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* 第3話 てんびん座の忘れもの *

 

 薄暗くなった学校からの帰り道を、ふたりでゆっくり歩いていた。  
 少し肌寒い天気に負けないように手をつないで。
 時々、肩と腕が触れ合って。  
「……じゃあショーコさん志望校にマークしたとこ全部ランクA? 余裕じゃん」
 先月の模試の結果が返ってきたばっかりで、せいぜいCランクがいいとこだった自分の結果を思い出して、ため息が出た。
 ……やっぱり、じいさんに言われたとおりかも。
 昨日、庭先で枝を切りながらつけてしまった右手の引っかき傷を見つめる。
 人さし指を曲げると、まだちくりと痛みが走った。

 大風で傾いた庭の植木に添え木をするというじいさんにつきあって半日過ごした。
 ついでに盆栽の剪定も手伝った。
 じいさんが自慢そうに見せびらかす盆栽たちのほとんどが、こうして俺が剪定して育て上げたものなんだってことを、いったいどのくらいの人が知ってるんだろう。
 ――おまえには案外、こういう作業のほうが向いてる気がするがなぁ。
 ――じいさま、それ俺には入れる大学がないってこと?
 ――たわけ。感性の問題だわ。
 そう答えて、じいさんは信楽焼きの茶碗から美味そうにお茶を含んだ。
 感性?
 ……どの感性のことなんだか、意味わかんねえ。
 剪定ばさみを置き、じいさんのとなりに腰かけて縁側でお茶を飲みながら空を見上げた。
 最高の秋晴れだった。
 茶道家なら自分の庭くらい自分で管理せよ、というのがじいさんの持論で、声がかかる前にとっとと外へ逃げた親父や兄貴たちのせいで俺が手伝うはめになったんだけど。
 こういう時だけジジイぶって腰が痛いとか言い出すの、やめてほしいぜまったく。

 ……背後をスクーターの通りすぎる音がして意識が引きもどされる。
 ま、とりあえず俺に必要なのは、模試より軍手かな。  
 家のそばまでたどりついたところで、ショーコさんの顔を覗きこむ。
「明日、またいっしょに帰ってもいい?」
 確認するように訊いた。言葉をもらわないと不安だった。
「うん」
「もうどこにも行ったりしないよな?」
「うん」
 俺はかなり情けない顔をしていたらしい。
 答えながら、高遠さんはハニワみたいな目で笑っていた。
 放っておけないな、って感じで。
 そうなんだよ、当たってるんだよショーコさん。
 だから、放っておかないでよ、俺のこと。
 これからも、ずうっと――。  
 道なりに少しカーブがついているせいで高遠さんの家からは見えないけど、それでもすぐ近くまで来てしまった。
 つないでいる指先の、すべすべした小さな爪の表面を何度も何度もなでる。
 離れたくない、のサイン。
 街灯にあかりが灯りはじめる。
 あんまり長くこうしてるのもマズイよな。
「じゃあ、ここで」
「……また明日」
 ショーコさんはそう言って体を翻した。
 一歩踏み出したスニーカーの足が、アスファルトの上で止まり、もう一度、今度は左の肩から振り向く。
「あ、忘れもの、した」
 後ろ姿を見送るつもりだった俺は、独りごとみたいなその声につられた。
 ――え?
 まっすぐ彼女を見下ろす。
 制服のポケットにつっこんだ腕を引き寄せられ、体勢が傾いた。
「……な、 ショーコ――」
 ぱら、と鈍い音がして。
 髪が頬にふれた。
 くちびるが重なったのはほんの一瞬だった。
 目を閉じる間もなく離れてゆく。
 間違えてくちびるにぶつかってしまったみたいなキスだった。
 キスは何度もしたことあるけど、いつも俺からで。
 こんなふうに人目のあるところでは頑として拒むのが俺のショーコさんだった。
 急に体温が上がった。体の熱度が上昇したせいなのか、目の前がちかちか輝いて見えた。
 右手で髪をかきあげる。
 気持ちを落ち着かせようと息をついて、そこであわてて周りを見回した。
「大丈夫、誰も見てなかったよ」
 いっただきぃ、と満足そうにVサインを作ってショーコさんが言った。
 ひどく楽しげな声だった。
 今度こそ背中を向けて、スキップしそうな勢いで高遠家へと帰ってゆく。
 視界がぐらぐら揺れたせいでコンクリートのブロック塀に片手をついた。
 ……い。
 いただかれてしまいましたよ。
 人生最大の幸福に酔いしれるって、こういうことか、と思った――。  

 

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