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* 第10話 最愛を手に入れた男 *

 

 その日は、早朝のスコールが嘘のように晴れ上がり、湿度も低くて過ごしやすい日だった。
 森大里は身支度を整えてクロゼットの扉を閉じた。今日は、昼すぎから美凪につきあってダウンタウンで開かれる個展に出かける予定が入っている。
 開いたままのドアが軽くノックされ、戸口に美凪が顔を覗かせた。
「ねえ恍こう、ブランチは新しいカフェに寄ってみてもいいかしら?」
 彼女は白いジーンズとスニーカーに夏空を思わせる水色のリネンのシャツという恰好だった。首もとにはパールのネックレス、手首にはシルバーのバングル。
「もちろん」
 森大里が答えると、美凪は彼の姿をひとめ見て笑いをこらえるような表情になった。
「外はすっごく気持ちいいわよ。ちょっとした散歩みたいなものだし、今日はスーツじゃなくてもいいんじゃない?」
「そう、かな」
「このあいだのジーンズ素敵だったわ」
 にっこりとほほ笑む美凪の頬がばら色になる。
 大男はクロゼットの扉を開け、手前の引き出しにたたまれていたインディゴ色のデニムを手にとった。あまり頻繁に穿くほうではないが、思っていた以上に動きやすいとわかってからは時々身につけるようにしている。
 なにより美凪が嬉しそうにしてくれるのが森大里には心地よかった。
「ジャケットはそのままで、下にこれを合わせてみたらどう?」
「Tシャツか、いいですね」
 美凪から手渡されたのは濃いグレーのVネックのシャツだった。これまでほとんどスーツしか着てこなかった森大里は、内心、へぇ、こんな着方もできるのか、と思った。
 バスルームで着替えて出てゆくと、窓から外を見ていた美凪が振り返った。輪を作るようにして森大里の両手をとり、頭を右に左に傾けながら大男を見上げる。その口元から大きな笑みがこぼれた。
「スーツも良いけど、ジーンズもよく似合うわ」
  両腕で彼女に抱きしめられ、森大里の心臓がびっくりしたように跳ねた。
「今日はずっとわたしといっしょにいてね」
「いつだってずっと、そうしてますよ」
 両腕で抱きとめて髪にくちづけると、オレンジスパイスの香りが森大里の鼻先をくすぐった。
「この香り……」
「え?」
「香水ですか? あなたのそばに寄るといつもオレンジの香りがする」
 ああ、とつぶやいて、美凪はそっと頭を上げた。
「香水じゃなくて、化粧水よ。オレンジフラワー・アブソリュートの。乳液からバスソルトまでぜんぶ同じ銘柄を使ってるから、香りが移ったのかしら?」
「忘れられない香りだ。あなたによく合っている」
 初めて会った時から好きだった。
 森大里はもう一度、その香りを楽しんだ。

 

 

