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* 第5話 星がささやくまで *


I won't ask you any more. Just once.
何度もなんて頼まない。一度だけでいい。

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 初夏の夜風がゆるやかに吹いて、髪を揺らしていった。
 泣くつもりなんかなかった。
 慎也の胸のうちを知っても、もう俺にはどうすることもできない。それでも、彼の慟哭にも似た気持ちを知ってしまったことで、安心している自分がいた。
 しっかりと生きて、母を愛し、一政と関わり、俺を慈しんでくれてたんだと。
 どちらが本当の父親でも、俺は感謝こそすれ、後悔なんかしない。
 命を授かって、今まで生きてきたことを――。
 涙したことでこんなに爽快になれるんだと思ったのは子供のころ以来だった。  
 軽い音をたてて、スクーターが一台、坂道の下のほうを通り過ぎていくのが聞こえる。
 庭園の中の、ライトアップされた新緑。石灯籠。アジサイの葉擦れの音――。はっきりとはわからないけど、確かに気持ちを落ち着かせてくれる要素が俺の遺伝子の中に染みわたってゆく。
「……ねえ、前に言ってくれたよね」
 石のベンチに座っている俺と、正面に立っている多佳子。まだ片手の指先をつなぎあったまま、彼女は続けた。
「『きっとすべてうまくいく』って」
 黙ったままで、地面から少し目を上げる。
「不思議だよね、あの時……聞いてると、ほんとにそんな気がしたの。大丈夫、きっとうまくいくからって……魔法みたいだと思った」
「……魔法の言葉?」
「そう。あんなにすんなり信じられたのは初めてだったの。理由とか理屈とか関係なく」
 なんだ、考えてることは同じなんだな。そう思って安心した。
「トニーが」
「え?」
「昔、トニーが言ったんだ……信じて口に出せ、って」
「……どうして?」
「言ってるうちに、本当になるから。もしかしたら、暗示にかかるのかも……だから、困った時はよく言ってたんだ。『大丈夫、きっとすべて、うまくいく』って」
「それって、英語よね?……何て言うの?」
「――It's okay. Everything's gonna be all right.」
 早口の英語になった。多佳子の耳にはどう聞こえたんだろう。
 たとえば聞き取れなかったとしても、言葉はやっぱり口に出さないと伝わらない。速さや息継ぎの位置、声の強弱。そんなものでも、もしかしたらこちらの意図を拾ってもらえるかもしれない。
 状況は何も変わらなくても、話してみることで、心の天秤の揺れが落ち着くこともあるんだな。
 そう気づくと今度は、ここへ寄ろうと言ってくれた多佳子の気持ちもわかった気がした。
 やさしい人だと思った。
「……本当だ」
「なあに?」
 やわらかな問いかけが俺の心を引き上げてくれる。
「話せばラクになるかも、って。本当だな。さっきまでの……世の中ぜんぶに絶望してるみたいな感じはなくなった」
 腰かけたまま、両膝をまっすぐにして多佳子の周りを足で囲う。
「……平気?」
「平気」
 真似をしてみた。言葉に出すと、思っていたよりもっと平気になれそうだった。
「多佳子の愛情もらったから」
 ……これも実現可能だろうか。そう考えながら口にすると、赤くなったのが夜目にもわかった。
「あ……愛情なんかあげてないでしょ!」
「言われた気がするんだけど」
「何をよ?」
「俺が好きだって」
「なっ――」
 あわてて指を離す。その狼狽ぶりにニヤニヤしながら、多佳子の両脇に投げ出していたジーンズの脚をサッと狭めるふりをした。
 少し驚いた体が傾き、その拍子にバランスを崩して右手が俺の肩をつかまえた。
「おっ、ラッキーな展開」
 きみのほうから寄りかかってきたんだぞと強調しながら、そっと腕を取ってベンチから立ち上がる。
 半歩前に進むだけで多佳子の体は腕の中に収まった。
「やっ、ちょっと、離して!……キライ! 迅一郎なんてキライ!」
 ぐいっとつっかい棒をするようにTシャツの胸を押し返してくる。
