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5周年記念この人たちにしましょう企画・第1位


    「 空はどんな味がする? 」

 

 5月最後の日曜日。
 青い晴れ間のところどころに雲が浮かんでいた。
 日本の空はやさしい色だ。目にしみるようなコバルトブルーじゃなくて、シカゴでは見られないほどやわらかくて淡い青。
 電車の窓から、そんな空の下、新緑のアクセントがついた景色を眺めているうちに駅についた。赤と黒の車体の成田エクスプレスを降り、大きな荷物を肩に背負いながらエスカレーターをあがる。
 これから旅行にでかけるのか、ガイドブックを見くらべながら笑顔でスーツケースを転がしているグループや、出張帰りのビジネスマンといった風情の恰幅のよい紳士たち。
 目に見えるところはどこも、夏がはじまる前の浮き足立つような空気でいっぱいだった。
 俺のとなりには、伏目がちな表情で歩いている多佳子。濃い色のジーンズにふんわりした白いブラウスを着ている。
 心臓がぎゅるんとはねあがった。
 ……俺がどのくらい深い恋に落ちたか、ちゃんと告げたことあったっけ?
 急に不安になった。
 たくさんの人々のあいだを歩きながらつないでいた手を引き寄せ、甲の上にくちびるを落とす。
 多佳子の頬がなだらかに持ちあがり、サクラみたいな色に染まる。
 伏目がちだけど、つるんとしたくちびるがほほえんでいた。
 俺が同じことをするたびに、このひとはこれからもずっとこんな表情をしてくれるんだろうか。
 そう思ったら飛行機に乗るのが本気でいやになる。
 この夏ずっととなりにいて、多佳子がどんなふうに俺と恋に落ちてくれるのか眺めていたい。
 笑顔を見せるときはいつでもそばにいたい。
 涙を流すくらい悲しいときはすぐに駆けつけたい。  
 恋のはじまりは一度しかないのに、日本とアメリカに離れなきゃならない自分に毒づいた。


