー?」
 ……夕飯?
 確か、お母さんがしっかり用意して冷蔵庫に入れておいてくれたはず。
 3月最初の日曜日。久しぶりのクラス会があって、お母さんは嬉しそうにでかけて行った。昼前のことだ。
 階段を降りてキッチンに行くと、お父さんが冷蔵庫に頭をつっこむようにして中を覗いている。
「もうお腹へったの?」
「いいや」
 ……うそばっかり。
 そわそわしながらも、まだ冷蔵庫から離れようとしないお父さんに苦笑いした。
「ちょっと早いけど夕飯の支度しちゃおうか? わたしとお父さんだけだし」
「そっか? 悪いな」
 ぱたん、と冷蔵庫の扉を閉めるお父さんの顔は輝いていた。
 ……なんか、あれみたい。
 ごはんをもらう前の子犬。そう考えて、つい笑ってしまった。
「後片付けはお父さんがやるぞ」
「はいはい、サンキュー」
 タートルネックのセーターの袖をまくりあげて、シンクで手を洗う。
 今日のメニューは和食好きのお父さんに合わせて、じゃこと水菜のサラダにあさりのお味噌汁、蒸しニジマスのネギあんかけ、豆の煮物。
 すべてお母さんが下ごしらえして準備してくれたから、わたしは和えたり温めたり蒸すだけ。
 うふふー、お母サマサマだ。
「お米は2合でいいよね。残ったらおむすびにできるし……お父さん、今日ずっと何してたの?」
 炊飯器のスイッチを入れる。
「部屋で本棚の整理してた。読まなくなった本、どっかで引き取ってくれたよな」
「うん。わたしもあるから一緒に出せばいいよ。梢子のも」
 そこでお父さんは押し黙った。
 ダイニングテーブルに両肘をついて、メタルフレームのメガネを押し上げる。
「……どうなのかな」
「どうって?」
「梢子だよ」
「がんばってるよー。帰国までもう少しでしょ。向こうでできた友達と名残惜しんでるんじゃない? 帰りたくないとか言い出したりしてねー」
「え?! そんなこと言ったのか?!」
 あわてたお父さんは椅子ごとのけぞって床を鳴らした。
「ちょっともー、なあに? 冗談だってば」
 お味噌汁を火にかけながら答えた。
 お父さんはハラハラしたままの表情で、頭に触ったり腕を組んだり落ち着かなくなった。
「帰ってこないなんてことありえないわよ。まだ高校が残ってるんだし、待ってる人がいっぱいいるんだから」
 妹の心中を代弁するようにつけくわえる。
 ポロシャツの胸の前で両腕を組みながら、そこでお父さんはわたしに顔を向けた。
「……まだ、続いてるのか」
「何が?」
 気づかないふりを決めこむ。
「ほれ。ナントカいうやつ。見送りに来ただろう、空港まで……」
「あー、中河原くん?」
「知らん!」
 きゅっと眉間のシワが深くなる。
「『知らん』とはどういう意味?」
 可笑しかったのでお父さんの口調を真似て訊き返した。
「名前なんかどうでもいい。耳にも手にもジャラジャラ何かつけて髪を長くしてハデな格好をして……ああいう青年は見たくない」
 ……あら、何だ。けっこうよく見てるんじゃない。
 ニジマスを温めながら、テーブルからは見えないところでにやりとした。
「んー、でも彼ってすごくいいお家のひとだよ。知ってるでしょ、中河原家。茶道の」
「知らん知らん! 道楽息子しかいない家だぞ、しかも3番目がいちばん性悪だって聞いた!」
 んまぁー、すごいなぁ、そんな情報どこで仕入れてくるんだろう。
「へえー、そうなんだ?」
「へへ、へえって、へえって響子……」
 お味噌汁を小皿で味見しながら顔を向けると、お父さんのメガネがずり落ちた。
 片手を振ってやった。
「そんなことないない、わたしも何度かしゃべったことあるけど、けっこういいひとだよトキマサくん」
「騙されてる。響子も梢子も……お前たちは騙されてるぞ。だいたい、うちとは住む世界が違うに決まってる!」
 思わず吹き出しそうになった。
 ……イマドキそんなこと考えてるのは、日本全国探してもきっと心配性の父親たちだけだわ。
「梢子も梢子だ。他にいくらでも選べるのにどうしてあんな……」
「よぉし、夕飯完成!」
「なあ聞いてるのか響子!」
 泣きそうな声がキッチンに響いた。

