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* 第4話 氷の神さまには秘密 *

 

 ボタンを押したらびっくりするぐらい大きな音がビデオデッキから響いて、そうっとうしろを振り返ってしまった。
『――日本全国津々浦々のみなさまこんにちは。今日も始まりました、"アイス・エフェクト"』
 滑らかな語り口で話しだすアナウンサーの声が聞こえても、身動きする気配はない。ほっと息をついてまたテレビに視線を戻した。
 シーズンが始まって、グレイスが日本から送ってくれたビデオテープ。
 あんまり頻繁に見てるから、すり切れたりしないかとちょっと心配になる。
『さて、今シーズンは日本リーグの試合に加えて、チェコの最高峰であるエクストラリーグの模様もお伝えします。なんといってもすごい人が移籍されましたからねぇ』
『ええ、佐藤ドミニク選手ですね。どんなドラマを見せてくれるのか、テレビの前でわくわくしているホッケーファンも多いことと思います』
 ハイハイ、それはわたし。
 心で自答して、カーペットの上でひざを抱えた。
 部屋中をあたためる温水ヒーターが思い出したように音をたてるけど、かすかに聞こえてくる規則正しい寝息はまだそのままだ。
『この人はですねー、お父さんがチェコのかたで、小さな頃はチェコで暮らしていたそうですが、やはりそんなこともホッケーセンスに関係してくるのでしょうかねぇ、素晴らしいディフェンスの動きを見せてくれます』
『189センチと、恵まれた体格ですしね』
 何度聞いてもニヤつく解説にかぶせて、リンクの上で練習している姿が画面を流れてゆく。
 くせ毛の黒髪をひとつに結んだうしろ姿や、シュート練習をしている時にきつくはねあがる眉。
 チームメイトといっしょに親指を上げて見せる時のおどけた表情。
 ……どれもこれも抱きしめたいぐらいいとおしい。
 画面の中からウィンクしてくる愛すべき大男に、左手で投げキスを飛ばした。
 薬指にはまった、氷みたいに透きとおるチェコビーズの指輪が、ブラウン管の光に反射してきらきら光る。
 町で手作り用のキットを見つけて大きいのと小さいのとお揃いでふたつ作り、大きくてシンプルなほうをドミに渡した。
 自分用には先っぽに小さなスワロフスキークリスタルがついている。
 簡単な作りものだけど。
 お金もそんなにかかってないけど。
 世界にひとつしかないところがお気に入り。
 どんなに高級な――結婚指輪よりずっと。
『佐藤選手、試合前はさすがに顔つきが変わりますねぇ』
 テレビの画面に目を戻すと、チェコの国歌斉唱の一瞬、グローブをはめていないドミの右手がジャージの上から胸のあたりを押さえるところが見えた。
『ああ、何か儀式ですかねぇ。いま、佐藤選手が胸をひと撫でするような、祈るようなしぐさを見せました』
『士気を高めているんでしょうか……表情も凛々しく見えます』
 アナウンサーと解説者の言葉に、ふふっ、と思わず笑みがこぼれてしまった。
 試合が始まる直前や、チームメイトがフェイスオフに臨む時、ドミはよくこうして自分の喉元から胸にかけてするっと触れる。
 べつに話し合って決めたわけじゃないけど、その理由を知っているのはきっと――わたしだけだ。
 かつっ、とパックがセンターサークルに落とされる音がして、試合が始まった。画面越しに見ているだけでも首のうしろから身体が熱を帯びてきて、化学反応みたいだと思う。
 この瞬間を味わうために、ホッケーを見ているのかもしれない。
 そう言ったら即座に笑われた。
 ――なに言ってやがる、勝つためだろ。
 ……まあね。プレイヤーたちはきっとそうなんだろうけど。
 観ているほうは、それだけじゃないんだよ。
 どう考えたって人間業には見えないグレートセーブとか、早すぎちゃってうかうか瞬きもしてられないスラップショットとか。
 誰かさんがよく見せる、挑発ばりばりのバックスケーティングとか。
 チェコは正統派って感じのプレイが多いから、乱闘になだれこむことは少なくなったけど、それでも熱いスポーツってことに変わりはなくて。
 わたしはまたひとつ、熱いため息を、こぼさずにいられなくなる。
『……さあ、ここは得意のバックスケーティングで2対1のフォーメーション』
『デッドアングルに追い込んで、がっちりと防いでもらいたいところですね』
 解説者の声が聞こえたかのように、相手チームのセンターが加速する。
 こういう場面をリンクで目にした時も、何度も巻き戻して柔らかい鉛筆を使って好きなだけクロッキーをとれたらいいのに。
 スティックからグローブ、ジャージの袖がよれてシワがよる様子までラインをとり、紙に描き写してしまいたい。
 メットのすそから見える黒髪と表情の陰影は硬い鉛筆で斜線を引いて、対戦相手とガラス越しの観客はアウトフォーカス。
 一直線の視線の先にはパック。
 あの鋭さが、どうしても再現できないのがもどかしい。
 全神経を集中してクロッキーをとっても、目の前で確かめても――家に帰ってきてこの指で緩やかに骨格に触れても。
 画面の中を横切る彼は遥かに鋭利で強靭だ。
 ……右手の指先がむずむずしてきて、鉛筆を持つ構えになった。
 くやしい。
 ここにいるのに。
 すぐそばに。
 自分のいちばん大事な男ひとり、見たまま感じたままを忠実に表現できないなんて。
 はぁ、と息をついて、背後を振り返る。
 リビングにでんと置かれた大きなベッドの上、スノーフレイクの模様が入った毛布にくるまりながら、テレビの画面の中を縦横無尽に動き回っていた大男が寝息をたてている。
 ……まあ、この人を紙一枚で表現しようとするってことが、とうてい無理な話なのかも。
 音をさせないようにゆっくりと近づき、長い前髪の間からのぞく寝顔を盗み見る。
 だって、いっしょに暮らしだしてから発見したんだもの。
 ドミの肩甲骨って、ものすごくきれいなんだってことを。
 人間の体は、支障はなくてもどこかに歪みがあったりして対称ではないことが多いけれど、ドミほど左右対称の体の持ち主は探したってそういるものじゃないと思う。
 何十何百とデッサンを描いた者から見ると、理想的ともいえるほどだ。
 ――……な、もしかして、俺の骨格が目当てで結婚したわけ?
 複雑そうな表情でそう訊かれて思わずふきだした。
 理想のカラダをいちばん近くに置きたい、って気持ちは確かにあるけど。
 でも。
 本当のところは、そういう要素は後から全部くっついてきたんだよ――。
 しゃり、とかすかな音をさせて、ドミのTシャツの襟元からこぼれ出たボールチェーンのネックレスを人差し指にからませる。
 少しひっぱると、ビーズの指輪が姿をあらわした。
 いつもはジャージの下に隠れたままのその存在に、抑えようと思っても口元がにやけてしまう。
 クロスのペンダントを着けている選手は多いけど、ビーズの指輪でも役に立ってるといいな。
 そう思いながらわずかに鎖を引き寄せた時、つけっぱなしにしていた背後のテレビから、わっと湧きあがる歓声が響いた。
 長い前髪にまつげが当たって動く気配がする。
 キスを落とすのは、くちびると左耳とどっちにしようか迷っていたそのほんの一瞬のうちに。
 まぶたが開き、深い色の瞳がわたしを見つけて、しゅうっと笑みがこぼれた。

 

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