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  チェックインを終えてバックパックひとつの身になっても、心はあんまり軽くならなかった。
「なあ、お願いがあるんだ」
 並んでイスに腰かけながら訊く。
「一緒に来いっていうんならだめよ」
 即座に返された。
「はいはい」
 ……そんなのもうイヤってほどわかってるよ。
「そうじゃなくてさ、なにか身につけてるものくれない?」
「身につけてるもの? どんな」
「なんでもいいよ。その……ピアスとか。つぎに会うときに返すから、それまで貸しておいて」
 離れていても、多佳子を感じられるものといっしょに居たかった。 夢のようにすごした2週間が、夢じゃないって確かめられるように。
 星の形をした小さな小さなピアスを耳からはずし、俺のてのひらに落としてくれる。
「きっと返してね。わたし、とりに行くから。シカゴまで」
 うん、とうなずいて、星たちをバックパックの小さなポケットにしまった。
 わかってる。もしもとりにこなかったら、そのときは俺が届けにくる。
 できればこの星たちが、多佳子がものすごく大事にしてるものだといいんだけど。
 ――ときおり、別れの挨拶をかわすひとたちが目の前を通りすぎていった。友人か同僚か、そんな雰囲気の中での見送りだった。
 そうしたひとの群れを眺めながら、気持ちだけはもう8月に飛んでしまったように先のことばかりしゃべっていた。
 シカゴの観光地も、だれも知らないようなとっておきの場所もぜんぶ俺が案内してやる。
 双子たちも母さんもトニーもきっと歓迎するよ。
 ボイスはひと懐こいから大丈夫。公園まで散歩するのが好きなんだよ……
 ハードでさみしい夏を乗りきる動機づけをしてる俺に気づいたのかそうでないのか、ほほえみながら聞いてくれた。
 言葉少なに俺の手を握っていた多佳子がやっと口をひらいたのは、搭乗予定の飛行機の最終案内になった頃だった。
「もう行かないと、飛行機遅らせちゃうよ」
 イスから立ち上がって、促すようにつないだままの手を揺らす。
 ……なんだよ。
 最後のひとときなんだからさ、めいっぱい名残惜しんだっていいじゃんか。これから8月まで会えなくなるんだぞ。
 俺はこれみよがしにため息をつき、バックパックをつかんでのろのろと腰をあげてやった。
 出発便ご案内と書かれた大きな掲示板の下まで進み、多佳子に向き直る。
「向こうについたら電話する。日本語もっと勉強して、メールも送る……毎日きみを想う」
 きっとだ。
 左手をつないだまま、右手で細い髪の表面をそっとなでる。
 思ったより落ち着いた声になれたのは、とうとう泣きだした多佳子を宥めたかったからだ。  
 だけど涙はいっそうあふれるばかりで、俺の胸はまたざわめきだした。
 多佳子の涙を理由に、もういっそ帰国するのもサマージョブもとりやめにしようか。
 ほんのわずかな時間、そう考えた。
 でも、それじゃ彼女に甘えて自分の軟弱さを押しつけてるだけのような気がして思い直す。
 泣いているけど、それは引き止めたくて泣いてるんじゃない。
 また会えるってわかってても、抑えきれない感情の涙なんだろう。多佳子をそうさせているのがだれでもないこの俺なんだってことは、むしろ光栄に思うべきだ。
 それに、もう知ってるはずじゃないか。
 このひとが、意外と強くて威勢がいいひとなんだってことを――。
「そんなに泣かれると、帰れない」
 Tシャツの上に袖を通していただけのシャツを脱いで、細い肩を覆ってやる。
「うん、わかってる」
 多佳子は袖口をそっとひっぱって目元を拭いながらうなずいた。
「帰り、気をつけて。一政さんに迎えに来てもらえよ」
「……もう行って? こうしてるから」
 シャツの袖口で目隠ししていたせいで、最後のキスは髪の上に落とすことにした。
 続きはこの次会ったときに。
 バックパックを肩に背負って出発手続きのひとの列に向かう。
 1歩2歩3歩。
 それほど長くないひとの列に近づきながら、もう一度振り向こうと思ったそのとき。
「迅一郎、待って!!」
 泣きだしそうな声がきこえて振りかえると、駆け寄ってくる多佳子が見えた。
 細い指でTシャツをひっぱられ、あとはあっという間だった。
 すこしだけ身を傾けた俺に、体ごとぶつかってきた多佳子のくちびるが重なる。
 反射的に目を閉じて、肩からはずれたバックパックをそのままフロアに落とした。両手で多佳子のジーンズの腰を引き寄せる。
 どこかから女性のため息にも悲鳴にも似た声がした。
 わずかにくちびるを離してもう一度キスしようとした直前、視界の端に立っていた制服姿の男性がゆらりと近づいてくるのが見えた。
 右手のてのひらを見せながら来るなと制止する。そうしている間も惜しんでくちづけた。
 警備員だろうが誰だろうが知ったことかよ。
 邪魔するな。  
 左腕で多佳子の肩をつつんで抱き寄せ、角度を変えて、飽きることなく何度もくちづける。
 はやし立てるような口笛が通り過ぎ、冷やかしの言葉を口走るポルトガル語が耳に届く。
 俺と多佳子の鼓動が共鳴して体が揺れているように感じた。
「なあ……こんなに好きなのに離れなきゃならないなんておかしいだろ。一緒に来いよ」
 細い髪をなでながら言った。
「もう決めた。いやだって言ってもさらってくぞ。シカゴまで連れて行く」
 多佳子がわずかに首を振る。まつげの間からいっそう涙がこぼれ落ちたので何度も言うのはあきらめた。
 かわりに親指で涙をぬぐってやりながら強く抱きしめて、耳元にくちびるを寄せた。
「他のことなんかなんにも考えられないんだ。多佳子のことしか考えられない。きみがいなくちゃ始まらない」
 何度もつぶやいた。
 胸の裏が痛くなる。
 コントロールが効かないってこういうことか。
「すごい、くらくらするぐらい好きだ。俺もう多佳子なしじゃ生きていけない」
「そんなふうに言われたら……笑って見送りできないよ――」
 語尾が震えて俺の腕の中に落ちる。
 空港内の英語アナウンスで繰り返し呼ばれているのが自分の名前だと、そこでやっと気がついた――。


|||||  |||||  |||||

 