 

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 木曜日の夜は借りてきたビデオを見ながら夜更かしした。
 アメリカの法廷ドラマで、1話2話と見たら続きが気になって1週間で見る予定のノルマを全部見終えてしまった。
 証人喚問とか陪審員とか繰り返し聞かされて、ものすごく脳が活性化されたのは嬉しかったけど、金曜の朝は寝坊して、いつもは使わない最寄りの私鉄の駅を使うはめになってしまった。
 線路の幅が広く電車も大きいこの路線は、この時間だと隙間もないくらいの人がひしめいている。
 人込みと一緒に移動するように車内から降りて、プラットフォームを歩いた。
 階段を降り、駅の構内を歩きながら改札を目指す。
 いつもは使わない駅。いつもと違う景色。
 構内は工事中なのか、黒いゴムが敷き詰めてあり、クリーム色の壁が通路を半分ブロックして出口につながっていた。
 緩やかに曲がるそのカーブに沿って、ヒールの低い靴で進む。
 壁にはポスターがたくさん貼ってあった。
 ……そういえばこの駅の近くに、新しいショッピングセンターか何かできるんじゃなかったっけ?
 考えながら顔を上げて、通路の片側に貼られているポスター群の前を通り過ぎる。
 うわー、急がなきゃ。朝のミーティングに遅れちゃうかも……。
 1歩2歩3歩4歩。
 黒いゴム板の上を歩いて、5歩目で通り越したポスターにちらりと目を奪われた。
 最初は、暗い背景にバストショットの男の人が写っているだけだと思った。
 後ろから進んでくる人たちに押されるようにして足は自動的に進んでゆく。
 何枚か違うポスターの前を通り過ぎ、また同じポスターが見えた。
 今度はよくわかった。
 白い、プラスティックのヘルメットみたいなものを頭にかぶっている。
 何だろう? お面? マスク? 
 その覆いを額の上に押しあげてまっすぐ正面を向いている男の人の顔――向かって右目の下、頬骨に沿って確かに凹凸があった。
 ……ちょっと待って。
 これって。
 このひとって――。
「わ、わっ!」
 急に立ち止まったわたしに、後ろを歩いていた人がぶつかりそうになりながら追い越してゆく。
「ごめんなさい……」
 頭を下げるのも忘れて突っ立っていた。
 誰かの舌打ちが聞こえた。
 前をよく見ないまま歩いていたのか、たたらを踏む人もいた。
 でもわたしは壁のポスターを見つめたまま動けなかった。
 心臓が特大のシンバルを打ち鳴らしているようだ。
 白いマスクと白いユニフォーム。ごついグローブをはめて、ヘラみたいな木の板を持っている。
 ぬれた黒髪は短め。
 深い色の強い瞳。それから頬骨に沿って流れる、目の下の傷の痕。
 やっぱり彼だ。
 あの時、階段から落ちそうになったわたしを支えてくれた彼……。
 でも、あの朝わたしに見せた、儚げな色なんか影も形もない。
 だあれ?
 彼はだれ?
 頭に明滅するのはそんな言葉だけだった。あわててポスターを確かめた。
 隅のほうに、ゴシック体で小さな活字が印刷してあった。
 ――横浜シルバーウルブズ、黛 秀勢。

 

 

 わたしはすっと息を吸い込んだまま、そこで一瞬呼吸するのをとめた。
 漢字の上には、小さくふりがながふってあった。
 まゆずみ しゅうせい。
 それが、彼の名前だった。

 

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