 ハイハイ、その言葉が本当かどうか試してみようか。
「じっとしてろって。動かなきゃ何もしないから」
 多佳子がぐっと口をつぐむ。
 ――やっぱり。
 やっぱりこの人はそうなんだ。
 そう考えて思わず口元がゆるんだ。
 参ったな。
 本気で抱きしめたくなってきたぞ。
「……ごめん、バレた、一政さんに」 
「えっ? 何が? どのこと?」
「俺がきみに好きだって言ったこと」
 ゆっくりと両腕で囲い、背中に触れながら言った瞬間、多佳子の体がぴんと伸びた。
「すごい警告受けた。外国人と恋愛させるわけにはいかないって。年下男には手に負えないだろうってさ」
 息を吸いこむ気配がした。
 だけどそれは一政の言い分だ。彼と同じように、俺には俺の言い分があるんだ。
「……年が離れてても育ってきた環境が違っても、そんなのどうでもいい。黙って言いなりになってもならなくても、失望なんかしない。俺はこんなにきみが好き」
 押し返そうとしていた細い腕から力が抜けた。それで、鼓動が重なるくらい近づいた。
「思うだけなら、罪じゃないだろ。ずっと好きでいられるなら、他には何も欲しくない」
 本気だった。
 人の気持ちを裁くことなんて、法律でもできやしないんだ。
 いまこの場には俺たちふたりしかいない。聞いているのは多佳子だけだ。言ってしまいたかった。
「もう……どうしてわたしなのよ」
 震えた声で言い、下を向く。
「何でも持ってるくせに……迅一郎は、学歴も仕事も将来も、ぜんぶ約束されてるじゃない。わたしみたいな女に気をとられて、大事な未来をだめにすることないのに」
「だめにするって何だよ? 本気でそんなこと思ってるのか?」
 予想もつかなかった言葉を返されて苦笑いがこぼれる。
 視界をクリアにして、見るものすべて天然色に塗りかえてくれたきみが『未来をだめにする』なんてこと、あるわけないじゃないか。
「だって……もっと若くてきれいで似合う女の子が、アメリカに帰ればたくさんいるでしょ」
「だからなに? そういう女の子を好きになるかどうかは別問題だろ」
 今度こそ多佳子が押し黙る。
 下を向いている表情は髪に隠れて見えない。
「俺の未来なんかぜんぶ多佳子に差し出すよ」
 本気だった。
 誰にも渡したくないと思った。
 もしそうできなくても、彼女のために生きることで俺の人生が意味のあるものになるってことを、わかってもらいたかった。
「どんなに遠くにいても、もう他の誰も好きにならない。あなたしか欲しくない。これからの人生なんか――どれほどあなたに費やしたってかまわない」
 地球のこちら側とむこう側とに離れてしまうとしても、絶対に誓える。
 これからは、たった一人のために生きることを。
 自分が中途半端だと思ってたいままでの気持ちは、すべてここにつながるための動機に過ぎなかったんだってことを。
 痛かったことも苦しかったことも、出会えたことでこんなに大きなうねりになって、前へ行けと押しやってくれることを。
 霧がかかったような俺の足元に風を吹き込んで、これから進む道筋を照らしてくれたのは。
 いま目の前にいる――多佳子なんだってことを。
 彼女がひとこと放ってくれたなら、最後まで抑えようと思っていた堤防が決壊しそうだ。どこまで流されて翻弄されても良かった。
 その言葉が欲しかった。
 こんな時、日本語でなんて言えばいいんだろう。
 意識を総動員して考えたけど、うまい言葉なんか何も思いつかなかった。
 かわりに英語のフレーズが浮き上がる。
 ――I won't ask you any more. Just once.
「……なあ、何度もなんて頼まない。一度だけでいい」
 背中から抱えこんで、胸に引き寄せる。
 お互いの髪が触れあって音を立てた。
 ――Say you love me. Say I'm the only one you love.
「俺が好きだって言えよ。好きなのは俺だけだって……そう言えよ」
 こんな恋なんか、きっともう誰ともできやしない。
 多佳子のまっすぐな髪に指をからめて梳いた。
 心臓が、痛いほどに揺れ動いていた。

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