 長い列を追い越して係員につきそわれながら光速の勢いで出国審査を終え、通路は全速力で走った。
 驚いたようにふりかえって俺を見ているひとがたくさんいた。ゲートまでの通路を駆けぬけながら、こんなに一生懸命走ったのはいつ以来だろう、と考える。
 ものすごく必死なのに心は不思議なくらい満たされていて、こみあげてくる笑みを走りながら抑えるのはなかなか至難の業だった。
 足音を響かせながらコンコースを貫き、息を切らせて機内に乗りこむ。  
≪急いでください。席についたらシートベルトをしっかり締めてくださいね≫
 険しい目つきの搭乗員が機内放送の受話器をあげながら言い、別の職員がすぐに扉を閉めにかかった。
≪たいへんお待たせいたしました。ただいま最後の、えー、最後のお客様が搭乗されたので、当機はまもなく離陸態勢に入ります≫
 狭い通路を進んでゆく俺にむけて、あちこちから拍手と英語の歓声が湧いた。左手を挙げてそれに応えてやると今度は口笛が飛ぶ。
「たいへんお待たせいたしました。当機はこれよりまもなく離陸態勢に入ります」
 続けて日本語でもアナウンスがあったけど、こちらは拍子抜けするくらいあっさりしていた。
 航空券の半券に記された番号とアルファベットを頼りに座席をさがす。窓際の席だった。
 同じ列の通路側に座っていたスーツ姿の日本人らしい男性がいったん立ちあがり、俺を促してくれる。スミマセン、と頭をさげてそのひとの席と真ん中に座っている小柄なおばあさんの前を進んだ。
 座席に座りかちりと音を立ててシートベルトを締める。窓から見える景色がきらきら輝いていた。
 視界の端に見えている建物の中に、まだ多佳子がいるはずだ。8月にはまた会えると約束してくれた。
 彼女の声を思いだすと自然に笑みがこみあげてくる。ほほえんだままのくちびるで外を眺めた。
≪……よっぽどの事情があったようね≫
 前のほうから声が聞こえてきたので顔をあげると、さっき盛大に遅刻アナウンスしてくれた搭乗員が俺を見ていた。
 透明なカップにミネラルウォーターを注いで差しだしてくる。だけど、それを受けとって俺に渡してくれたのはとなりのおばあさんだった。
 どうも、と礼を言ってカップをもらった。
≪Tシャツに口紅ついてるわ。赤いの≫
 きついウェーブの金髪をした搭乗員は鼻にしわを寄せて俺の胸を指した。
≪マジで? ぜんぶ俺がはがしちゃったと思ったけど≫
 ははは、とシャツを確かめもせずに答えた。
 今日の多佳子は口紅なんかしていなかった。うっすらと輝くグロッサーだけだ。
 赤い口紅なんてもともとつけない。
≪この次はきちんと言っておくことね。落ちない口紅使うようにって≫
 対照的に鮮やかなローズ色で彩られた添乗員のくちびるがゆがんだ。
≪いやー、でもあれって男からは意外とガッカリされるものらしいし≫
 今度ははっきりと睨まれる。
≪そんなにしっかり塗らなくても充分きれいなひとだから、俺としては自然なままのほうがいいかなぁって≫
≪……それに、落ちない口紅は意外とくちびるが乾燥しやすくてすぐゴワゴワ≫
 黙って俺たちのやりとりを聞いていたとなりの席のおばあさんが、シワだらけの小さなくちびるをすぼめてつぶやいた。
 なんだか妙に説得力があった。
 添乗員にむかって肩をすくめてやる。
 俺とおばあさんを見下ろしていた添乗員は、眉をつりあげてさっと顔をそむけると、ものすごい勢いで前のほうの席へと戻っていった。
≪なんですかね? 俺きっと嫌われたんだろうなあ≫
≪それにしては、あなたとっても幸せそうね≫
 おばあさんは片目を閉じてつぶやいた。
 ……そうか。俺いますごく幸せなんだ。
 多佳子がくれた、たぐり寄せるような荒っぽいキスのせいかな、と考えてとうとう笑ってしまった。
 きっとそうだ。
 かわすたびにもっと欲しくなるキスなんて初めてだった。
 あんなに甘くて胸が高鳴って常習化するものがあるなんて――。
 頭の中でひとりそんなことを考えたとき、動き出した機体がゆっくりと方向を変え、滑走路に乗った。
≪さあさ、シカゴなんてひとっ飛びよ。空の上では楽しく過ごしましょ≫
 髪が真っ白なせいか人種ははっきりわからなかったけど、おばあさんの英語の発音にはどこかなじみがあった。
≪そうですね≫
 俺とおばあさんは顔を見合わせてお互い笑顔になった。
 行きのフライトじゃ乗ったとたんに眠りに落ちたのに、多佳子のせいでシカゴにつくまで眠れなくなりそうだ。
 細い髪や彫刻みたいな鎖骨や甘く響くやさしい声。あのひとのことを考えるだけで、ダンスしてるみたいな鼓動になる。  
 これからはじまるのは、夏だけじゃない。夏の青空の入り口で、味わったことのない未知のなにかが待っている。
 その昂揚感に重なるように、飛行機はスピードを上げて離陸準備に入った。
 外の景色に視線を移すと緑も光も初夏の色を含んでいて、明るくてまぶしくて鼻の奥がむずむずした。
 背中がシートに押しつけられ、窓から見える空の青さが際立つ。  
 機体が斜め上を向く。
 小さな窓から射しこむ太陽の陽射しを受けてカップの水がきらめき、機内に光のもようを描いた。
 長いフライトはこれからだ。
 この2週間を思い返しながら、シカゴまでの6000マイルをずっと恋心に浸っていくのも悪くないよな。
 そう考えながら、ぐっと距離の縮まった青く透明な空を見つめた。
 

 

 

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「あなたに星が見えるまで」第19話の迅一郎視点になっております。
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