 ゆったりとブランチを楽しんだあとで、個展の会場へ向かった。ダウンタウンの中心部、アーティストたちが多数集まって暮らす、俗にクリエイターズ・スクエアと呼ばれる一角だ。
 一、二階のフロアが展示室や会議場として使われ、上層階は芸術家たちの居住スペースやアトリエになっているビルが多い。
 美凪と森大里が版画作家や陶磁器の個展を見て、最後にジュエリーの個展会場に足を運んだ時だった。
「こんにちは。素敵な作品展ね」
 真鍮と水晶でできた大振りのネックレスを見ていた森大里は、となりから聞こえてきたそんな声に視線を向けた。
 見ると、シャンパンゴールドのジャケットとそろいのプリーツスカートを身につけた女性が大男を見上げている。女性は胸の上できれいにカールされた長い髪を揺らしながら言った。
「見ているだけで心をつかまれてしまいそうだわ」
 森大里より十歳ほど若いだろうか。ハンドバッグやハイヒールなど、身に着けているものはブランドに疎い彼の目にも高価そうに見えた。
 だが、森大里が真っ先に気づいたのはそんなことではなかった。
 女性の背後、少し距離を保ったところに直立不動で立っているダークスーツの男が二人――彼らはまちがいなく、かつての森大里と同種の仕事をしている男たちだ。
 警護の者がつくということは、この女性がそれなりの立場にあるということを意味する。皇族か、大使館関係者か、政府高官、その近親者。
 だとすると、この女性は自分の元雇い主かもしれない。その瞬間、森大里の脳裏にある記憶が浮かんだ。  
「あの、ご無礼をお許しください。もしかしたら……仙せん家のご長女さまでは?」
 森大里が言ったとたん、きれいに整った女性の眉がわずかに動いた。
「いやだ、あんなに毎日顔を合わせていたのに、わたしだとすぐわからないなんて」 
 わかるわけがない。
 彼女の父親に自分が雇われていたのはもう20年近くも前になる。彼女はまだ高校生だったはずだ。
「失礼いたしました。警備の仕事を退いてしばらくたつもので」
 森大里は目を伏せた。
「まあ、そうだったの。いまはどちらに?」
「陸軍大学で教鞭をとっております」
 女性は一瞬驚いた表情になったが、すぐに穏やかな笑みを見せた。
「あなたが教官? でもなかなか相応しい気もするわね。うちに来たセキュリティであなたほど関わってくれた者はいなかったわ」
 森大里は思わず笑顔になった。
「関わったといっても、お菓子作りの試食や宿題の手伝いですよ」 
 しかも当時いたセキュリティの中で自分がいちばん年若かったからにすぎない。
 その後に関わった哲笙やキショウに比べたらはるかに責任も他愛もないものだった。久下家とは関わりの密度がちがうのだ。
「それに、あなたがデニム?」
 ローズピンクのくちびるが笑みを描く。
「……おかしいですか?」
 大男は両手を広げて自分の姿を見下ろした。
「いいえ。上背があるからとてもよく似合うわ。ずいぶん雰囲気が変わったわね」
 森大里を見上げる瞳がきらきらしていた。
「さきほどからいっしょにいる――あのかたのせいかしら?」
 女性は、あちら、と敬意と優雅さをたたえた指先をそろえて向けた。
 美凪がジュエリー作家のひとりと話を終えるところだった。笑顔で作家からコーリングカードを受けとると、森大里を見つけて歩み寄ってくる。
「ぼくから紹介しましょう。久下美凪さんです。こちらは以前お世話になった仙家のご長女でレイミさまです」
 はじめまして、とお互いに挨拶をしながらも、森大里が「さま」ではなく「さん」づけて呼ぶ意味をレイミはまっすぐに理解した。同時に、まぶしくてしょうがなかった。
「お父さまのお名前はよく存じています。こんな形で森大里が知り合いだったとは驚きだわ」 
「森大里氏には大変お世話になりました。両親ともども感謝しております」 
 レイミの父親は財務省幹部で、母親は女優である。レイミ自身は確かピアニストとして活動していると美凪はどこかで聞いた記憶があった。
 今日は友人の作品展を見にきたのだという。
「お会いできて光栄でしたわ」
 レイミは別れぎわにそう言って笑顔になった。友人作家のそばに歩み寄るレイミの背後を、つかず離れず、絶妙の距離感ですべるようにボディガードがついてゆく。
 淡い既視感を抱えながらその姿を見送った美凪は、その場をあとにしながら森大里の腕に手を回した。
「尊い役目なんでしょうね、彼女の警護なら」
 先に立って導くようにビルのドアを開けながら、森大里が訊いた。
「なぜそう思うんです?」
 ふたりは腕を組んだままビルの外にある駐車場へと歩いた。外はもう夕暮れが迫っていた。
 美凪は少し間をおいて、言葉を続けた。
「生まれ持った家柄や気品とおなじくらい、彼女から漂ってくる物にブレがなかったもの。きっと、わたしみたいに感情で振り回したりしないでしょ」
「……おや」
 大男は困ったように眉を下げて耳の後ろをかいた。
「そんなことを気にしてたとは――ずいぶんと、子どもあつかいされていたものですね、ぼくも」
 軽いビープ音とともに電子キーでドアを開錠したセダンの助手席側までエスコートすると、ドアの取っ手をつかんだまま、自分と車の間にそっと美凪をとじこめる。
「こうは思わないのかな? 振り回されてもいいと考えていたボディガードがいたとは」
 ドアにそっと背中をあずけ、美凪が大男の正面に向き直る。
 見上げた先の黒い瞳は、困ってなどいなかった。
 慈しむようなまなざしで美凪を包みこんでいる。
「ぼくがどれほど振り回されて、怒られて泣かれて不満をぶつけられて、突き飛ばされてからかわれて引っぱりだされても」
「もういいったら! なあに、わたしそんなにひどい雇い主だった?」
 美凪は両手でこぶしを作ると森大里の胸を叩いた。
 けっこうな力をこめたはずなのに、微動だにしない身体によけい腹が立つ。
 森大里は潮騒のような穏やかな笑顔になり、風に乱れた美凪の前髪を右手の指先でそっと整えた。
「そんなことのあとに、頼られて委ねられて当てにされて信頼されて……それが至福だと思えることがどんな幸運かを知らないとでも?」
 ……知っている。
 自分は確かに。
 目の前の彼が。
 その幸運を思う存分堪能して、そして他でもないこの自分に注ぎ返してくれていることを。
「どうかしら?……じゃあ、試してみようかな」
 言いながら、両手でそっと彼のジャケットの襟を引き寄せる。
 大男が身をかがめた。
 そうっと彼の顎に額をつけて、美凪はささやいた。
「言っておくけど」
「はい?」
「子どもあつかいはしないわよ?」
「それが、ぼくの望みなんですよ」
 永遠の。
 笑うようにそう答えると、森大里は彼女の体を片腕に収めながら、そっと助手席側のドアをあけた。

 


 

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